何らかの欠落
僕が目を覚ました時、姉さんは病院にいた。制服姿だった。これから部活に行くのだろうか。それとも部活帰りだろうか。
「何があったの?」
姉さんはまっすぐ僕の目を見てそう聞いた。
だから僕は目を逸らした。外は明るく、どうやらまだ昼前らしい。
「何でもないよ」
「何でもないわけないでしょ。誰にやられたの?」
姉さんは食い気味に言った。
僕は転んだだけだよ、と笑って見せた。けれど、きっとうまく笑えていなかったのだろう。姉さんが小さく息を吐くのが聞こえた。
ちょっと傷が痛んだだけだから、そんな顔はしないでほしかった。
「ねえ、光。ほんとはね、全部聞いたの、三笠君に。川本たちにやられたんでしょ、どうして隠すの? あいつらに脅されたから?」
どこか嘘くさく、何かを隠すような、媚びるような声だった。
姉さんのらしくない声色に、僕は思わず顔を覗き込んだ。姉さんの顔は少しひきつっていて、時折右の口の端がピクリとなった。
いろんな心配が頭をよぎったが、今一番気にすべきことは一つだった。
鈍く光る瞳を、僕は強く睨み返した。
「違うよ。大丈夫。……あいつらを殺してでも三笠を守るから。野球部からあいつらを排除するから。だから大丈夫だよ。姉さんは何も心配しないで」
姉さんにそんな顔させる奴を絶対に許さない。
改めて僕はそう誓った。
「殺すなんて、言わないで。もう大丈夫だから。ね、大丈夫だから」
僕の覚悟を折るように、姉さんは優しく僕を抱きしめた。
僕にはわからなかった。姉さんが泣いている理由も。姉さんが自分を抱きしめる理由も。
けれど、何かが食い違っていることだけは確かだった。
後になって、父さんが教えてくれた。
僕が救急車で運ばれた直後、姉さんは病院には行かず、野球部の一年生に片っ端から電話をかけたそうだ。
「夜分遅くにすみません、野球部でマネージャーをしている椎名と申します。―君はご在宅でしょうか?」
姉さんはそう繰り返した。
そして、僕が一人で忘れ物を取りに戻ったことを突き止めた。三笠が何かを知っていること、何かを隠していること、何かを話したがっていることに気が付いた。
そして、直接彼に会いに行った。自転車を転がし、彼の家の前で会った。
そして、すべてを聞いた。三笠がいじめられていること。僕がその現場に居合わせてリンチにあったこと。
「すみません、先輩。本当にすみません」
彼は何度もそう繰り返したそうだ。僕が貸したあのタオルを、コーラと血と涙で濡れたタオルを握りしめて。
彼はあとから、両親と一緒に自宅に謝りに来たそうだ。律儀な話だが、彼はいったい何を謝りたかったのだろう。
僕を巻き込んでしまったことだろうか。救急車を呼ばず、そのまま僕を一人で帰してしまったことだろうか。
僕にはどれも、ピンとこなかった。