元・深窓の令嬢の越境
前世花粉症で亡くなったらしい、杉山花恋は、ポラン・カラニーナとして転生した……はすだった。
ポラン公爵の娘ではないと発覚したカラニーナ改めギヤは、紆余曲折を経て、ポラン公爵邸から逃亡した。
私服姿で、気配を消したギヤは、全く誰からも怪しまれることもなく、するりと屋敷を抜け出した。
ここまでは大変順調であった。
そう、順調すぎるほどに順調だったのだ。
……ここまでは。
屋敷を出た瞬間、ギヤは体全体で感じでいた。
花粉を。
そう、ここはシードァ神聖国の中でも、王都の次に神聖である(花粉の飛散量の多い)ポラン公爵領なのだ。
年中花粉をまき散らす杉が群生しているこの土地は、市街地であろうとも、花粉は舞いまくっている。
何なら、街路樹もすべて杉であるほどの徹底ぶりだ。
花粉症のギヤにとっては、最悪の環境である。
街のメインストリートは、花粉が飛散しているさまが目視できるほどの地獄であったため自然と、ギヤの足は裏通りに向かった。
裏通りは、太陽の光が建物に遮られ、日陰になっており、空気も何だか湿っぽい。
その上に、花粉の飛散量も控えめであるため、現地人は見向きもしない場所である。
そこにいるのは、爪弾きにされたものや、住む家を追われた者、そして……。
ギヤの視界の端に地下に入っていく階段が見えた。
より一層、花粉の影響が少なそうだ、と、ギヤは吸い込まれるようにそちらに向かって歩いて行った。
薄暗い階段を、どれ程歩いただろうか。
階段が続くにつれて、花粉の影響が少なくなってきたためか、ギヤは、ここはどこなのだろう、と考える余裕が出てきた。
確か、罪人の拘置所は花粉が届かない絶望を与えるために、地下に作られると聞いたことがある。
ギヤとしては、何か悪いことをすれば、花粉を浴びることのない監獄ライフができるのではなかろうかと魔が差しそうになったこともあったが、罪人ですらないカラニーナ時代のあの待遇を思い出して、恐らく数日で餓死するな、と、思い直したことを思い出していた。
もしここが拘置所だとしたら、警備が手薄に思えるし、裏通りとは言え、こんな街中には作らないか……。
考えているうちに、階段の下に、開けた場所が出てきた。
開けた場所には、結構な数の人がいた。
全員、マスクにゴーグルをし、花粉に対する重装備をしている。
カラニーナとしての記憶が、蛮族だ!と警鐘を鳴らした。
だが、杉山花恋としての記憶では、その重装備は、あの厄介な花粉に対する完全な防御策にしか見えず、うらやましさしか感じなかった。
「そこで止まれ!」
ギヤに気づいた蛮族の一人が、ギヤに叫んだ。
バレたか、と、思いながらギヤが立ち止まると、どこからともなく何かの装置が出てきて、ギヤに猛烈な風を浴びせかけた。
「シードァ花粉をアジトに持ち込まれてはかなわんからな」と、ギヤに叫んだ蛮族の一人が言った。
シードァ花粉とは、日本で言う杉花粉のことだ。
一応、ギヤは、神聖国の人間だったはずなのだが、なぜ、ここにいる蛮族たちは、ギヤに「早く来いよ」と、言っているのだろうか?
恐る恐る、ギヤがアジトと呼ばれた開けた場所に降りてくると、「こんなヤバい市街地でマスクもゴーグルもなくすなんて、災難だったな」と、蛮族の一人がギヤにマスクとゴーグルを差し出した。
ポラン公爵邸の『離れ』では現地人だらけで気づかれることはなかったが、ギヤは重度の花粉症で、先ほどヤバい市街地を少し歩いただけで、既に、目のかゆみと鼻水が止まらない状態であった。
知っている人からすれば、ギヤは明らかに花粉症だった。
そして、蛮族からしたら、それは間違いなく、仲間だった。
ここにいる蛮族の人数も結構多いことも考えると、ここにきている蛮族たちは、完全に全員の名前と顔を覚えているわけではなさそうだ。
怪しまれることなくここで、マスクとゴーグルを手に入れられたのは、とてもありがたい。
しかも、鼻をかめるように箱ティッシュが差し出されたり、点鼻薬や点眼薬などを差し出されたりと、花粉症には至れり尽くせりだ。
ギヤは、垂れ流していた鼻水をふき取り、思いっきり鼻をかむと、マスクとゴーグルを装着した。
だいぶ呼吸がしやすくなったし、目のかゆみもひどくはなっていなさそうだ。
ギヤは、この蛮族たちに一生ついて行こうと思った。
というか、花粉のない、帝国について行きたいとリアルに思った。
ちなみに、花粉アレルギーのギヤは、裏通りに入っていくことも、階段を下りていくことも苦ではなかったが、花粉に狂喜乱舞している原住民にとっては、花粉が少なくなる裏通りも、さらに花粉を浴びれなくなる地下も、敬遠しているため、このアジトが一般市民の原住民に見つかることはまずなかったようだ。
それに加えて、ポラン公爵領の警備隊や、ポラン公爵邸の警備担当達は、蛮族は来てしまったら迎え撃つ方針であるため、このアジトを突き止められることはなかったようだ。
シードァ神聖国では、蛮族は、シードァ神聖国を侵略しようとするヤバいやつらと言う認識だったが、実際に見た蛮族こと帝国民たちは、マスクにゴーグルと言う、花粉対策の完全防備はしているものの、特に武器を携えているわけでもなかった。
かと言って、のんきに観光をしていたという雰囲気でもない。
シードァ神聖国民からは蛮族と呼ばれる帝国民は総じて全員花粉アレルギーであることはギヤも聞きかじってはいた。
だが、そんな彼らは、何故、杉花粉を浴びる危険を冒してまで、このシードァ神聖国にやってきたのだろうか?
「それでは、各班、報告を」と、中心にいた人物が言った。
全員が跪いたのを見て、ギヤも真似して跪きながら、この人はきっと偉い人なのだろうと推察した。
「シードァ花粉飛散量チームですが、シードァ一本から飛散する花粉量は今季も変わらぬようです」
「風向きについても、例年同様かと」
「王都のヤバいシードァからの花粉は、まだこの領地にすら届いていなさそうなので、帝国には入ってこないと思われます」
「シードァ分布チームですが、やはり、ポラン公爵領のシードァは年々増加しているようです。街路樹も、増えていました」
「そうすると、総じて、シードァ花粉量は増えそうだな……」
「シードァ伐採チームですが、群生地はポラン公爵領の見張りがあるだけでなく、我々では、あの群生地の半径10m以内に近づくことすらできませんでした……」
「いや、嘆くことはない。命があってよかった。神聖国の奴らは、あの忌々しいシードァを聖樹として称えているほどだから、伐採はなかなか難しいであろうとわかっていた。致し方ない」
どうやら、国民全員杉花粉症である帝国は、杉花粉の飛散量や、杉花粉を減らす方法を調査していたようだ。
そんなに武闘派でもなさそうな面々なので、恐らく、ポラン公爵領で、蛮族と呼ばれたのは、調査中や、伐採を試みた帝国民が、ポラン公爵領の警備隊などに襲われて反撃をしたためについてしまった呼び名なのだろう。
シードァ神聖国民がどれほど杉と杉花粉をこよなく愛しているかを知っているギヤとしては、恐らく帝国民が望む、杉花粉の根本解決は叶わないだろうなと、感じていた。
何か、帝国側で、杉花粉が入ってこない工夫が出来たらよいのだが、と、考えていると、「それでは、調査は終了したので、我が国に戻るか」と、多分一番偉い帝国民が言った。
本当は、あの地下のアジトから帝国まで地下道を通したいらしいが、まだ工事中らしく、アジトからしばらく歩くと、今度は上り階段が見えてきた。
階段を登りきると、先頭を歩いていた蛮族が「みんな、マスクとゴーグルしっかりしておけよ」と言い、全員が深くうなずいた。
そこには隠し扉があり、隠し扉を抜けた先は、小屋だった。
小屋からは、英語で花粉公爵領の杉の群生地の端が見える。
位置的には英語で花粉公爵領側とは反対側の杉の群生地の端より少し向こうに来たところだろう。
たしか、『離れ』の見回りは、杉が生えているところを見回って終わっていたから、蛮族のアジトの出入り口がこんなところにあるなんて気づかなかったんだろうな、と、ギヤは思った。
そして、杉の群生地から少し離れているとはいえ、花粉は舞っているのが感じられた。
神聖国の奴らにばれると厄介だから、と、音を立てずに一行は花粉が舞う中、歩いて行った。
全員花粉症であるため、漏れなく全員涙目だし、くしゃみをなんとかこらえる人も多くいた。
しばらく歩くと、大きな城壁が見えた。
どうやらこの城壁が、神聖国と帝国との国境のようだ。
重厚そうな扉が開いて、一団は帝国側に入り始めた。
「さあ、サイプレス帝国に戻ってきたぞ!皆、マスクとゴーグルを外すんだ!」
帝国民たちはマスクとゴーグルを外して狂喜乱舞を始めた。
ギヤは、帝国に入って目の前に現れた大木を見て固まった。
サイプレス、それは、英語でヒノキのことだ。
そして、目の前にあるのは巨大なヒノキにしか見えない。
恐らくシードァ神聖国の王都に生えているえげつない杉と同じくらいの大きさなのではなかろうか?
しかも、目視できるほど花粉が舞っている。
「おい、お前、マスクとゴーグルを外さないと、この素晴らしい妖精樹の妖精の鱗粉が浴びれないだろう?どうしたんだ?」
目の前には、でっかいヒノキを『妖精樹』と言ってうっとりとして眺め、ヒノキ花粉を『妖精の鱗粉』と言って、喜んで浴びる帝国民たち。
唐突にギヤは理解した。
この、サイプレス帝国は、ヒノキを妖精樹として称え、ヒノキ花粉を妖精の鱗粉と呼んで狂喜乱舞するヤバい国だと。
そして、サイプレス帝国の、このヤバい大きさのヒノキは、これまた年中ヒノキ花粉を降らせるヤバい大木であることを。
数時間前には蛮族に一生ついて行こうと決意していたギヤであったが、あっという間にその気持ちは霧散していた。
当然ヒノキ花粉にもすさまじいアレルギーのあるギヤは、地獄から地獄に越境しただけであったことを悟った。




