3 化け物
震動と地鳴りの続く廊下を進みカルマがたどり着いたのは、地下室へと続く入り口だった。
心臓が早鐘を打っている。不自然なほどに息が苦しい。にもかかわらず、カルマの足は勝手に動いた。
この先にいったい何があるのか。
降りた階段の下で待ち構えていたのは、鍵の代わりに鎖が付いた鉄製の扉だった。
鎖を外し、両手でそっと押し開ける。
その見た目に反してあっさり動いた扉に肝を潰しながらも、意を決して中に足を踏み入れた。
暗く冷たい場所だった。
薄い寝巻きの上にかろうじて毛糸の上着は羽織ってきたものの、ずいぶんと肌寒い。冷蔵室の中にでも迷い込んだような気分だった。
視界を失わずに済んだのは、部屋のいたるところに浮かぶ丸いカプセルのような何かが発光し、微かな照明の代わりを果たしていたからだ。
「これは……」
透明な球体だった。
大きさはバラバラで、人間の頭部ほどの小型のものから、大人ひとり入りそうな大型のものまでいくつもある。
「ひっ……」
部屋の入り口から最も近い位置に浮かぶ、カルマの身長の半分ほどの直径のカプセル。その内部にあるものを見たカルマは息をのんだ。
とっさに口を塞いで声を抑えた。
激しい動悸。唇がひりつき、足が震える。
カプセルの中にいたのは、化け物だった。
髪の毛のない頭に、二本の腕と二本の脚。
胎児のように丸めた背中や、腕の間から覗く膝小僧は、形だけなら人間に近い。
だが、右の腕は関節が異様に細く、左の腕は所々に穴のようなものが開いていた。背中には不自然な窪みがあり、脚の長さも左右で微妙に違っている。
何よりカルマをぞっとさせたのは、そのからだを覆う皮膚全体が、灰のように乾いた色をしていたことだ。
白でも、黒でもない。
中途半端で歪な色。本の挿絵で見たことがある。
「灰色人……?」
無意識のうちに呟いていた。
その声に反応したのか定かではないが、カプセルの中の化け物が、歪んだ肩をぴくりと揺らす。
その影がゆっくりと頭を上げた。透明な球体の内側からカルマをとらえる二つの目玉は、どろりと淀んだ灰の色に染まっていた。
「……!」
あまりの恐怖に、カルマは思わず後ずさった。今度は声も出せなかった。
なぜここに灰色人がいるのだろう。
封印される間際の〈灰色の子〉が残した化け物が、四百年経った現在でも人々を苦しめていることは知っている。世界を知る手段が読書しかなかったカルマですら、その恐ろしさに対する理解は十分にあった。
だが、それはいまこの場所に化け物がいる理由の説明にはならないはずだ。
「なぜ恐れる? お前が生んだおもちゃだろう」
背後の扉がばたんと閉まった。
はっとして振り向くと、地下室の入り口を塞ぐようにして立つ人の影が目に入る。
「叔父、さん……」
カルマの叔父であるロニ・セローだった。
彼は一ヵ月前に会ったときと変わらぬ白衣姿で、薄い笑みを浮かべてカルマの顔を見つめていた。
「この地下室は、いったいなに? ここにいるのは……」
「見てのとおり灰色人さ。かわいいだろう」
戸惑うカルマにかまわず、ロニは自身の右手側にあるカプセルに視線を移した。
愛おしそうな表情で彼が見たのは、その球体の中に浮かぶ灰色の塊だった。
「なんで……それがこんなところにいるの。この地震といい、何が起こってるの?」
「灰色人と呼ばれる化け物がなぜ生まれたかは知っているだろう。お前は博識だからな」
カルマの質問には答えず、両手を広げてロニはカプセルに近づいた。
「白血と黒血が交わることは禁忌とされている。生と死という相反する力を持つ者たちの間に生まれる子供は、魂のかたちが歪み醜い化け物になってしまうからだ」
球体の表面をそろりと撫で、ロニが笑う。
淡い光に照らされた知らない他人のような横顔を、呆然とカルマは見つめた。
「だが、ノワールとブランの子はちがった。正しく人間のかたちを保って生まれてきた。その代わりとでもいうように、〈灰色の子〉と呼ばれた彼らの娘には人を怪物に変える力があった」
ノワール。
ブラン。
〈灰色の子〉。
『創灰神話』にも記される、四百年前の悲劇の中心人物たちだ。夫のノワールは黒血で、妻のブランは白血だった。
白血。黒血とは正反対の、白い血を持つ人間。
光のように眩しい純白の血は、触れた者のあらゆる傷病を完治させる。
故に黒血と白血の扱いの差は歴然だった。
前者が人々から忌み嫌われ、隠れて生きていくことを余儀なくされる一方で、後者は神の使いとして崇拝の対象とされるのだ。
そんな、立場も能力も対照的な二人の間に生まれた〈灰色の子〉には、人を化け物の姿に変える灰色の血が流れていた。
「娘を恐れた両親と、その協力者たちによって〈灰色の子〉は封印された。肉体をばらばらに切り裂かれてな。──可哀想だと思わないか? ノワールとブランは、自分たちが禁を犯してまで生んだ子供を一方的に否定したんだ。そんな親のもとに生まれた彼女こそが、いちばんの被害者だろう」
「それは……」
ロニの言うことは理解できる。
けれど、なぜ彼がいまその話をするのかはわからない。
「〈灰色の子〉が最後に残した魔力によって生み出された異形の化け物。それが灰色人だ。いわば彼女の復讐の道具なんだよ。ヘレネの悲劇を起こしたのは〈灰色の子〉じゃない。少女の両親たちだ」
「復讐……」
「その道具を排除しようと躍起になる連中がいてな。黒十字騎士団。彼らによって灰色人は破壊される。生まれても、生まれても、生まれても──」
カルマはごくりと唾をのんだ。
何か恐ろしい話を聞かされている。そんな確信が胸中を支配した。
「だから私は、彼女の玩具を増やしてやることにした」
は、とカルマは短く息を吐く。
ロニが触れるカプセルの中の影が、身じろぎをしたような気がした。
「だがやはり本物には敵わなくてな。騎士団はその個体に亜種と名付け容赦なく駆逐してくる。苦労したよ。どうすれば原種──〈灰色の子〉の呪いによって生み出される実際の化け物に近づけられるのか、二十年近く研究を続けた」
「……ま、待って!」
ロニはカルマの方を見ない。
彼の視線は、依然として球体の中の灰色の塊に注がれていた。
「研究ってなに。叔父さんがしてたのは、黒血病の治療法を見つけるための研究じゃなかったの」
「いいや」
途端に鋭くなった声がカルマの胸を刺す。
被せるような否定の言葉に瞠目し、カルマは叔父の顔を凝視した。
「私の目的は、人工的に灰色人をつくり出すことだ」
息をのむ。鈍器で頭を殴られたような気分だった。
地下室の状況からして、彼の言葉は疑いようのない真実だ。
けれど、信じたくない。
脳がいくら理解しようと、カルマの心がその事実を否定している。
「嘘……だよね。だって叔父さんは、母さんたちみたいな人がいなくなるようにって、黒血の人たちが迫害されずにすむ世界をつくりたいって……そのための研究だって、言ってたじゃないか」
黒血病。黒い血に触れた者を死に至らしめる不治の病だ。
ロニの姉──カルマの母は、十二年前に黒血病によって命を落とした。父も同様に。カルマが三歳のときだった。不運な事故だったという。
白血の奇跡は、黒血の呪いには効力を示さない。
黒い血に一度でも触れた者には、否応なく死の運命が与えられる。例外となるのは同じ黒血か、相反する性質を持つ白血の人間だけだ。
残されたカルマを引き取ったロニは、自身が立ち上げた研究所で黒血病の治療法を探すことにした。姉のような犠牲者を二度と生まぬよう、世界中のだれもが目を逸らす黒血の呪いと向き合うことをきめたのだ。
「おれの身体が研究の役に立つかもしれないっていうのも、嘘だったの」
勇気を出して叔父に問う。怖かった。失敗作、となじられた日の記憶が脳裏をよぎった。
だがそれ以上にカルマの胸を占めていたのは、信じていたものがあっけなく崩れ去るかもしれないことへの、計り知れない恐怖だった。
「嘘ではないさ。お前はまちがいなく特別な存在だよ」
不気味な笑みを浮かべたロニが、ねっとりとした声で言う。
お前は特別だ。かつて幾度となく聞かされた言葉だった。
三年前に黒血となるまで、カルマは病弱な子供だった。その療養のため外に出ることを禁じられていたのだが、ロニがカルマを特別だと言う理由は他にあった。
黒血が効かない。
つまり例外の例外だったのだ。
白でも、黒でもない。常人と同じ赤い血を持ちながら、黒血の呪いに侵食されない稀有な体質。
だから協力してほしいとロニは言った。骨張った大きな手で幼いカルマの頭を撫で、この研究が成功すればお前は英雄になれる、と。琥珀色の目を細めて笑っていた。
「おれは、叔父さんが黒血に苦しむ世界中の人たちを救いたいって言うから」
「救うさ。すべてを灰色にすることでな。そうだろう? 白も、黒も……赤すらもなくなれば、この世から迫害という概念は消える。差別をなくしたいというお前の両親の悲願も達成されるんだ」
「何を言ってるの」
「そんな顔で見るな。お前も共犯だろう」
カルマが顔を上げると同時に、ぱりんと何かが砕ける音がした。
ロニが触れていたカプセルだった。
粉々になった硝子が、彼の足元で点々と微かな光を放っている。
その上を這うように蠢く灰色の影。
透明な檻から解き放たれた灰色人だった。