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プロローグ

 


 姉さんが死んだ。


 梅雨の真ん中。バケツをひっくり返したような雨が続く日のことだった。走る車に跳ね飛ばされ、即死だったらしい。


「行ってきます」と元気に言って、朝早くに学校を出て行った姉さんの笑顔。


 その笑顔を次に見たのは、瞼の奥でだった。


 ……わき見運転だったそうだ。


 ……いや、携帯電話で話をしていたせいだっただろうか。


 まあ理由なんてどうでもいい。


 飲酒運転だろうが、脱法ドラッグだろうが、姉さんが死んだことに変わりはない。姉さんを殺した不注意な個人を恨むか、モラルの低い人類を恨むか、はたまた姉さんを跳ねた鉄の塊を恨むか。その程度の違いしかない。


 恨む対象が変われば、もしくはその後の生き方も変わるかもしれない。人を恨めば人間不信になるかもしれないし、将来警察官になることもあるだろう。宗教に救いを求めることもあるかもしれないし、車を恨めば車の安全に関する研究に携わりたいなんて考えるかもしれない。


 しかし僕にとって何を恨むかなんてことは、やはりどうでもいいことだった。


 どうやら中身が涙と一緒に外に出ていってしまって、僕はがらんどうの人形みたいになったらしい。


 あとには残りカスみたいな「僕」だけが残っている。


 空っぽの心の底に、澱みたい溜まったそれ。真黒に淀んだ「それ」が、虚ろな心をじんわりと濁らせていく。


 そのどうしようもなく醜い存在こそが、本当の僕、椎名光(しいなこう)だった。


   ***


 僕は昔、本当にどうしようもない奴だった。空っぽの僕に中身を詰めてちゃんと人間にしてくれたのは、他の誰でもなく、姉さんだった。


   ***


 パンジーとか、マリーゴールドとか。学校の花壇によく植えてある、色とりどりの花。


 小学生の頃の僕は、そんな花が嫌いだった。


 なぜ嫌いだったのか? と聞かれても、理由はよくわからない。


 雑草のない花壇にお行儀よく並べられた人工的なところか。原色がやたらと目に刺さる毒々しいところか。強く甘い匂いを醸し出すいやらしさか。


 何にせよ、僕は学校の花が嫌いだった。


 だから僕は毎朝早くに学校に行って、それらの花を引っこ抜くことにした。


 まず花壇の前に着くと、ゆっくりと時間をかけてどれを抜くか吟味する。ここで誰かに見つかる可能性なんて考えはいけない。せっかくのお楽しみの時間がつまらなくなってしまう。


 一番元気よく、一番綺麗に咲いている一つを見つけたら、根本からズブリと引き抜く。


 根っこが土を離すまいと抵抗する。

 美しく咲いた花が不条理にその命を終えていく。


 その一瞬が、うまく言えないが、たまらなく愉快だった。


 毎日、一つずつ。僕は気に入らない花の命を摘み取っていった。


 そんな僕の悪趣味なライフワークをやめさせたのは、親でも、ましてや学校の教師でもなく、姉さんだった。


 ある朝、いつもと同じように花を摘もうと手を伸ばすと、「ダメだよ、そんなことしたら」という声がした。振り向くと、真っ赤なランドセルを背負った姉さんがいた。


「どうして?」


 お楽しみを邪魔された僕は思わずそう聞いてしまった。


 本当は、考えておいた言い訳を言わなければいけなかったのだ。「この前スズメさんを埋めたところに、この花をお供えしたいんだ」って。


 姉さんは僕のほうに歩み寄ると、手に膝をついてかがんだ。


「お花がかわいそうでしょ?」


 そう言うくせに姉さんは花には一瞥もくれず、僕の瞳の奥をのぞきこんだ。


「お花はかわいそうじゃないよ?」


 僕は質問に質問を返した。


 母さんだってよくお花を買っていたじゃないかと僕は思った。


「お花を育ててくれた人もかわいそうでしょ?」


「そうかなぁ」


 僕は姉さんの言葉の意味がよくわからなかった。


「じゃあ一緒にお花を育ててみようよ。そしたらわかるかもしれないよ。今日、種を買って帰ろ」


 姉さんは少し強引に僕の手を引いて、下駄箱の方へと歩き出した。


「うん、わかった」


 僕はその強引さに絆されて、素直にそう答えていた。


「何にする? 私はね、ヒガンバナとか好きかなぁ」


「ヒガン?」


「死後の世界とかって意味だったかなぁ、たしか。ごんぎつねに出てた気がするんだけど」


「へぇ。死後かぁ」


 僕は少し興味が湧いた。


「名前は不吉だけどね、お花は真っ赤ですごく綺麗なんだよ」


「うん。ヒガンバナ、育ててみたい」


「じゃあ放課後、教室で待っててね」


 僕はその日、姉さんとヒガンバナの球根を買って帰った。


 そしてその日から、僕は花を殺さなくなった。


   ***


 世話焼きで優しい姉さんのおかげで、僕は少しずつ人間らしくなれた。


 何が正しくて、何が間違っているかを姉さんが教えてくれた。


 だから僕は、今日までこの世界で生きてこられた。


 けれど、姉さんは死んでしまった。正しかった姉さんは、正しくない人間によって殺されてしまった。


 頬に残った滴を拭い、目を見開いた。平坦なお経がようやく耳に届き始める。でもあたりを見回した途端、僕は世界から弾き出されたような気がした。


 泣き崩れる姉さんの高校の友人たち。その姿を見た瞬間、こみあげてくる感情があった。


 お葬式にはたくさんの人が来ていた。姉さんの死をたくさんの人が悼んで、たくさんの人が姉さんのために涙を流していた。


 それが僕には、堪らなく不愉快だった。


 ここに横たわる美しい亡骸は、彼らにとって何の意味も持たない。この人たちはただ、姉さんのために涙を流す自分に酔っているだけだと思った。


 自分が真っ当な人間だと、周りにも自分にも思い込ませることができるのなら、死んだ人間が誰であろうとこの人たちには関係ない。


 気付くと涙は止まっていた。もう泣くことはできなかった。


 きっと今まで流した涙と一緒に、僕の人間性というやつは消え失せてしまったのだろう。


 残っているのは、醜い本当の自分だけだ。


 ゆっくりと、自分の世界から色が消えていく。灰色の世界に何の価値があるか、僕にはもうわからなくなった。


 甘い雨の匂いの中、真っ黒な花が開いては式場から出て行く。どこまでも滑稽な儀式はようやく終わりを迎えた。




 何日か休んでから中学に行くと、僕の周りにはたくさんの人が集まった。


 集まった、というのは嫌な言い方かもしれないが、それが一番この光景にふさわしい表現だと思った。


 一度も話したことがないクラスメイトが、まるで昔からの友人のように親しげに話しかけてくる。みんなが争うように休んでいた間のノートを貸そうとする。休み時間のたびに誰かしらが僕の席に来て、他愛ないお喋りをしていく。まるで自分が、お世話の必要な小さな子どもにでもなった気分だった。


 みんな気を遣っているつもりなのだろう。誰の目にも慈愛というか、憐れみというか、そういう色が映っていた。


 僕にはそれが、とても不愉快だった。


「困った事があったら何でも言ってくれ、力になるから」「お姉さん、亡くなったんだってね。私もお母さんが死んじゃってるから、気持ちわかるよ」「お姉さんにはお世話になったんだ、俺にできることがあったら何でも言ってくれ」「辛い時期かもしれないけど、お前は本当によく頑張ってるよ」


 そんなふうにズバズバと、遠慮の欠片もなく話しかけてくる人たち。


「今日の宿題やった? 俺やってないんだよね、見せて」「私の卵焼き、食べる?」「さっきコンビニでくじ引いたらチョコレート当たったんだけど、俺甘いもの苦手だからやるよ」


 そんなふうに口実をつくっては無理に話しかけてくる人たち。


 もうたくさんだった。


 君たちの偽善者ごっこに、僕を巻き込むのはやめてくれと、心底思った。同情するフリをして、人のことを見下して喜んでいる君らの姿は、本当に気持ちが悪い。


 心から、彼らのことを軽蔑していた。けれど、僕はあえてみんなの期待を裏切るような行動はとらなかった。


 家族を失った、哀れで、かわいそうな男の子。そんな役をきちんと演じたつもりはなかったが、貼り付けただけの愛想笑いを浮かべていれば、向こうは勝手に「無理をしながらも笑顔をつくっている可哀想な男の子」という都合の良い妄想で「僕」を受け取ってくれた。




 単調で、つまらない毎日だった。そして時々、自分を取り巻くこの世界がひどく不確かに見えた。


 でも同時に、諦めてもいた。人生なんてそんなもんかと。それでもいいかと。そう思っていた。


 そんな僕の退屈を埋める出来事が起こったのは、姉さんが死んだすぐあと。やけに長い梅雨が終わったあとの、うだるように暑い夏のことだった。





お読みいただきありがとうございます。



最初から最後まで始終、暗いお話になる予定ですが、

毎日投稿したいと思っておりますので、

暗い気分になりたいときにまとめてお読み頂けたらと思います。


よろしくお願い致します。


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