世界は白黒で極彩色で
彼の名前は、小峰と言った。
小峰は明るく、いつもクラスの中心で笑いを生んでいて、いわばムードメーカーのような存在だった。
そして小峰は僕のことが気に食わなかった。
「気に食わない」というのは、お手ごろな言葉だと思う。「嫌い」ほど明確に意志のある言葉ではなく、「苦手」ほどオブラートに包んだ言葉でもない。
きっと「気に食わない」という言葉は、目と目を合わせて直接相手に言うためにある言葉ではないのだろう。
ではなぜ小峰が僕のことを「嫌い」でも「苦手」でもなく、気に食わなかったのかというと、それは不運が重なったから、としか言いようがない。
姉さんの死後、クラスのみんなが僕に優しく接し、クラスの空気が少し甘ったるく、そして薄暗い感じになっていた。それがどうにも小峰の機嫌を損ねたらしい。
今までは小峰がクラスの中心にいて、自分を中心に明るい雰囲気がクラスに満ちていた。
しかしある日突然、家族が死んだとかいう悲劇の少年が現れる。圧倒的で絶望的で必然的な不幸の前にクラスの空気はスッと塗り替えられて、彼はリーダーの地位を失い没個性的庶民へと成り下がる。地道に築き上げてきた栄光は一瞬で奪い去られて、ただただ教師には暗澹たる悲壮感が薄く広がる。
そんなの、誰であっても面白くないに決まっている。
最初のうちは、小峰はお通夜ムードの教室の雰囲気を何とか変えようと努力していた。たとえばわざとふざけた態度をとったり、ばかなことをやったりして。
けれどそれはいつもどこか少しずれていて、白けることが多かった。彼の軽薄なギャグに教室の雰囲気は悪くなる一方だった。
そして結局、僕を中心に渦巻く負のオーラとクラスの生ぬるい空気に、彼は勝てなかった。
困り果てた小峰は、そのどうにもできないイライラを、とうとう僕にぶつけるようになった。
なんということはない、些細な嫌がらせだった。
すれ違うときにちょっと肩をぶつけてきたり。不注意を装って足を踏んだり。
「最近、椎名って人気者だよな」と口元だけを気味悪くニヤリと曲げながら言ってみたり。
そういう、他人がちょっと見たぐらいじゃわからないような。された本人しか悪意がわからないような、そんな嫌がらせを彼はした。
いじめとも言えないような、些細な嫌がらせだ。誰にでも当たり前のように起こりうる、人と人とが生きていく上での摩擦。毎日の生活にちょっとした棘が刺さるだけ。
生きていけないというほどの害があるわけではない。ただただ、朝起きた時に感じる鈍痛のように、理由のない体調不良。心因性のもの。過敏性胃腸炎。
正直言うと、どうでもよかった。世界は白黒で極彩色で、時間は有限で永遠で、悲しみは哀しみだったから。
けれど、僕はモノクロの毎日に少し飽きていた。それはほんとうだった。
だから昔のように、花を摘んでみようと思った。
そのチャンスが訪れたのは、ある日の二時間目と三時間目の間の、休み時間のことだった。
僕は筆箱がないことに気が付いた。皮でできた茶色くて細長い、大人っぽいお気に入りの筆箱だった。二時間目は理科室での実験だったから、そのときに忘れてきたのかもしれない。よくよく思い返せば筆箱を持って教室に帰ってきた記憶もない。僕は机の中とバックの中をもう一度確認すると理科室へ向かった。
教室を出るとき、小峰と、彼と仲の良い二人の男子生徒が集まってニヤリと笑っているのを目の隅で捉えた。わかりやすく嫌な笑顔だった。
理科室には誰もいなかった。どうやら三時間目は授業がないらしい。自分が座っていた席の机の下を覗き込んだが筆箱はない。
念のため理科準備室も確認したがそれらしきものはない。
もうすぐ授業が始まる。胸のうちでは悪い蕾がゆっくりと膨らみ始めていた。
礼をして、授業が始まった直後。休み時間のざわめきが徐々に収まり、先生が話し始める直前に、僕はいつもの貼り付けた笑顔で
「ちょっと筆箱が見当たらなくて。悪いんだけど、シャーペン貸してくれない?」
と隣の席の女子生徒に言った。彼女はどこかすこし嬉しそうに、消しゴムまでつけて貸してくれた。
授業中、借りたシャーペンをじっと見つめながら考えた。
現時点で、あいつらが筆箱を盗んだ可能性は半々。
こっちを見て嫌な笑みを浮かべていた、というだけでは証拠とは言えない。心優しき誰かが拾って持ってくれているだけ、という可能性はまだ十分にあった。
――伏線だけ、張っておこう。
そう結論を出して気持ちを黒板へと戻した。
僕は授業が嫌いではなかった。授業中は誰も話しかけてこないし、クラスも静かだからだ。休み時間なんかいらないからさっさと授業をやってくれと心から思っていた。
授業が終わるともう一度だけ、バックと机の中を確認した。今度は少しだけ大げさに、席を立って、バックと机の中のものをすべて机の上に出した。
近くの席の子が「探し物?」と聞いてくる。
「うん、筆箱見つからないんだ。ちょっと理科室見てくるよ」
そう言って、教室を出た。
すぐに教室を出た狙いは二つあった。一つは筆箱をもう一度探しに行くため。
そしてもう一つは、もし小峰が筆箱を持っていたときに、僕に返すのを防ぐためだった。
僕も中々どうして、性格が悪いほうだから、彼らの考えそうなことは分かっていたのだ。
今の段階では「理科室に落ちてた筆箱を俺たちが拾ったんだよ」などと言って素知らぬふりをして返すこともできるかもしれない。
そうすれば、彼らの罪はなかったことになってしまう。
こんな絶好の機会をみすみす潰すわけにはいかなかった。
きっと僕は今、彼らと同じように、下卑た笑いを浮かべていたと思う。
根気よく理科室を探したが、やはり筆箱は見つからなかった。職員室に寄って理科の先生に落し物が無かったか尋ねたが無駄だった。
希望的観測は、確証に変わっていた。もう間違いなかった。これは最高のチャンスだ。僕は走り出したくなるのをおさえて一段一段階段を踏みしめながら教室へ向かった。
すぐ隣の教室まで来て、僕は歩みを遅らせた。何か考え事でもしているかのようにゆっくり歩く。目的はドアの向こうの音を聞くことだった。小峰の席は廊下側の一番前の席だ。
耳をすませば聞こえてくる。小峰の少し高い特徴的な声は、ざわめきの中でもよく聞こえた。
「返したほうがよくね?」
「別にそのへん捨てときゃいいだろ」
そう聞こえた気がした。
もちろん聞き間違いの可能性はある。だって僕が今、一番聞きたかった言葉が聞こえてきたのだ。脳が勝手に変換したのかもしれない。もしかしたら僕とはまったく関係のない、別の話かもしれない。
僕は何事もなく、それこそトイレから帰ってきたかのようにすっと廊下を歩き、後ろの扉から静かに教室に入った。
自分の席に着くと、すぐに先生が入って来て授業が始まる。
けだるげにはじまる古文の授業は、逸る気持ちを抑えるのに向いていなかった。
自分で自分に、必死に言い聞かせる。まだそのときではないと。まだ証拠と言えるものは何もない。筆箱をあいつらが持っているところを押さえない限りは何も証明できないと。
自分に言い聞かせながらも、口角が上がるのを堪えられなかった。思わず借りたシャーペンを指でクルリと回しそうになってしまって、それをさっさと机の上に置く。
もう尻尾は掴んだも同然だった。胸が高鳴ってしょうがない。こんな気持ちになったのは姉さんが死んで以来、初めてのことだった。
自分が考えていることが「悪いこと」だということはわかっていた。
けれど同時に僕は思っていた。
自分がこれからしようとしていることが罪に罰を与えることだとすれば、これから自分がすることは「正義」なんじゃないか、と。