7
本当に丸一日寝た。
夕食は波瑠沙が無理矢理口に突っ込んだ。それを寝ながら飲み込んで、そしてまた寝た。
目覚めたのは朝、波瑠沙の動き出す早朝に。
「おはよー」
先に目を覚まして微睡んでいた彼女に、ぱっちりと目覚めた碧眼が向けられる。
「…やっとか」
「うん?」
「ったくもう」
死んだように寝ていた自覚も無いのか、きょとんと見返される顔に顔を近付ける。
「無駄に可愛いから腹立つ」
「へっ」
その間抜けな口に口を付けて、彼女はがばりと起き上がった。
「今日の午後だ」
「え?」
急に言われても何が何やら。
「坊ちゃんからの挑戦状だよ。場所は王宮前の前庭。両陛下もご覧になるそうだ」
「…ええっ!?」
起きがけに頭が追い付かない。
「やるぞ、朔。無様な負け方は出来ないだろ?目覚めの稽古を付けてやる」
「えええ…!?」
「支度!」
はいい!と悲鳴のような返事をして跳ね起きる。
身支度を整え刀を装着し、波瑠沙が持って来てくれた朝食を腹に収めて。
有無を言わせぬまま練兵場に向かう。
まだ東の低い位置にある朝日を浴びながら、兵達が早朝稽古に励んでいる。
「波瑠沙もここで稽古してたんだ?」
問うと、自慢気に返された。
「誰よりも早く来て刀を振るってた。まだ暗いうちから。それを十年近く続けてこうなった」
「凄いや。努力してたんだ」
「朝寝坊のお子ちゃまとは違うんだよ」
「それは昨日たまたま!」
「昨日だけじゃねえだろ」
昨日のように落ち着いて眠れる日は安心し切って全然起きて来ない。そういう日が少ないからだが。
元々が過敏なまでに敏感な性質だが、波瑠沙の横で眠るとそれが緩むようだ。
「この辺で良いか」
広い場内の、空いている片隅で波瑠沙は立ち止まる。
「まずは素振りだ」
朔夜はちょっと顔を顰めた。が、大人しく従った。
自分のしたいようにやらせて貰えない。本当に稽古だ。
朔夜の片手の振りを、波瑠沙は横から観察する。
微かに空気が鳴る。確かに速さはあるが、重みが全く無い。
「無理矢理振るなよ。すっぽ抜けて刀だけ飛んでいくぞ」
自棄になっている手を注意する。朔夜の顔は更に苦くなる。
「なんだ、不満か?」
「そうじゃないけど」
「顔に書いてあるぞ」
「素振りがさぁ…」
「なんだよ?」
うーん、と迷って。
「意味無いんだよな。これ以上、力が付かないから」
「はあ?」
「波瑠沙みたいな体質なら良いんだろうけどさ。俺はここが限界なんだよ」
近付き、ひょいと細い腕を持ち上げる。
肩で袖の切られた胴着は、二の腕まで露わにしている。右腕の傷口も。
「諦めるなよ。しっかり食って動けば分からんぞ」
「それは成長期の子供に言うこと」
「お前はまだ子供だろうが」
「ちーがーうー」
苦々しく言って、右腕に目を落とす。
「片腕の戦い方に慣れる方が先だと思う。何処まで工夫出来るか。それを試したい」
「つまり実戦をやってくれって?」
「そういうこと。せっかくお前が居るんだし」
波瑠沙は腕を離して、にやりと笑った。
「志願した以上は覚悟しろよ?」
背中の大刀の柄に手をかける。
「あっ、そっち使う?」
たじろいで朔夜は訊いた。隻腕になってからまだその大刀は受けていない。
問答無用と波瑠沙は抜き去り振り下ろした。
ひえっ、と高い声を上げて急襲を避ける。
「避けるのが精一杯だな朔ちゃんよ?」
言いながら波瑠沙は振り下ろした刀を上げ、突きに転じた。
受ければ身が二つに裂けるであろう突きを間一髪の所で躱す。だが一度では終わらない。何度も刀は突き出される。
「何とかしろよ!キリが無えぞ!」
挑発されて、意を決して刀を握り直す。
突き出された刀を避けながら己の刀に横からぶつけた。
思わぬ動きに軌道が逸れる。その一瞬で朔夜は相手の懐に潜り込む。
膝で地面を滑り、足目掛けて刀を横に薙いだ。
波瑠沙は後方に跳んだ。下から攻められる事は分かっていた。身長の無い朔夜のいつもの手だ。
空を切った刀を手に朔夜は波瑠沙の動きに付いて走った。間合いから出てはならない。不利になる。
着地しながら波瑠沙は刀を横に滑らせた。相手にとっては左への攻撃。受けられるものなら受けてみろと言う所だ。
朔夜は手を頭の上から刃を下に降ろす形で大刀を受けた。矢張り片手では厳しい。抜かれても良いように刀を軸に身を回し、ぱっと飛び上がった。
波瑠沙の身長の倍の高さがある跳躍。朔夜はその空中でくるりと身を縦回転させ、相手の背中を取って刀を振り下ろした。
波瑠沙も即座に反応して身を回した。片腕で持つ刀を先に相手の刀に合わせる。
金属がぶつかり合う。が、力で朔夜は敵う筈が無い。そのまま押し返され、吹っ飛ばされた。
「いって…」
地面に打ち付けた体を引き摺り立たせる。
全体重を掛けていても、彼女の片腕に負ける。どうしたものか。
相手が化物並に強いから、というのは言い訳にならない。と言うか化物は自分だ。
「なんだよ?もう降参か?」
大刀を肩に担いで、余裕綽々で波瑠沙は問う。
「待って。今考えてる」
「考えてる間に斬られるぞ」
「斬りたいなら良いよ」
「じゃあ」
遠慮は無用と波瑠沙は大刀を振り下ろした。
朔夜は座った姿勢から地面を蹴った。素早い前転を手を使わずに行い難を逃れ、浮いていた左手を足元へ振る。
波瑠沙は軽く跳んだ。それで刀は避けた。
朔夜は再び地面を蹴って飛び起きた。背中を取った。
もう少しで背中に刀が届くという時、大刀が回された。
その勢いで朔夜の手から刀が弾き飛ばされる。息を飲んだ時にはもう遅い。
再び回された大刀が首筋に付けられる。万事休す。
「惜しかったなあ?」
勝者の笑みで波瑠沙は言った。
うー、と朔夜は唸る。
「もう一回?」
彼女から訊いてやる。これは一種の優しさなのだが。
「もういい…。あんまりやると、あいつとやり合う体力が無くなる…」
「おいおい、もうお疲れかよ」
「お前が大刀持つと無駄に消耗するんだよぉ」
半泣きの声で背中を向けた。飛んでいった自分の刀を取りに行く。
「自分からやってくれって言った癖に」
「一度やれば十分!」
「負けた癖に」
「もう良いから…」
泣き顔で振り返ると、恐ろしく冷めた顔が向けられていた。
「何から逃げてんだよ?」
口元が尖る。泣くのを我慢する子供の顔。
「なんかおかしいぞ、朔。今のお前は、刀自体から逃げている」
言い返せず、俯いて。
刀を鞘に戻しながら背中を向けて、とぼとぼと帰りだす。
「おい」
顔を顰めつつ波瑠沙はその背中を追い、すぐに追い付いた。
「あれだけ強くなろうと必死になってたお前がこんなになるのは変だよ。何があった」
「別に」
何があったかと問うのも変だ。ずっと行動は共にしていたのだから、自身も見た出来事の中にその答えはある。
「守る筈の坊ちゃんに守られてへこんでるのか」
「確かにそれで落ち込んでたけど」
「それで自分が強く在る意味を見失ったか」
「そんなこと…」
否定し切れずまた更に俯いた。
そして地面に向けて言う。
「十年前は、どうしても倒したい敵が居たから必死になれた。俺は繍を滅ぼす為にずっと生きてたから。…だから、今は、敵が居ない。刀を持つ意味がもう、見出せない」
「坊ちゃんの為にってのは?」
「あいつ強いから。俺なんか居なくても」
波瑠沙は溜息を溢し、首を捻った。
「強いとは思わないね。まだ」
「…隆統が?」
先日の評価とは真反対だ。
「刀は使えるよ。それは認める。でも強くは無いだろ。あいつはまだ一人じゃ立てない、ひよっ子だ」
強さとは優しさだと以前に教わった。
他人の痛みを己のものと出来る、それがお前の強さだと。
確かに隆統にはまだそれが無い。自分の事に精一杯で、他人を受け入れられる余地が無い。
「だから周囲が支えてやらなきゃ。お前がその筆頭だろ?」
「なんで俺が」
「あいつを導いたのはお前だろうが。責任持てよ」
溜息を吐く。
己の情けなさは身に染みているのに。
「俺がこんなでもそんな事言える?」
「お前はすぐ萎れるけど、地の強さは私が一番よく知っている」
「…そうかなあ」
「目的さえ見つければお前はすぐに元に戻るよ。私は心配してない」
「目的…」
隆統を、龍晶に継ぐ王にする。
それが目的。だけど。
迷いが生じている。本当にそれで良いのか。
それで、あいつは幸せになるのか。
父親の轍を踏ませる事は、辛い。
「刀を置きたいんだろ」
波瑠沙は言った。それが相方の本心だと確信して。
朔夜は暫し間を開け、頷いた。
「別に、反対はしないけどな」
今それをすると、後悔するのはお前だと言われた気がした。
斬撃の速さと重みで空気が鳴る。
隆統は一通り双剣の型を攫っていた。
室内。寝台の上に避難するように巳千が座って見ている。
一旦動きを止めた彼に、思わず言った。
「すごい…。すごいです」
動きの一つ一つの迫力が違う。昨日、波瑠沙から刀の振り方を聞き齧って、それがどれだけ難しいか漸く分かった。
休憩とばかりに横に座った隆統に、巳千は寄って問いかけた。
「いつから刀を習っていたんですか?」
彼は肩を竦める。
「物心ついた時にはもう刀は持ってた」
「えっ!?」
そんな危険な事があって良いのか。彼は王弟でもあるのに。
「朔夜から刀を貰って、五歳までは抜くなって言われてたからな。始めたのは三、四歳かも」
「…朔夜さんはお幾つなんでしょう?」
素朴な疑問。しかし大難問。
「さあ?あいつずっとあのままだし」
少し考え、あ、と思い出す。
「父上と同い年って聞いたから…ええと」
指折り数える。父の享年は二十二と教えられた。その時自分は三歳。だから。
「三十三?」
「えっ!?」
とても信じられないという顔。それはそうだと頬を掻く。見た目は十代前半だ。
「計算上はな。でも関係無いよ。あいつ人間じゃないから」
「人間じゃない?」
「分かるだろ。普通じゃないんだよ。だから考えるだけ無駄」
これ以上の追及は面倒になって話を切り上げる。
「殿下はそんなに幼い時から、どうして刀を持つ事になったんですか?」
巳千が話を戻す。
「え?深い意味は無いよ。三歳の考える事なんて。ただ楽しかったんだろ」
「楽しいんですか?」
「あの時はな。遊びの延長だったし。朔夜が相手してくれるから」
「じゃあ、朔夜さんはきっと嬉しいでしょうね」
「嬉しい?」
一体何を嬉しがるのか。そんな風には見えないが。
「ご自分で育てた弟子のようなものでしょう?弟子が育って自分に近付き追い越すのは嬉しいものではないですか?」
「そうか?そうは思えないが」
それに朔夜が師かと言うと、ちょっと違う。
きっかけは与えてくれたが。
「俺の刀の腕を育てた実の父親は、俺に負けた途端に腹を立てて相手をしなくなった」
「腹を立てられたのですか?もう教える事は無いと引き下がられたのでは?」
隆統は視線を宙に浮かせて考える。
実父の心中など、考えた事が無かった。
「もういい。あんな父親の事を話しても仕方ない」
巳千は意外そうに目を見開いた。
「昔から嫌いだった。お互いにそうだと思う」
そして吐き捨てるように言った。
「俺の父は前王龍晶だ。他は要らない」
その怒ったような横顔に、彼の寂しさを見た。
彼は実の両親に、我が子ではなく、王族の子供として育てられたのだろう。
近くに居ながら子供として親に甘えられない関係。自身で、そうでなくてはならないという鎖を巻き付けて。
それが、子供として、或いは人としての自然な感情を殺してしまっている。
だから、顔自体は幼くとも、年相応の表情が無い。
彼が心から笑う顔を、まだ巳千は知らない。
「そろそろ時間だろう」
隆統は改めて双剣を握って立ち上がった。
巳千も寝台から降り、彼の後をついて歩く。
「朔夜さんに勝てますか?」
問うと、ふっと視線が遠退いた。
何を見ているのか、知る事は出来ない。
「…勝つ為に戦うんだろ」
彼は言って、白亜の宮殿に足を向けた。




