深窓の令嬢に同情
恐らく前世は花粉症で亡くなった杉山花恋は、杉を聖樹として崇めて花粉に狂喜乱舞する、シードァ神聖国のポラン公爵領で、花粉症で静養するポラン・カラニーナ公爵令嬢に転生した。
……はずだった。
自分はポラン公爵の実の娘ではなく、蛮族のための囮だと気づいたカラニーナは、夜中に屋敷からの逃亡を図ったが、部屋から抜け出したカラニーナは、ものの数分で使用人のダイに保護された。
だが、ダイはスギヤマがカラニーナだと気づいてはおらず、転生してきたばかりの転生者だと思っているようだった。
スギヤマが、ダイに教えてもらった通りに、ドアノブをつかんで自分の前世の名前を心の中で唱えたところ、そこにあったのは、ポラン・カラニーナが幽閉されていた部屋ではなく、初めて見る部屋だった。
ダイの部屋よりは狭いものの、カラニーナ時代のあの部屋よりはかなり広いし、何より花粉が入ってこない。
「ここが……」
帰るべき部屋があのカラニーナの部屋でなかったことが嬉しくて、スギヤマの目には涙が浮かんだ。
ふと振り返ると、そこにダイはいなかった。
慌てて廊下に出ると、ダイはそこで待っていた。
ダイは涙を流すスギヤマに少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻って「部屋、入れたか?」と聞いてきたので、スギヤマは頷いた。
「どの扉からでも、ドアノブをつかんで自分の前世の名前、ここでは『真名』って言うんだけどそれを心の中で唱えたら、自分の部屋に入れるよ」
そして、部屋から出るときは、入ってきた扉から出ることができる、とも、ダイは教えてくれた。
「ついでに、俺が入るまで扉を開けたままにしてみて」
スギヤマは、言われた通りに、ダイが入るのを待った。
「誰かを部屋に招き入れたいときは、廊下で待ち合わせて、こうやって招き入れたらいい」
招かれざる人が入ってきそうなときは、慌ててドアを閉めるか、『拒絶』したらいい、と、ダイは言った。
それに、見ず知らずの人や、怪しい人の部屋に連れ込まれそうなときも『拒絶』をすれば、入らなくて済む、とも、ダイは言った。
できれば、そんな状況にはなりたくないな、と、スギヤマは思った。
スギヤマが扉を閉めると、「扉が閉まった状態なら、防音になるから、人に聞かれたくない話は個人の部屋でしたらいいよ」と、ダイは言うと、一つ呼吸した。
「この世界では、個人の部屋の鍵の代わりが『真名』なんだ。だから、『真名』、つまり、前世の名前は、決して人に教えてはならないし、悟られるような呼び名も危ないんだ」
と、ダイは言うと、『スギヤマ』という呼び名は危険だと教えてくれた。
かといって、カラニーナと名乗るわけにもいかないしな、とスギヤマが黙っていると、「じゃあ、『ギヤ』ってどう?」と、ダイが言った。
『スギ』でも『ヤマ』でもなく、間を取って『ギヤ』とは……。
「なんかかっこいいだろ?」
小学生男子のかっこいいの基準はよくわからないが、まあ、『スギ』とか『ヤマ』よりは、『真名』を悟られにくい名前のようにも感じられる。
スギヤマ改めギヤは、ダイの提案に乗ることにした。
「今日は疲れただろう?もう寝るといいよ」と、ダイが言った。
「明日の朝礼にパジャマで出るわけにもいかないから、明日の朝は俺の私服を着て出てくるといいよ」と、ダイは私服を貸してくれた。
「朝礼?」と、ギヤが聞くと、「だって、ギヤ、ここに来たばかりで無一文だから、とりあえず、ここで働くだろう?」と、ダイが首を傾げた。
ここで働くって、ここから逃亡しようとしていたのに……。
と思ったが、確かに、ギヤは無一文だった。
「ここで働くなら、三食しっかり食べれるし、おやつもあるし、給料ももらえて、お休みだってあるし、えっと、ミヤさんが、フクリコウセイがちゃんとしてるって言ってた」
カラニーナは狭い部屋で、一日二食のしかも粗食で過ごしていたというのに、ここで働くスタッフには一日三食あって、おやつまでついていたとは……。
労働力を対価として差し出しているかどうかの違いは大きいとは思うのだが、それにしても、カラニーナの扱いはひどすぎやしないだろうか?
カラニーナ時代の不遇さはもっともではあるが、ギヤがカラニーナだったことを伝えたら、あの地獄の日々に戻らなければならない。
折角、花粉に悩まされない自室を手に入れたというのに。
この屋敷から出ていくにしても、先立つものがなくては、何ともできないし、中途半端に逃亡しても捕まってしまう恐れがある。
それに、カラニーナのことを話せない以上、この話を断る理由がない。
心配そうにのぞき込んできたダイを見て、ギヤがうなずくと、ダイは破顔した。
「じゃあ、明日な!」と、ダイは部屋を出て言った。
ギヤは、ベッドへダイブした。
いつも、部屋の中を少し歩くだけの生活だったギヤは、廊下を歩いた上に、自力で風呂に入るというカラニーナ時代にはなかった運動までして、なおかつ、軽食を食べてお腹が満たされたためか、猛烈な眠気に襲われた。
秒で寝たギヤだったが、空腹で目が覚めた。
外を見ると、どうやら朝らしい。
身支度を整えて、鏡を見ると、そこには、ダイの私服を着たギヤがいた。
もともと、それほど女性らしい顔つきでもない上に、髪を思いっきり短く切った状態のギヤは、ダイの私服を着たら男子にしか見えない。
部屋から出ると、ダイが待っていた。
「さあ、そろそろ朝礼の時間だ、行こう」
ダイに手を引かれて、ギヤは歩き始めた。
カラニーナであることが秒でバレたらどうしようという一抹の不安を抱きながら……。
部屋を出ると、ダイは、ギヤが現れた方とは反対方向に歩き始めた。
どうやら、朝礼を行うホールはカラニーナの部屋がある方とは反対側にあるようだ。
歩き始めて少しした頃、不意に肩をたたかれた。
もうバレたのか、と、ギヤが振り返ると、そこにはいつもカラニーナの部屋に来る侍女とは違うタイプの柄も違うメイド服を身に纏った20代後半くらいの女性がいた。
女性は髪の毛を青色にガッツリ染めているにも関わらず、キューティクルが保たれていた。
どうやら、この世界にはキューティクルを死なせずに毛髪の色を変える方法はあったらしいと、この時初めてギヤは知った。
女性は、ギヤを見ると、「この子誰?」と、ダイに尋ねた。
バレたかもしれないという、ギヤの不安とは裏腹に、ダイは「下着姿でうろついてたから保護した」と、あっけらかんと答えた。
すると、女性は目に涙を浮かべると、ギヤを抱きしめた。
「こんなやせ細って!あたしの脂肪あげるよ!」
ここにいた結果がこれなのだが、と、ギヤは思ったが、この女性のせいではないことはわかっているので大人しく、されるがままに抱きしめられていた。
「ミヤさん、そろそろ朝礼の時間……」
ダイが言うと、ミヤさんと呼ばれた女性は「そうだ、行かなきゃ!」と、言ってギヤを解放して歩き始めた。
ダイが言ってたミヤさんはこの人か、と、考えながら、ギヤは、ダイとミヤに続いて歩き始めた。
たどり着いた先は大広間だった。
とは言え、ギヤは、カラニーナ時代は自室以外行ったことはなかったが。
広いホールには、ダイと同じような侍従服姿の男性やミヤと同じようなメイド服の女性が多くいた。
その中に、カラニーナ時代に見覚えのあるメイド服の女性がちらほらいた。
「あの人たちは、私たちとは持ち場が違うのよ」と、ギヤの視線に気づいたらしいミヤが言った。
「ほら、あの侍従服のも、違うだろう?」
ダイやミヤの制服は柄がついているのに対して、部署が違うと言われた、カラニーナ時代に見覚えのある制服は真っ黒だ。
「蛮族とかの特別な対策ができるエキスパートしかなれないけど、危険手当でかなり給料は良いらしいよ」と、ミヤが囁いた。
これは、エキスパートたちにはバレないほうがよさそうだと、カラニーナは瞬時に気配を消した。
しばらく待っていると、他の使用人たちとは違い、何だか質のよさそうな光沢のある感じの生地の執事服をまとった執事が出てきた。
恐らく、これが、執事長なのだろう。
執事長は舐めるように全員を見渡すと、「みんな、おはよう」と挨拶をした。
それに続くように、全員が声をそろえて「おはようございます」と返した。
挨拶だけすると、執事長は下がり、いつの間にか黒服の方の執事が前にやってきていた。
「『離れ』の巡回担当者、夜勤中は異常はありませんでしたか?」
黒服の言う『離れ』とは、もしかしなくても、カラニーナの居室があった場所ではないだろうか?
ギヤが固唾をのんで見守っていると、「特に問題ありませんでした」と、静かな声色で、黒の侍従服の男性が答えた。
黒服の執事は気づくと前方から消えており、代わりに、ダイやミヤと同じチェックの柄がついた服を着た執事らしき男が前方にやってきた。
「本邸の方はどうでしたか?」
ダイが、前方に駆け寄って、「問題ありませんでした」と言った。
それが終わると、本日の出勤状況や来客の有無などの事務連絡をチェック柄の方の執事が行い、最後におまけのように、現在、ポラン邸の本邸および離れに、人員の欠員が出ているので、募集をかけていると伝えた。
その時、ダイが元気よく手を上げた。
「あの、俺の知り合いが、ここで働きたいって……」
そう言うと、ダイは、ギヤを前方に押した。
「ギヤって言うんだ」
全員の視線がギヤに集中する。
ば、バレるかもしれない……。
俯いたギヤを見たミヤが、「ここに来る前に辛い思いをしていて……」と、フォローを入れた。
本当はそうではないのだが、顔をあげなくても不自然でなくなったことに、ギヤは感謝の念を抱いた。
ギヤには、視線が刺さるように感じられていたが、その大半は同情のような視線だったことに、気づいてはいなかった。
ダイの私服に身を包んでいても、明らかにわかるほどやせ細っており、表情も死んでおり、生気もなければ気配もない。
中でも転生してきた従業員は、ダイが連れてくるスタッフは転生してきたばかりのものだと知っているため、前世がどれほど壮絶だったのだろうかと、憐憫のまなざしをギヤに向けていたが、ギヤ本人は、同情の視線を受け止めるよりも、カラニーナであったことがバレないほうが重要だったため、そのまま俯いていた。
そのままじっとしていると、ふっと、音もなく、黒服のメイドが近づいてきた。
……バレたかもしれない。
ギヤは、カラニーナ時代の名残で表情こそ変わらなかったが、内心冷や汗が出ていた。




