獣心
中学一年の、夏休みのとある日。僕は部活のあと、忘れ物に気付いて一人で野球部の部室に戻った。
部室は校舎から遠く離れた校庭の脇にあり、外装はプレハブ小屋のような感じで長年使われているからか薄汚れていた。日当たりの悪い場所にあるのでその陰湿さは更に際立っていて、僕は入部して数か月が経った今でもあまり居心地がいいとは思えなかった。
部室の前まで来て、僕は足を止めた。中から笑い声が聞こえる。決して気持ちの良いものではない、品のない笑いだ。
体がざわざわと言った。「引き返せ」と。
僕はあたりを見回した。落ちていく日に向かってカラスが四羽飛んでいく。夕焼けが心をじりじりと焦がした。
ほんの少しだけ戸を開けて覗き込むと、やけに生々しい肌色が。パンツ一枚の友人の姿が、目に飛び込んできた。
彼は正座をしていて、体は濡れている。よく見ると、髪の上のほうでシュワシュワと泡が立っていた。近くに、空になったコーラの缶が落ちているのを僕はすぐに見つけた。
正座は、「していた」のではなかった。
彼の名前は、三笠といった。三笠は少し気の弱いところがあった。初対面の人間が彼を見たら誰も野球部に入っているとは思わないだろう。でも彼は熱心に練習していた。たとえレギュラーになれなくても、一生懸命に練習していた。
前に、身長を伸ばしたいからと牛乳をたくさん飲んでいると言っていた。でも彼の身長はなかなか伸びなかった。
僕にとって彼は、何の意味もないきつい練習を一緒にやる、奴隷仲間のようなものだった。
彼の肩はプルプルと震えているのが見えて、僕はかっと血に頭が上るのを感じた。
でもすぐに、彼の近くに立つ五人の上級生を見て、頭に昇った血がさっと引き全身をかけめぐっていくのを感じた。
真ん中で偉そうに座っている奴と目があった。
体がもう一度叫んだ。
「お前はそんなに良い人間じゃないだろう」って。
でも、心が自分を怒鳴りつけた。
「姉さんなら、逃げないだろっ」と。
僕は勢いよく戸を開け、部室の中へ一歩踏み出した。次の一歩にはもう、迷いなんてなかった。僕は彼のもとへ駆け寄った。
「どうしたの? 大丈夫?」
鞄の中からタオルを取り出し、彼の頭を拭く。
彼は涙の中、か細い声で、僕の名を呼んだ。呼んだように聞こえた。
僕の心は、いまだかつてないほど大きく震えた。涙が込み上げてくるのをぐっと堪えた。
「何してんだよ、お前」
そんな声が聞こえた次の瞬間、肩のあたりを蹴り飛ばされ、僕は床に倒れ込んだ。
顔を上げると先輩たちがこちらを睨んでいる。たしか、二年と三年の先輩だ。同じ中学生とは思えないほど彼らの体は大きく、その姿はそびえ立つ高い壁のようだった。
僕は急いで立ち上がった。そして、平手で力いっぱいすぐ後ろのロッカーを叩いた。
バン、という乾いた音が部室に響き渡る。じんわりと痛む手の平と震える鼓膜が僕を支えてくれた。
しっかりと目の前の男の目を見据えた。
「何してるって、それはこっちのセリフです、先輩」
僕は物心ついてから一度も殴り合いの喧嘩をしたことがなかった。そもそも人を殴ったことがなかった。
怒ったことがないわけではない。ただ、暴力という選択肢が僕の中には無かっただけだ。相手は人間だ。拳で語る必要なんてない。何より、めんどくさい。そう思って、今までの人生を生きていた。
だから今回も、殴り合いの喧嘩をするつもりは最初から無かった。不条理な暴力の前に、なすすべがないことなど、初めからわかっていたのだ。
もし僕が漫画の主人公なら、ここで上級生五人を一人で倒し、彼らに二度とこんなマネができにようにこらしめることができるのだろう。
けれど、現実は違う。五対一で勝てるわけなどない。そもそも体格に差がありすぎる。一対一だとしても勝ち目はないだろう。
でもそれは仕方ないことだ。僕は蛮勇ともいうべき一時の感情に身を任せ、他人を助けようとした。そして力がなかったために上級生に返り討ちにされる。これはそういう現実だ。
蹴りが一発、小指に嫌な向きで当たってしまい、おかしな方向へ曲がったことだけは覚えている。
あとはもう覚えていない。
拳やら肘やら膝やら蹴りが、体中に浴びせかけられた。後から思えば、バットとか道具を使われなくてよかった。部室には色々物騒なものがあったし、そんなものを使われていたら命にまでかかわっただろう。
暴力を受けている間、僕は必死で他のことを考えた。
――自分は間違っていない。絶対に間違っていない。逃げなくてよかった。これでもう、彼はいじめられずに済む。大丈夫、自分は正しいことをした。
――先輩たちにも事情があるんだろう。レギュラーになれず、試合に出れず、劣等感を抱いているのかもしれない。受験が近づき、神経質になっているのかもしれない。ストレスが溜まっているだけだ。きっとそれほど悪い人たちではないはずだ。
僕は心の中で、自分が受ける理不尽を正当化する理由と、彼らを許す理由を探し続けた。
暴力が終わった。それはとても長く感じたが、実際は数分だっただろう。口の中が血の味でいっぱいになっていた。
この後はどうしようかと僕は急に不安になった。
教師や家族に気付かれるわけにはいかない。もし気づかれたら、この人たちは停学になり、部は活動停止になるだろう。そうしたら、夏の大会に出場できなくなってしまう。
姉さんの努力を、こんなことで台無しにしたくなかった。
「飽きたな、帰るか」
誰かがそんなことを言った。
そして次に、こう言った。
「椎名、お前、姉ちゃんの下着盗んで来いよ」
「お、げっす。けどいいねぇ」
「あ、裸の写真撮ってくるほうがよくね?」
「確かに、それ色々使えそうだな」
「ま、じゃあどっちもな。そしたら許してやる」
世界が一瞬、止まった気がした。
血の味がしなくなり、全身の痛みがどこかへいった。
数え切れない暴力に堪えた心はいとも簡単に砕け散り、本来の黒色を取り戻した。
誰かが倒れ込んでいる僕の髪を掴んで引っ張り、無理やり顔を上げさせた。
「いいか、わかったな?」
醜い顔だった。人のものとは思えなかった。
そいつが投げるように手を離すと、僕は壊れた人形のように床に転がった。彼は手に残った僕の髪の毛を汚いと言って払うと、部室を出て行った。