1.地獄の底で
少女は、また一つ、死体を穴の底へと放り投げた。
どさり、と鈍い音を立て、屍の山が積み上がる。今日はこれで、五人目。埃のような粉雪が舞い上がり、地上へ溢れることはなく。蓋をして覆い隠すように、また降り積もる。
否、雪と呼ぶべきですらない。温度が無かった。少女の手足には霜焼けもなく、裸足で地面を踏めば、柔らかい砂のような感触が返るだけ。ほう、と吐く息には色もなく、宙を舞う、雪モドキの粉をいくばくか揺らして、静かに溶けて消えていく。
空を覆い尽くす、厚い雲ばかりが、取って付けたように黒かった。この廃墟を、三ヶ月もの間、白と黒に塗り潰し続ける。晴れることもない雲モドキ。
何もかも壊れた世界だけが、ここにあった。
少女は、死にゆく者たちの憐れな末路を見届け、小さく息を吐く。
せめて、これが。
彼らにとって、最期の救いであるように、と。
『獣共には、過ぎた葬送だ』
声に振り返れば、獣が人の死体を貪っていた。
下敷きにした屍を、顎と前脚で力任せに引き裂いて、血と肉を撒き散らしている。哀れな獲物が食い散らかされ、肉片と成り果てていく様を、少女はしばし眺めていた。
じゃり、と耳障りな音を鳴らし、右足を前へ踏み出す。次いで左足。また右足。繰り返す。僅かに血を滲ませる足跡を引いて、正体を失ったような覚束ない足取りで、ゆっくり、一歩ずつ。相も変わらず血肉をぶちまける獣へと、歩いていく。
止まった。
目と鼻の先に、小さな少女の身長ほどもある獣の頭が、血に濡れながら揺れている。獣はようやく少女に気付いたのか、悠然と、あるいは気怠げに、首を持ち上げる。
間近には案外つぶらに見える、縦に裂けた赤の瞳が、少女の暗い青と交わる。
鼻先が、少女の胸前に突きつけられ。
『――痛えッ!?』
伸びに伸ばした太ゴムを弾くような破裂音と共に、真後ろへ仰け反った。
獣が首の下、僅かに涙の滲む視界で見下ろせば、目を眇めた少女が、元々獣の鼻先があった位置に右手を置いている。弾いた後の、デコピンの形で。
『テメ、何しやがる!』
「人は、食べちゃダメ」
皮やモツや骨が挟まる牙を剥き出し、赤黒く濡れた唾を飛ばして獣が吠えても少女はどこ吹く風。心底不機嫌ですと両手を腰に当て、一層平坦な声音で続ける。
「人は、食べたらダメなの」
『獣だ』
少女を睨み返し、獣は死体の上から退く。抑え込んでいた前脚が外されれば、苦痛に歪んだ女の顔が露わになった。その頭の上からは、二本の兎のような耳が生えている。
「この人は、獣人種だよ」
『違う。下だ』
獣が差す、爪の先。貪られた腹の下から伸びる脚の片方、右脚だけが、衣服を裂いて醜く膨れ上がり、毛むくじゃらになっている。
『獣だ。この脚で蹴られた。だから殺した。食っていいはずだ』
間違っているか? 何も言わず、ただ立ち尽くす少女へ、獣は問う。
いつまで待っても答えはなかったから、また食事を再開した。皮を裂き肉を千切り骨を砕く。髪の毛の一本とて、この場に残さず喰らい尽くす。
『ああ、それと』
目を逸らすように俯いていた少女が、僅かに顔を上げる。
『さっきお前が穴に放り込んだ死体も、獣だ。妙な目で睨まれて、痛かった』
少女は、ゆっくりと振り返る。
思い出したのは、死体の、左側だけ不自然に伸ばされた前髪。
「食べちゃ、ダメなんだよ」
『人なら、な』
確かめる気には、ならなかった。