僕は椅子になりたい
動画は、瞬く間に校内に拡散された。50万という、高校生には到底不可能な大金を鳳たちが要求したのは、最初から僕に支払わせるためではなく、僕を完全に壊すための口実だったのだろう。今はまだ生徒たちのスマホの中に留まっているのが唯一の救いだったが、僕の世界はすでに音を立てて崩壊していた。
「あの動画、めちゃくちゃ好評だぜ。明日は第2弾を撮影するからな。どんなプレイにするか、楽しみにしとけよ」
翌朝、僕の席にやってきた鹿島が、耳元で毒を吐くように囁いた。それは、金を用意できなければ、さらなる屈辱にまみれた地獄を次々と世界に晒すという宣告だった。僕は限界だった。早く死にたい。この苦しみから、ただ消えてしまいたい。
次の日、僕は初めて学校を休んだ。どんなに殴られても、水をかけられても、父親を悲しませたくない一心で通い続けた皆勤賞という名の仮面を、僕は自ら脱ぎ捨てた。自尊心を粉々に踏み荒らされるあの動画の続きを撮られることだけは、どんな暴力よりも耐えがたい。僕は家を飛び出して電車に乗った。どこか遠くへ行きたかった。けれど、逃げる場所なんてどこにもない。逃避行の終着駅は死しかないことを、僕は分かっていた。
ガタンゴトンと揺れる車内。僕は電車の座席に深く沈み込み、これまで何度も、何100回と思い描いてきた死に方を反芻していた。ただ首を吊ったり、飛び降りたりするだけの自殺は嫌だった。お父さんにいじめられて死んだ哀れな息子と思われたくない。せめて、死ぬ時くらいはかっこよく。お父さんが僕の死を知った時、少しでも誇りに思えるような……。ふと、目の前に座っている親子が目に入った。40代くらいの父親と、まだ幼い女の子。2人は仲良さそうに笑い合い、穏やかな時間を過ごしている。
僕は妄想する。
(……もし今、この電車に無差別殺人鬼が現れて、あの女の子に刃物を向けたら。僕は迷わず飛び出して、身を挺して女の子を守るだろう。漫画の主人公を助けて散っていくサブキャラのヒーローのように、誰かの命を救って死ねたなら、それは自殺よりもずっとかっこいいはずだ)
そんなこと、起こりうるはずがない。この半年間、僕が自分を慰めるために弄んできた、空虚な妄想に過ぎない。そう思っていた、その時だった。
「お前ら、全員殺してやるッ!!」
静かな車内に、耳をつんざくような奇声が響き渡った。少し小太りの中年男性が、鞄から抜き放った包丁を振りかざし、狂気に満ちた叫びを上げていた。車内は一瞬でパニックに陥った。悲鳴が上がり、凍りつく者、隣の車両へ雪崩れ込む者。その混沌の中で、僕の時間だけが止まったかのように、全ての現象がスローモーションに見え始めた。男は、最初から獲物を定めていたかのように、僕の目の前の親子――あの女の子へと突進した。
(あ……)
迷いはなかった。恐怖よりも先に、胸の奥でこれだという確信が弾けた。頭の中で何100回もリハーサルしてきた光景。僕の体は、僕の意志を追い越して、勝手に跳ね起きていた。銀色に光る刃が、幼い命を刈り取ろうと振り下ろされる。僕は叫ぶこともなく、ただ夢中で、女の子をかばうようにその小さな体へ覆いかぶさった。
ドスッ、という、肉に金属がめり込む鈍い衝撃。
熱い何かが、僕の背中を突き刺す。
「……あ、……」
痛みは感じなかった。ただ、今まで感じたことのないような、深い、深い達成感が僕を包み込んだ。女の子の怯えた瞳が見える。その瞳に、僕はどう映っているだろうか。お父さん。僕は、お父さんの財布からお金を盗むようなダメな息子だったけど。最後だけは、かっこよく死ねたかな。遠くで誰かの悲鳴と、電車のブレーキ音が聞こえる。視界が急速に狭まり、暗闇が迫ってくる。僕は満足して、ゆっくりと瞳を閉じた。
けれど。
真っ暗な闇の底で、奇妙な声が響いた。
『……君は、生まれ変わったら何になりたい?』
僕は即決だった。一秒の躊躇もなかった。 もう、人間になんてなりたくない。誰かを恐れて自分を削りながら生きる人という生き物には、もう二度と。
「……雨野さんが座る椅子かな」
僕は心の中で、そう答えていた。 あの日、彼女に最低な言葉をぶつけてから、僕たちの世界は完全に分断された。もう二度と彼女の側に行くことも言葉を交わすことも許されない。けれど、かつて遠くから、空気のような存在として彼女を眺めていた時。僕はいつも、彼女が腰掛けているあの椅子が羨ましかったんだ。 心も感情も持たず、ただ静かに彼女の重みを受け止め、彼女を支え、ずっと側にいられるあの場所が。 もし、生まれ変わることができるのなら。言葉も、傷つく心も持たない物になって、今度こそ、ただ静かに彼女を支えていたい。
僕がそう願った瞬間、闇がさらに深く、重く沈み込んでいった。
『……分かった。それが、君の望みだね』
その声を最後に、僕の意識は完全に消えた。 それは、白井雲という1人の少年の人生が、永遠の幕を閉じた瞬間だった。




