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追う背中にやっと追い付いた。
近くまで寄ると彼は、諦めたように足を止めて振り向いてくれた。
口元に呆れた笑みがある。
「どうして来るかな、お前」
「寧ろ、どうして先に行っちまうのかな、お前は」
口答えに龍晶はやれやれと言わんばかりに空を仰いで、そこに座った。
最期に別れた長屋の縁側だ。
朔夜も隣に座った。嬉しさを隠し切れない笑みで。
「馬鹿だなあ」
龍晶は言った。のんびりとした口調で。
「どれだけ俺やお前の周囲の人間を裏切ったか、分かってんのか」
身を屈めて苦笑し、朔夜は返した。
「やっぱり怒ってるか」
「怒る気にもなれねえよ。そもそも、俺に怒る資格が無い」
「なんで?」
「死んでるから」
簡潔かつこれ以上無い説得力で答えが返る。
朔夜は顔を上げて、友に倣って空を見た。
秋の青空。
「じゃあ俺も死んでるから、怒られなきゃ」
「へー。死んでると思ってんだ?」
「へ?」
びっくりした顔で見返される。
龍晶は悪戯っぽく笑う。
「本当に死にやがったら俺は現れてやらねえよ。それこそ究極の裏切りだからな」
「確かに約束は破ったけど」
「まだやり直しが効くんだよ、お前は」
分からないという顔。
遠い目をして龍晶は教えた。
「春音が待ってる。早く行ってやってくれ」
「俺はあいつとの約束も破った」
「いや?寧ろ丁度良かった」
「丁度良い?」
「華耶を助けるんだろ」
友の横顔は切実だった。
「俺にはどうあっても出来ない。せいぜい夢の中で励ますくらいだ。生きろって…それが呪縛になるのは自分でもよく知ってるのに、それしか言えない」
「…じゃあ、華耶はまだ生きてる?」
「死んでたら一生お前を呪ってやる所だ」
「一生て。死んでるのに」
「だから死んでない…いや、死んでるけど、死んでない」
「何言ってんのお前」
生意気言うなとばかりに頭をはたかれた。
痛くはないが、いってぇと口から出る。
「てめえがなんかややこしい命持ってるのが悪いんだろうが!」
「なんかややこしいって何だよぉ!?好きでこうなったんじゃないよぉ!」
「うるせえっ!この餓鬼がっ!」
「お前より歳取ったっての!!」
それも一年だけだが。
「ったくもう」
龍晶は頭を掻いて膝の上に頬杖をついた。
「でもまあ分かったよ、龍晶。お前の言いたい事は」
今度は朔夜が諦めた顔で。
「俺はまた死に損ねたんだ」
「生き返るんだろ。それがしたくても出来ない俺には羨ましい限りだ」
「出来ない?生まれ変わるんだろ?それで華耶に会いに行くんだろ」
「その時は別人だ。しかもそうすぐに出来る事じゃない」
「そっかあ…」
二人、同じ愛しい人の顔を思い出して。
「でも、華耶は待ってるよ」
「そんな事は知ってる。それよりお前だ」
「ん?」
「惚けてんなよ。お前はこの先、華耶を選ぶのか波瑠沙を選ぶのか、はっきりしやがれ」
「んんん?」
急に究極の選択を迫られた。
にやっと龍晶は振り向いて笑う。
「二人にちやほやされてるお前なんて、許す気は無いからな?」
「ちやほや!?されてないっ!」
「どっこが!胸に手を当てて反省してから言えよそんな事は!」
「華耶には俺から迫った訳じゃないのにい!」
「そんな言い訳が効くと思うか?」
「なんでだぁ…」
頭を抱えて。
「…波瑠沙は本当に不死になったって事?」
朧げに記憶はある。
あの時の事。
「どうやら、そうらしい。俺がこっちで会ってないから」
朔夜は真顔に直って呟いた。
「どえらい事態だ」
「全くだよ」
また呆れつつ龍晶は返す。
「お前は何人好いた女を不死にすれば気が済むんだ」
「まだ二人だし!これ以上増えないし!」
顔を赤くして主張するが、鼻で笑われてしまう。
「どうだかな。しかも女ばっかり」
「偶然!!」
「へー」
「なんだよお前っ!?」
龍晶は軽く笑って、そして言った。
「俺もお前と生きたかったよ」
鼻の奥がつんと痛んだ。
一番それをしたくても、出来なかった友に。
「…ごめん。俺がもっと早く方法を知っていれば」
「そんな事で謝るな。それに不死にして欲しかった訳じゃない」
「でも」
「俺は満足してたんだよ。生き切ったと思ってた。でもその後のお前を見て後悔した。やっぱりどうあっても共に居てやるべきだったと」
「うん…居て欲しかった」
「お前はそれを復讐に変えて誤魔化してただけだろ」
そう言われると否定は出来ない。
龍晶は続けた。
「それを生きる理由にしてたんだろ。言い訳みたくさ。じゃあこの先は?お前は誰の為に生きる?」
結局、問われている事は同じだと気付いて。
朔夜は答えを出した。
「これで華耶って言っちゃうと、お前は帰って来辛くなるよな」
龍晶は鼻で笑った。
「いや?奪い返しに帰る」
「うわあ…それはそれでどんな風に帰ってくるのか怖いけど見たい」
「どんな目に遭っても知らないからな」
「何する気だよ…!?」
冗談はともかく。
「波瑠沙だって、即答してやれよ」
言われて朔夜は複雑に笑う。
「そう言いたいけどさ。俺は」
「嫌われたとでも?」
「そんな事どうでも良くって。…子供は産みたかったんじゃないかなって」
「そうかな?」
「別に俺の子じゃなくても良かった。彼女がそれを望んだなら、それを叶えてやりたかった」
「望んでたとは限らねえぞ」
「そうかも知れないけど」
「それをお前が後悔する事は無いと思うが。後悔するならお前が俺の復讐を誓った時点でだろ」
「…うん」
それを言われると辛い。
「でもまあ、それでお前のケリが着いたのは間違い無いしな。いつかは通る道だったんだし。それを最悪の形で通ったって事だけど」
「う、うん…」
ぐさりと言葉が刺さる。
「お前のせいで波瑠沙だけでなく多くの人が傷付いたし犠牲になったのは確かだ。特に宗温には頭下げておけよ。あいつは本当に気の毒な事になった」
「はい…」
「でもまあ、この先を考えればそれも必然だったのかも知れないけど」
「この先?」
「さっきも言っただろ。春音が待ってる」
その意味を考え、目を見開いて。
「お前…でも…嫌がってたろ?」
「俺が嫌がろうが運命は定まっているんだ。俺もそう考え直してぎりぎりであいつの名を改めた」
「名前?」
頷き、厳しい目で前を見据える。
「あいつは俺の生き写しらしい。その生き方も」
すぐには何も言えず、友の横顔を見詰める。
「救いは俺ほどの地獄をまだ味わっていない事だ。そんなもんは一生知らなくて良い」
「そうだよな、それは、本当に」
「だけどそれはこれからのお前次第だ」
「えっ…!?」
向き直り、見据えられた目。
「あいつを守ってやってくれ。俺の分まで。頼む」
切実な友の願いに気付いて、朔夜は深く頷いた。
「勿論。絶対に守り抜くよ、今度は」
ふっと龍晶は笑った。肩の荷の降りたような笑いだった。
そして何処か寂しげに、また空を仰ぐ。
赤蜻蛉が飛んでいた。
「きっと楽しかっただろうな。お前と、成長したあの子と、無茶をする事は」
そこに自分も居たかった。
朔夜は膝を抱えて地面を見ていた。
この先もずっと、一緒に居たかった。
「またなって、お前は言った」
「ああ。だからこうして会えた」
「また言ってくれる?」
微笑みながら肩を竦めて見せる。
「意地悪ならやめてくれよ」
「どうかな?本気かも」
「酷いよ、お前」
「分からないってだけだよ」
意地悪や悪い冗談を言う顔ではなくなっていた。
「分からない…。いつまでお前達の事を見ていられるのか」
いつか、完全にこの意識が消滅してしまうのだろう。
その時が、本当の別れだ。
「でもそうしなきゃ生まれ変われないんだろうし。全てを一度忘れなきゃならないのは嫌だけど」
「嫌って言ってくれるんだ」
「うん…あれだけ消したかった記憶なのにな」
思い出すのも辛い生前の記憶。何度、忘れたいと願ったか。
だけど、そこから這い上がったのは事実だから。
本当に欲しかったものを、最期に与えて貰えたから。
「朔夜」
「ん?」
「楽しかったよ、お前に会えて。今なら何の後悔も無く言える。俺を友としてくれて、ありがとう」
幻の世界でも泣けるんだと、初めて知った。
現実でも流し尽くす程流した涙だけど。
今までとは違う涙。
その証拠に、笑っている。
嬉しくて、幸せで、でもどうしようもなく切なくて。
寂しくて。
「ごめんな、龍晶。本当に、いろいろ沢山…ごめん。でもありがとう。俺はお前に救われた。冷たい地獄の底から引き上げてくれた。お前が居ないと俺は本当に悪魔になっていた」
涙を拭って、とにかく笑おうとして。
「過去にはならないよ。お前はずっと、永遠に、俺の親友だ」
龍晶も、穏やかに微笑んで頷いてくれた。
そして言った。
「俺もお前も、そろそろ前に進む時だ」
「…うん」
「華耶と春音を頼む」
「分かった」
銀髪の頭を抱えて、己の頭を寄せて。
互いにそうでありたい一言を。
「またな」
今度は朔夜も、返した。
「ああ、また」
赤蜻蛉が、空の彼方に飛んでゆく。
温もりを感じて目を開けた。
首から下は痺れて感覚が無い。いつかと同じような。
だが、頬に触れていたその感触は、はっきりと感じ取れた。
愛しい人の指先。
徐々に視界がはっきりとしてくる。
聞きたかった声を、耳は拾ってくれる。
「朔」
笑う。そして泣いている。
「泣くなよ。せっかく生き返ったんだ」
指先は、涙を取り払ってくれた。
まだ出ない声で、大事な名前を呼び返した。
「波瑠沙」
彼女は頷いて。
動かぬ頭を抱えて屈み込み、啄むような口付けを落とした。
「まだ、私を好きで居てくれるか?」
問われて。頷く事が出来ないから、彼女の好きな笑顔を精一杯浮かべた。
「うん。ずっとずっと、好きだよ」
彼女の笑う顔。
生きていると実感した。
「私もだよ、朔。悪かったな、裏切るような真似をして」
「ううん。本当に真似だって、分かってるから」
「当時は分かってなかったろ?」
「ごめん。疑って」
「おあいこだ」
今度は深く、確かめ合うように。
時が戻る。
永遠を誓った、あの時へと。
「十年!?」
流石に驚き過ぎて大声が出た。
あれから数日間、夢か現実か分からない中で過ごして、やっと覚めた証でもある。
「そうだよ。十年寝てたよ、お前」
あんぐりと口を開ける。
そんな実感は無かった。ある筈が無い。死んでいたのだから。
しかも、目の前の波瑠沙は何も変わっていない。それも当たり前だ。自分が望んで不老不死にしたのだから。
尤も、彼女の体なら十年如きの老化など跳ね返しそうな気はするが。
「あの世で龍晶と離れたくなくてごねてんのかと思った」
「なんで知ってんの」
「図星かい」
ごねたつもりは無いが。
「道理で体が動かないと思った…」
「そりゃな。衰える所まで衰えてるからな」
頷いて。
確かめようと右腕を上げた。
矢張り、肘から下は無かった。丸く肉付いた傷口。
「手は回収して取ってある」
意外な事を波瑠沙は言った。
「陛下が、お前が目覚めれば再生させて付ける事は可能だと仰せになっているから、その気になれば言ってくれ」
「陛下って…?」
「明紫安様」
今更何を問うているのかとばかりに。
だけど朔夜の頭はまだ現実に追い付いていない。今目覚めたばかりだ。
「ここは、哥?」
「ああ。そうだ。言ってなかったな」
波瑠沙は朔夜の肩に手をかけつつ訊いた。
「少し起きれるか?」
朔夜は頷く。波瑠沙に上体を支え起こされ、寝台に座る形になって。
彼女は朔夜の視線の先にある窓を開ける。
眩ゆい光が差し込んだ。
その先の光景に、朔夜は目を丸く見開いた。
青い。どこまでも青く、空と溶け合う。
「海だよ、朔」
白い帆船が、窓枠の風景の中に入ってきた。
それも随分小さく見える。
どれだけ遠くに居るんだろう。
遠く、遠く。空に届くずっと向こうに。
きっとまだ、あいつは居る。
遥かな場所を隔てて、俺はこっちに帰ってきた。
再会を約束して。
「…全部、水なのか、これ」
波瑠沙に問う。いつかも訊いた事を。
「そうだよ。空まで、ずっと水だ」
「あの向こうは何がある?」
「やっぱり水だよ。行っても行っても、向こう側には辿り着かないんだ。別の陸地に辿り着くまで」
「別の…」
まだ見ぬ世界。
「そっかあ…」
微笑んで。
世界に追われていたと思ったが、自分の知る世界なんてほんの小さなものだった。
もっともっと、大きな世界があると知った。
なんだか嬉しかった。
「俺はお前とこれを見る為に帰って来たんだな」
波瑠沙は笑って頷く。
「そうだよ。待ってた」
「ごめんな。長く待たせて」
「うん。お帰り」
「ただいま」
笑い合って。
彼女の腕に包まれて、少し泣いた。
塩水の味。この小さな海を、あいつの元に残してきた。
いつかこの大きな海を、一緒に見たい。