深窓の令嬢の現状
ここは、シードァ神聖国。
神聖国と呼ばれる所以は、国の中央に生えた巨大な聖樹が由来と言われている。
聖樹はいつ何時でも国中に祝福を与えていて、それが、粉雪のように舞う様は、大変幻想的である。
国の中央にある聖樹のそばにたたずむ城に住まわれている国王に次いで神聖な立場にあるのはポラン公爵である。
ポラン公爵は、国内での発言力もさることながら、帝国との国境に位置するポラン公爵領には多くの聖樹が群生しており、ここもまた、祝福が常に舞う、神聖な土地と言われている。
そして、ポラン公爵の一人娘は、原因不明の病にかかってしまい、公爵領の屋敷で静養している。
娘の病を、聖樹の祝福が癒してくれることを信じて……。
ポラン・カラニーナ公爵令嬢は、ポラン公爵邸の屋敷の離れでひっそりと暮らしていた。
実際に、ひっそりと、物音ひとつ立てることなく暮らしていた。
聖樹の群生地の向こう側にいる帝国の蛮族に気づかれてはならないからと、物音ひとつ立ててはならないと教育を受けたカラニーナは、くしゃみすら無音でできるようになっていた。
無音でいるために、ほとんど話すこともなかったカラニーナは、表情も乏しくなり、何が起きようとも、眉一つ動かさないようになった。
そう、たとえ前世のことを思い出したとしても、まつ毛の端すら動かないほどに……。
前世のカラニーナは、杉山花恋と言う名前の、医療従事者であった。
花恋はあだ名が花粉になるほどの重度の花粉症であった。
最期の記憶に残っているのは、「今世紀最大の花粉の飛散量」と言われる中、アレルギーの薬を切らして、いつもの耳鼻科に行こうとして、玄関の扉を明けた瞬間、猛烈な花粉に涙と咳とくしゃみが止まらなくなり、呼吸困難に陥って、意識が遠のいたところまでだ。
おそらく死因は、花粉症。
そして、現世のカラニーナとなった花恋は、今のカラニーナを蝕む諸症状を思い起こした。
神聖国で医師の役割を果たす神官たちが、皆口をそろえて「原因が分からない」と、首を傾げたこの病。
くしゃみ(無音)、鼻水、鼻づまり、目のかゆみ……。
明らかに、花粉症だ。
カラニーナは、ちらりと窓の方に視線をやった。
全開に開かれた窓の向こうには、聖樹が群生している。シードァ神聖国の名前の由来となった聖樹は別名シードァ。
このシードァの発音は英語の杉の発音に酷似している。
さらに言えば、聖樹自体、ものすごく、杉の木に酷似している。
この聖樹からは、24時間365日いつも祝福を与えてくれているらしいが、祝福と言ってこの国の民が狂喜乱舞しているあれは、どう考えても杉の花粉だ。
この病の原因は、明らかに花粉だ。
全開の窓から祝福がとめどなく入っているので、窓を閉めたいが、今のカラニーナはベッドから起き上がることすらままならない。
カラニーナのベッドは特別製で、リクライニング機能で上体を起こすことができるのはもちろんのこと、ベッドの下に洗浄機能があって、トイレもベッドにいながらできるハイテクなものだ。
たかだか花粉症のために使うにはハイテクすぎるベッドだし、このベッドの性能にこれまでのカラニーナが依存しすぎていたせいで、全く自力で起き上がることは出来なくなっているのが現状だ。
本来であれば、このベッドは立ち上がりの姿勢までサポートしてくれるはずなのだが、立ち上がりの姿勢にできるように足元の方を動かそうとすると、そこそこの音がしてしまうため、カラニーナはベッドの支えで上体を起こすことまでしか許されず、立ち上がって窓を閉めに行くのは、とても困難なことだった。
仕方なく、ベッドに再び体を沈めたカラニーナは思案した。
前世では、異世界転生とかそういった類の話をよく見かけることはあった。
そのうちの大半は、見たことのある書物・ゲームなどの世界に転生し、主人公は今後の世界の動向を知っているケースが多い。
だが、前世の花恋が見た書物や、ゲームの中に、シードァ神聖国なる国が出てきたためしはないし、ポラン公爵なども初耳だ。
ちなみに言うと、シードァが前世の杉の英語に酷似した発音だが、ポランも前世の花粉の英語の発音に酷似しているので、もしも、そう言った類の読み物やゲームが前世に存在したとして、恐らく花恋は手を出すことはなかっただろう。
要するに、転生したものの、全くこの世界に関する知識は皆無である上に、チート能力とかも全く感じられない。
カラニーナの現在の体にあるのは、花粉症だけで、知識は、生まれてからのカラニーナが培った乏しいもののみだし、体はベッドから出られないほど衰弱している。
前世の花恋は、医療従事者とはいえ、医者でも看護師でもなく、ただただ医師の依頼した検査をこなすだけの意識低い系の技術職だったので、その知識も、ここでは全く使えそうもない。
前世があったことを思い出したところで、完全に詰んでいる状態であった。
念の為、囁くような声で「ステータスオープン」と言ったり、強く念じてみたりしたが、カラニーナの前には、ベッドの向かいの壁に設えた大きな鏡に映る自分がいるだけだった。
カラニーナとしては見慣れた自分ではあるが、杉山花恋と融合した状態で改めて見てみると、輝く金髪に、透き通るような白い肌に、澄んだ碧眼。
無表情ではあるものの、なかなかの美少女だ。
花粉症ではあるものの、容姿には恵まれたらしい。
風と共にとめどなく祝福が舞い込んでくる。
花粉症のカラニーナとしてはこの世の地獄のような光景だ。
しばらくすると、食事を持った侍女が無音で入ってきた。
蛮族対策で、もれなく全員が無音である。
侍女は、食事を乗せたトレイをサイドテーブルに置いた。
この機を逃してはならないと、カラニーナは侍女の袖を軽く引っ張って、窓を指さし、閉めるようジェスチャーで示した。
侍女はカラニーナに囁やくように、「カランお嬢様、それでは、祝福が受けられなず、お体に障りますよ」と、諭した。
祝福がお体に障っているのだとカラニーナは思いながら、カラニーナが侍女に囁くように「外から誰かの気配を感じる」というと、侍女はすぐさま窓を閉めた。
あれほど煩わしかった蛮族対策がこんなところで役に立つとは……。
窓を閉めた侍女が速やかに音もなく部屋から去ると、再びカラニーナは一人になった。
サイドテーブルに視線を落とすと、そこには、硬いパンと冷たいスープを載せたトレイが置かれていた。
カラニーナは硬いパンに手を伸ばした。
カラニーナの前世の杉山花恋の感覚だと、だいぶ硬いパンなのだが、今世のカラニーナは、難なく咀嚼することができた。
ベッドから起き上がれないほど弱っているはずなのに、顎だけは毎日の食事でだいぶ鍛えられたようだ。
カラニーナにとっては見慣れた食事であったが、杉山花恋の記憶が融合した今となっては食事内容に違和感を感じた。
お金持ちなはずの公爵家の食事にしてはずいぶん質素だし、病気療養中のカラニーナの食事にしては、パンは硬すぎるし、スープは冷めているし、中には入った具材も野菜くずみたいなものばかりである。
もしかしてこれは、前世の知識でこの世界の食事情を改善して、一躍時の人となる展開かもしれない。
とは言え、前世でまともに自炊をしておらず、電子レンジでチンするか、お湯を入れて待つことしかしていない杉山花恋の調理レベルと知識からは何も引き出せない気がする……。
そんな事を考えながら食べていると、あっという間に食器は空になっていた。
カラニーナにとってはいつも通りの食事ではあるのだが、杉山花恋と融合された状態では、食後にもかかわらず空腹を覚えた。
そして、この量で1日2食である。
育ち盛りにこの量は、いくらカラニーナが病弱とは言え、少なすぎるのではないだろうか?
もしかすると、これは……虐待?
カラニーナが思案している間に、音もなく使用人が現れた。
食器を片付けに来たようだ。
使用人はこうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているし……。
そう考えながらカラニーナは顔を上げた。
鏡に映る美少女と目が合う。
虐待を受けていたならこんなに美しい少女には仕上がらないのではないだろうか?
虐待を受けているのならば、こんなに髪もサラサラではないはず……ここ最近入浴した記憶がないのだが、元がいいのだろうか?
そう思いながら髪を手で梳くと、何かに引っかかって手が止まった。
手元を見ると、髪の毛が絡まっていた。
そして、根本のほうが、黒いような気が……。
「カランお嬢様、入浴の支度をしますね」
いつの間にかそばに来ていた侍女が、カラニーナに囁いた。
程なくして使用人がカラニーナを抱えて浴室へと向かうと、全身を洗われた。
体はさっぱりしたものの、髪の毛は、よりゴワゴワになった。
この世界はどうやら、食事事情もよくない上に、髪のキューティクルを守ることにも疎いらしい。
とはいえ、シャンプーやトリートメントの組成などを知る由もないカラニーナとしては、食事事情と同様に改善の道筋が見えないものであった。
「カランお嬢様、公爵様がお見えになりました」
カラニーナの記憶をたどると、月1くらいのペースで父であるポラン公爵が面会に来ていた。
謎の病が感染症だといけないので、いつも父との面会は衝立越しだ。
「おお!カフ……カラニーナ!元気にしていたか?」
父親であるポラン公爵は、本当はカラニーナではなくカフニーナと名付けたかったらしいが、出生届を書く時に、うっかり「フ」の上にインクがこぼれてカラニーナになったらしい。
杉山花恋と融合されたカラニーナとしては、この、西洋風著しいシードァ神聖国の公用文字がカタカナという現実に違和感しか覚えないが、それはさておき、名前がカフニーナになっていたら、愛称が「カフン」になっていたところだったので、インクはとてもいい仕事をしていると思った。
未だにカラニーナのことをカフニーナと呼ぼうとする父ではあるが、父が面会に来た日は若干夕飯が豪華になるので、カラニーナは笑顔を作った。
5分ほど父であるポラン公爵が話をしたところで、後ろに控えていた執事らしき男が「お時間が……」と言い、父は名残惜しそうに屋敷を後にした。
以前のカラニーナなら、父親が去って行くのが悲しくて仕方がなかったが、杉山花恋と融合した状態では、寝ていただけの毎日で特に話すこともないし、まあいいかと思っていた。
それよりも、豪華な晩御飯……!
「カランお嬢様、就寝のお時間です」
カラニーナに、静かに侍女が告げた。
「え?晩御飯は?」
「お風呂の前に召し上がられておられましたよね」
豪華な晩御飯に胸躍らせていたカラニーナに待っていたのは絶望だけだった。




