白い煙で
何ともないフリをしてクラスメイトと話をしながら教室に入り、授業が始まった。教科書とノートを開き、シャーペンを持つ。そして一度、深く静かに呼吸をしてから考え事を始めた。
彼女は中学一年生のとき同じクラスだった相澤だ。
眼鏡に黒髪ロングの女の子。見た目どおりとても真面目で、純文学とかが好きそうな感じだった。相澤の成績が良いことは知っていたが、まさかこの学校に通っていたなんて知らなかった。
いや、正しくは聞いてはいたが、覚えていなかっただけかもしれない。
中学のころは他人の話なんてまともに聞いてはいなかった。笑顔で頷いていればそれで済んだのだ。
僕は動揺のあまり、自分の体からすっと血の気が失せていくのを感じた。でも、自分がどうして動揺しているのかも、本当のところはよくわかっていなかったのかもしれない。
――もしかしたら、相澤も他人のフリをしてくれるかもしれない。少なくともクラスは別々なのだ。いくら同じ高校に通っているとはいえ、接点は少ない。その証拠に、学校がはじまって数週間が経ったが今日まで相澤の存在に気が付かなかったではないか。
――大丈夫。大丈夫だ。
僕は何の根拠もない慰めの言葉を自分に言い聞かせることしかできなかった。そうしなければ、静かに座っていることさえままならなかった。
どれだけ不安を感じていようと、何ごともないように過ごすことしか僕にはできなかった。胸に芽吹いた不安の芽を摘み取ることはできないなら、そこから目を逸らすしかない。
空虚で無為な時間だった。
それから僕は、いつも視界の隅で相澤を探していた。いつも彼女の影に怯えていた。少しでも情報を集めようとした。
常にアンテナを張り巡らして相澤の名前を探し、捉えたあとは耳をそばだてる。相澤のことだけでなく、自分自身のことにもアンテナを張った。相澤の口から何か伝わっているかもしれないと思ったからだ。
相澤は頭が良かった。学業の面でもそうだが彼女は大人びていた。きっと小峰の件もすべてお見通しだったに違いない。バカな真似をしている僕のことを見て、腹の底で笑っていたのだ。
以前から、何となく考えていた。誰かが、僕のしたことに気が付いているんじゃないか、と。
僕が悲劇の主人公を演じることによってみんなを味方につけ、小峰をクラスで孤立させたことに誰かが気づいている、と。
「あいつは自分の不幸を利用して、自分に害を成す人間を排除した。
……いや、椎名のことだからなぁ。小峰のことなんて害虫程度にしか思っていないだろう。あいつは自分の手を汚さずに害虫を駆除した。
椎名の笑顔には裏がある。あいつは姉の死さえも利用する、悪魔のような人間だ。みんなは騙されているが、私だけは知っている。あの気味の悪い薄ら笑いに、みんなみんな騙されている」
そんなふうに思っている人間が、絶対にいる。
その疑いが最も強い相手の一人が、相澤だった。
ああいう、大人びていて、人の感情の機敏に鋭いタイプの人間は絶対に気が付いている。気が付いた上で、気が付かないフリをしているのだ。
僕が必死に自分を繕っているのを見て、腹の底であざ笑っている。「頑張ってるね、バカみたい」って。
心を入れ替えて、いい人になったふりをしている自分を、誰かが嘲笑っている。
そんな確信があった。
だから僕は誰も知り合いがいない、都会の高校を選んだ。生まれ変わって一からやり直すために、あそこから逃げ出した。
……なのにどうして、こんなところに相澤がいるのだろう。
この時僕が抱いた絶望感というのはおおよそ、バルサンを焚いたあとにゴキブリを見つけた時の不快感と大差がなかった。