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2 異変



 重い瞼を開けると、自分の隣で思い詰めたようにうつむく叔父の姿が目に入った。

 叔父さん? とベッドの上から声をかける。白衣を着た大きな肩がぴくりと跳ね、琥珀色の頭が微かに揺れる。

 彼はゆっくりと顔を上げ、髪と同じ琥珀色の瞳に、戸惑うカルマの顔を映した。

 その淀んだ瞳孔には、普段の彼からは想像もつかないほどの激しい憎悪が宿っていた。


 ──失敗作め


 ぞっとするほど低い声だった。それが正しく自分に向けられた罵倒であることを理解し、カルマは委縮する。

 そして気づいた。これは夢だと。自分はまた三年前の夢をみているのだ。


 ──穢されてしまった

 ──すまないエルサ

 ──姉さん。カルマ。ああ、私は……


 カルマには理解できない言葉をひとしきり呟いたあと、彼がどこかから取り出したのは銀製のナイフだった。

 ひゅっと息をのんだカルマにかまわず、叔父が振り上げたナイフは鋭い音を立てて宙を切った。

 鈍い痛みが腕に走った。見ると、無残に切り裂かれた服の袖を、その下の肌から滲む生ぬるい液体が濡らしていた。

 カルマは思わず悲鳴を上げた。信じられなかった。


 自分の腕から流れる血は、深い夜のような闇の色をしていた。


 視界が反転した。

 先程まで傷口から滲んでいた血の色と同じ暗闇が、カルマの周囲を覆っていた。

 ここはどこだろう。叔父はどこにいったのか。

 痛みの消えた右の腕を左手で押さえながら、カルマはあたりを見まわした。


「!」


 息をのむ。目の前にひとりの少女が立っていたからだ。


「君は、だれ?」


 顔はよく見えない。

 華奢な腕を肩から晒す白いワンピースを身に纏い、裸足のまま、彼女は暗闇の中にいた。

 胸まで伸びた髪の毛は灰色だった。光と闇を半分ずつ内包したような不思議な色。


 ──あなたこそ、だれなの


 少女のまるい頭がゆっくりと傾く。

 カルマは答えられなかった。質問に質問で返されたことよりも、少女の言葉に狼狽える自分がいることに何よりも困惑した。


 わからない。自分はいったい何者なのだろう。


 ずっと知りたかったことのような気がする。少女に投げた疑問は、カルマがいつも自分自身に抱いていた疑問と同じではなかったのか。

 そうだ。教えてほしいのはこちらの方だった。


 ──わたしはあなた。あなたはわたし。そして、いつかわたしになるもの


 意味がわからなかった。

 足元が覚束ない。自分という人間の記憶が、心が、存在が。輪郭ごと闇に溶けていくようだった。

 いや、そもそも人間なのだろうか。自分は──彼女は。

 ドクン、と大きな音が頭に響いた。心臓の音だった。

 どちらのものだろう。わからない。


「君は……」


 最初はぼやけていた少女の顔が、いつの間にかはっきり見えるようになっていた。

 長い睫毛に縁取られた瞳は、彼女の髪の毛と同じ灰色をしていた。暗闇の中で星屑にも似た光を放っているからか、銀色のようにも見える。

 少女の口許が歪に曲がった。

 再び反転する視界。粉々に砕けた硝子の中にいるように、夢の世界が崩壊していく。


 からだが、ばらばらに引き裂かれるような感覚に襲われた。


「……ッ!」


 そこでカルマは目を覚ました。

 上半身を起こす。汗にまみれた両手で胸を押さえる。

 ドクドクと波打つ心臓。

 ズキズキと疼く頭。

 二本ずつの腕と足。

 五体満足だ。裂かれてなどいない。まちがいなく全部ある。

 乱れた呼吸を整えながら、カルマは自分のいる場所が、いつもの簡素なベッドの上であることを認識した。

 どつやらいつの間にか眠っていたらしい。

 壁の振り子時計に目をやると、夕餉の時刻をとうに過ぎていた。

 グレートが気を遣って起こさなかったのだろうが、もう少し早く目覚めていれば、と身勝手なことをカルマは思う。


 またあの夢をみた。

 三年前の夢と、灰色の眼をした、灰色の髪の少女と会話をする夢。


 ──あなたこそ、だれなの


 夢の中では口に出せなかった、質問の答えを思い浮かべる。


 自分の名は、カルマだ。

 カルマ・フローライト。十五歳。


 両親はいない。

 生まれつき身体が弱く、叔父のロニが立ち上げた研究施設で、物心ついたときから療養生活を送ってきた。

 身長はおそらく平均。体重はもう少し欲しいと思っている。はねやすいのは難点だが、亡くなった母親譲りだという叔父と同じ琥珀色の髪の毛は気に入っていた。

 その叔父とはもうしばらく会っていない。

 最後に顔を合わせたのは、グレートではなく本人がカルマの血を採りにきた一ヵ月ほど前だったと記憶している。


「失礼します」


 部屋の扉を叩く音がした。間を空けて、一人の女性が入室してくる。

 その手が持つトレイの上には、今晩の夕食であろうパンとシチューの皿がのせられていた。


「グレートさん。ごめんなさい、寝ちゃってました」

「それはかまいませんが。体調が悪いのですか」

「いえ、大丈夫です」


 ベッド傍の台の上にことりと食事を置いた女性を見上げ、カルマは微笑む。

 鮮やかな赤毛を後ろで束ねた女性──グレートは、この屋敷の使用人だ。

 雇い主はロニ。レザールというこの町に越してきた三年前から、カルマの生活の面倒は基本的に彼女が見ている。

 食事や風呂、排泄の世話。ロニが研究に使用する血の採取。定期的な身体検査。交流らしい交流は特にない。

 グレート以外の屋敷の人間とはほとんど会話をしたことがなく、この三年間カルマはひとりだ。

 前の屋敷に住んでいたときに出会った唯一の友人とも、音信不通になってしまった。


「あの、グレートさん。叔父さんは……」

「相変わらず研究室に籠もりきりです。ああでも、あなたに新しい本を買ってやれと頼まれましたよ。いまあるものはすべて読み尽くしただろうからと。リクエストはありますか」

「……」


 膝にかかる布団を強く握りしめ、カルマはうつむく。


「……おれが自分で買いに行くのは、だめですか」


 カルマは屋敷の外に出ることを禁じられている。

 筋金入りの読書家になったのもそれが理由だ。ベッドの上での生活を余儀なくされるカルマが退屈しないようにと、ロニが大量の本を買い与えてくれたことがきっかけだった。

 かつては療養のために外出を禁止されていた。

 だが、現在のカルマは健康体である。頻繁に発熱し、とまらぬ咳をくり返していたあの頃とはちがう。

 それでも外に出られないのは、三年前に他の理由が生まれたからだ。


「それは無理です。あなたは()()なのだから」


 感情の読めない瞳を光らせ、グレートは首を横に振った。


 黒血。触れた者を死に至らしめる呪いの血。


 その血を持つ人間は、世界に数えるほどしか存在しないとされている。

 本人の外見からは判断できない。体内を流れている間は常人と変わらぬ赤い色をしているが、わずかにでも空気に触れると変色するのだ。

 闇のような純黒に。

 その恐ろしさから、世界中の人々に忌避される黒血。以前の屋敷で出会った少年、ナナギもそうだった。


 しかし、ナナギとカルマの立場は同じではない。

 両親が黒血である純血の彼とはちがい、カルマの黒血はあくまで後天性のものだからだ。


 三年前、カルマは突如として黒血になった。


 原因はわからない。だが、失敗作だとロニに罵られたのはそれが理由だ。カルマは彼の期待に応えられなかったのだ。


 ──私の研究が成功すれば、お前は英雄になれる


 かつてカルマの頭を撫でながらそう囁いたロニは、もういない。


(おれは、いったい何なんだろう。叔父さんの役に立つことも、外に出ることもできないで──)


 黒い血を持つ人間は常人より身体能力が高く、肉体も丈夫であるという。

 皮肉にも、黒血になったことでカルマは健康な体を手に入れた。広い外を走り回ることも、まだ見ぬ遠くの町に行くことも、いまなら可能であるはずなのだ。

 ナナギに会いに行くことだって。


 唇を噛みしめ、カルマは視線を膝に落とす。

 グレートは何も言わない。冷めかけたシチューの匂いと、沈黙が混ざり始めたとき。


 轟音が、カルマの鼓膜を貫いた。


「な、なに……!?」


 空から隕石が落下したような、尋常ではない物音だった。

 実際、屋敷そのものが大きく揺れた。

 カタカタと震えるベッド。天井から降ってくる埃と瓦礫。広くはない部屋のあちこちに積み重ねられた本の山が、次々と雪崩を起こした。


「様子を見てきます。あなたはここにいてください」


 グレートが部屋を出て行く。

 取り残されたカルマは、その背中が消えた扉を、しばらくの間呆然と見つめていた。


「!」


 ドオンと、二度目の揺れが屋敷を襲った。台の上からひっくり返る夕食の皿。

 いったい何が起こっているのかと、戸惑うカルマが天井を見上げたときだった。


 ──こっちだよ


 声が、聞こえた気がした。

 頭の中に直接響いてくるような、か細い少女の声だった。


 布団を抜け、ベッドから降りる。

 呼ばれていると思った。自分はそこに行かなくてはならないと。


「……君はだれ……?」


 冷たい床に足をつくと、どくりと心臓が軋む音がした。

 これまでなら触れることすら躊躇していた、外へと続く部屋の扉に手を伸ばす。


 鍵はかかっていなかった。



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