転生したら椅子だった
視界に飛び込んできたのは、見慣れた、けれどどこか遠い白。それは僕が通い慣れた青天高校の清潔な教室の白い天井だった。
(……あれ?)
僕は、天井を見上げたまま固まっていた。どうして、僕は教室の床に寝そべっているんだろう。僕は最後に何をしていたんだっけ。酷く熱い、焼けるような痛みがあったような気がするけれど、今は不思議と何も感じない。とりあえず起き上がろう。そう思って、僕は意識を筋肉へと飛ばした。
しかし、体は動かなかった。指1本、眉間の一点さえも、自分の意志が届かない。
(どうして……? 動け、動いてくれ!)
焦燥が、冷たい汗のように背中を伝う感覚、いや、その感覚さえない。手を動かそうとした。足を動かそうとした。けれど、僕の脳がいくら命令を送っても、そこにあるはずの肉体の感触が、暗闇の中に溶けて消えたように何も返ってこないのだ。
おかしい。何かが、決定的に狂っている。
僕は落ち着こうと努め、今の自分の状況を客観的に観察しようとした。そして、心臓が凍り付くような事実に直面する。
(手も……足も……ない?)
僕の視界の端に映るべき、自分の腕がない。膝がない。見えるのは、澄んだ朝の光が差し込む無機質な教室の景色と、整然と並ぶ机。そして……椅子。 僕はパニックになり、目をキョロキョロと激しく動かした。その時、さらなる異変に気づいた。
(視界が……広すぎる。いや、違う。これは……)
首を振っているわけではない。視点そのものが、物理的な限界を超えて移動しているのだ。パノラマ写真のように歪んだ視界。僕は自分の意識を必死に手繰り寄せ、今、自分がどうやってこの世界を見ているのかを突き止めようとした。
首はない。
体もない。
顔も、皮膚も、肉もない。
では、僕は幽霊にでもなったのだろうか……。ふわふわと浮遊し、生身の人間には干渉できない悲しい魂。そんなオチなら、まだ救いがあったのかもしれない。だが、現実はそれよりも遥かに滑稽で、おぞましいものだった。
僕は気づいた。
僕の視界は、四角い木製の板の端から伸びていることに。僕の体は、冷たい合板と、頑強なスチールパイプで構成されていることに。重力に抗って立つ4本の細い脚。誰かの背中を受け止めるために、少しだけ反り返った硬い背もたれ。
僕は椅子だった。
その事実を脳が拒絶しようとしても、4本の脚から伝わる床の硬い感触が、非情なまでに現実を突きつけてくる。 僕は混乱する意識を必死に立て直し、教室の壁に掛けられた時計を仰ぎ見た。針は、午前8時10分を指している。
(8時10分……。来る。もうすぐ、彼女が来る)
僕は知っている。この青天高校で、誰よりも早くこの教室に足を踏み入れる人物を。容姿端麗、頭脳明晰、品行方正、明朗快活、スポーツ万能。彼女を形容する言葉はいくら並べても足りない。僕たち男子生徒にとって、空の上を流れる雲を掴むよりも遠い存在。
雨野 雫。
僕のクラスメートであり、この学校のアイドル。彼女は毎朝、誰よりも早く登校して、教室の花瓶の水を替えたり、窓を開けて空気を入れ替えたりするのが日課だった。案の定、静まり返った廊下の向こうから、コツ、コツ、と硬くも軽やかな足音が響いてきた。その規則正しいリズムを聞くだけで、僕の視界が心なしか熱くなる。僕は、自分の置かれた状況を再確認するために必死で意識を集中させた。
僕という名の椅子は、今、教室のどこに配置されているのか。僕はクラス全員の椅子の位置を把握しているわけじゃない。けれど、たった1つ、彼女の席だけは嫌というほど脳裏に焼き付いている。パノラマのように広がる視界を、教室の座席表へと重ね合わせる。窓際、後ろから2番目。
そこは、僕が何度も、遠くから盗み見ていた彼女の指定席だった。
(嘘だろ……。僕は、雨野さんの椅子、なのか……?)
僕の居場所は、彼女が毎日座り、その体温を預ける、まさにその場所だった。ガラガラ、と小気味よい音を立てて教室の扉が開く。差し込む朝日に照らされて、1人の少女が姿を現した。




