異時空間の交差点から
あと一年で定年退職となることを、実感をもって受け入れたとき、会社にも家庭にも己れの人生にさえ何も遺すもののない自分の存在の希薄さを感じました。
そんなある日、気が付いたらぽつぽつと落書きのような文章を綴っていたのです。それが一年半ぐらい経つと七万字を超えましたので、このまま書き捨てておくのももったいないという気が起こり、自分の死後に家族らが見つけて読んでもいいように小説風に編集しておこうかと考え体裁を整え、いろいろ迷った末に表題を『イッとィル物語』としました。「イッとィル」はアイヌ語です。そのとき、たまたま手に入れたアイヌ語の辞書で見つけました。意味は第二章で明らかにされます。
思えば小学五年生の頃、私は菓子箱の蓋の裏側全面に細かい文字で小説もどきを書いて、得意になって母に見せて褒めてもらったことがあります。これが私の「小説事始め」です。このとき母は「あんた、小説家になったら」と真顔で言いました。これを親ばかというのですが、私はとてもこそばゆい思いをしました。というのも、その内容は、姉から借りて読んだ川端康成の『伊豆の踊子』を真似て、旅道中の風景をあれやこれや勿体ぶって書いた二千字程のものだったからです。それにしても、半世紀も前のことなのに今でもよく覚えているのは、そのとき余程興奮したからに違いありません。
次に書いたのは、高校二年生の冬です。これは実に鮮明な記憶で、作品を綴った大学ノートは今でも探せばどこか棚の奥のダンボール箱の中から見つかるかもしれません。原稿量もかなりのものでした。ただその内容は、夏目漱石の『こゝろ』と武者小路実篤の『友情』を混ぜ合わせ受験生ブルース風にアレンジしたもので、なぜだか弟にだけそっと見せたことを覚えています。確か弟は「へえ〜」と言ったきりでした。
その次が、この度の、気が付いたら書き溜めていた『イッとィル物語』となります。正直なところ小説と称するにはあまりにも厚顔で恥ずかしく思います。表現力も高校生の頃の方が上等だったのではないでしょうか。
このように自己嫌悪に陥るくらいなら家内に止めておく程度にしておいた方がいいのに、なぜ世間に晒そうとしているのか。実は自分にもよく分かりません。あえて申しますと、「何かを広く遺したい」という本能が私の子どもの頃からの性を刺激して文章を書かせ、「旅(人生)の恥はかき捨て」をさせようとしているということでしょうか。
そういう訳で、かなり未熟な作品ですが、第四章の父の中国出兵時の事件、最終章の保育専門学校生二人の交通事故死は実際にあった話です。そうした出来事を通しての私の記述内容から、読者の皆様に何か伝わるものがあれば幸いです。特に最終章は、私をよく知っている人には「なるほど」とうなずいてもらえるかもしれません。なによりも私の妻子には、最終章を先に読んでもらえればありがたく思います。
なお、伝記や歴史上の人物以外の名前はすべて匿名であることを申し添えます。
ニ〇ニ〇年三月十二日
工藤禿志
第一章
紅葉の盛りは過ぎていた。
岩川長彦は、故郷東北秋田県の、今は無人になっている小さな駅舎に降り立った。東京には、しばらくは戻らないと決めていた。
定年とほぼ同時に、妻から離縁を迫られていた。実は、結婚して三年もしないうちに、妻は「あんたと結婚しなけりゃよかった。私の人生返してよ」と、ほとんど毎日言うようになっていた。
ワーカーホリックの長彦が、不況の真っ只中に立たされ、仕事の前線も後方も担うという過酷な勤務に陥ったときからだった。帰宅は連日深夜に及び、休日もまともに取れない。家事、子育て一切を妻に頼る日常になったことから、夫婦のコミュニケーションは極端に希薄となり、いつ別れても不思議ではないという状況になっていた。しかし、騙しなだめすかして定年まで何とか三十年間、凌ぎ繋いできた。
<今さら別れても何の益もない>
日常の諍いから逃げるように家を出てきた。
娘と息子は独立していたが妻の側に付いている。かなり無理して買った宅地三十四坪の"小さいおうち"は慰謝料代わりに明け渡すことになっても、築三十年だから惜しくはない。ただ、狭い庭で毎春淡くも豊かに花を咲かせる梅の木だけは、もったいなく思う。ともかく一旦故郷に帰って冷静に考えることにした。
長彦は、駅前に出て財布を開いた。そこから実家までは十キロ以上ある。タクシーを拾おうと思ったのだ。五千円札が一枚、千円札が三枚、小銭入れに五六四円。<心細いな>と思いながら銀行と郵便局を探した。が、かつてあった場所は更地になって雑草が生い茂っていた。コンビニなどあるはずもなく、なにしろ肝心のタクシーが永遠に来そうもない。
「歩こう、三時間もすれば着くさ」
そう呟きながら、踏切を渡って駅裏に回った。緋色に染まった山々が迫ってくるようだ。
<あの向こうに俺の生まれた家がある>
長彦は、大きめのキャリーバッグをゴロゴロ引きずりながら山に向かって歩き出した。通行人は、自分の他には誰もいない。忘れた頃に突然クルマが走り抜けるだけだった。
山道の手前で集落を一つ通り過ぎた。かつては子どもがたくさんいて、よそ者は石つぶてを浴びせられ、棒で叩かれたりした村だった。だが、不思議なことに人っ子一人見当たらない。
晩秋の風が杉の梢を揺らし、峠越えの細道の面が紫色に染まる。帰り遅れたカラスが一羽、慌てたように黒い森へと飛んでいった。
<あと三十分位かな>
満月に照らされて白く浮かび上がるアスファルトの道が、山の深い闇に吸い込まれていく。峠を越えてから二つの集落を通り抜けたが、燈火らしい明かりはまったく見えなかった。
<みんな、もう寝床についたんだろう>と思いながら、左手の山肌を見上げると、崖の上の墓石のいくつかが月光に濡れて蒼白く光っていた。
<実家の村の入口だ>
何百年も墓地を守っている老赤松の太い枝が、「よく帰ってきたな」と言ってくれているようだった。
長彦の実家は村の南端の沢の裾にある。隣家の犬の吠えるのに耐えて戸口に着いたが、誰か迎えに出て来るわけではない。もはや廃家となっていたのである。
<確か、郵便受けの横の箱だと……>
月明かりに助けられ、弟から教えられた箱を見つけて底を探ると、はたして指先が鍵に触れた。錠は硬くなっていた。力を込めて鍵を回して錠をはずし引き戸を開ける。
「ただいまっ」
無意識に長彦は、自分でも驚くほどの大きな声で居間に向かって叫んでいた。
「おお、よく来たなあ。晩飯仕度して待ってたよ」
おやじとおふくろが先を争うように上がり框をまたいだ。ーーそんな父の在りし日の眩しく懐かしい光景が、長彦の脳裏に一瞬浮かんで闇に沈んだ。
ブレーカーは奥の間の片隅にある。手探りで狭い廊下を渡った。埃が溜まっていてザリザリした。蜘蛛の巣を払いブレーカーの蓋を開けてレバーを下ろす。と、同時に廊下の先にある居間に明かりが灯ったのが見えた。こういうときのために、弟が手元スイッチを入れたままにしてあったのだ。
居間の鴨居に掛けられた鳩時計は、午前か午後かの九時二十分で止まっている。真ん中にどでかい石油ストーブ、壁際に旧式テレビ、そして、擦り切れたソファー。三年前、出張のついでに立ち寄ったときと、まったく同じ状態であることに、何だかほっとさせられた。
いきなりグーッと腹が鳴った。東京駅で『深川弁当』を二つ買って、まだ一つ残っているのを思い出した。それをキャリーバッグから引き抜いて、ストーブの前の、埃をかぶった卓袱台に置いた。
お茶がほしくて台所を探したが見つからない。ガスコンロに火は点かない。ただ、蛇口をひねったら水が出たので、コップに受けて居間に戻った。習慣的にテレビのスイッチを押したが反応しない。ただただ賞味期限ぎりぎりの『深川弁当』をむさぼるしかなかった。
<風呂など焚けるわけがない>と勝手に思い込み、試しもしないで水シャワーを浴びた。ありがたいことにタオルと石鹸は備えてあった。
秋田の晩秋は冷える。震えながら身体を拭いて、二階の布団部屋から枕と掛け布団を居間に運び、ソファーの上で横になった。
「あ、いけね。水あげなきゃ」
長彦は跳ね起きると、コップに水を八分目まで入れ、客間の仏壇に供えて手を合わせた。父と祖父と祖母の写真が笑っている。みんな生きていて、今にも声が聞こえてきそうだ。
<おふくろは施設で、もう、とっくに眠ってるだろうな>
旅の疲れが一気に襲ってきた。ふらふらになりながら居間に戻り、ソファーに倒れ込んだ。
「おはようさん、エダスカア(御免ください)」
「あっ、はいっ、待ってください」
急いで勝手口を開けると、隣家のおばさんが風呂敷包みを抱え、右手にポットを持って立っていた。
「あれまあ、トヒコちゃん、久しぶりだね。トヒコちゃんもトショッタ(老けた)ねえ」
長彦は、六十五にもなって「トヒコちゃん」と呼ばれるのはどうかと思ったが、村のみんなは自分を「トヒコ」と呼んできたし、おばさんには母乳を分けてもらって育ったと母から聞かされていたので、「もう『ちゃん』ではないでしょ」と、訂正させるような野暮なことを言うわけにはいかない。
「トヒコちゃん、おにぎりとお茶っこ持ってきたよ、昨日のバンゲ(晩)に明かりが点いたがら、誰か帰ってきたなと思ってしゃ。ゆっくり食べで、ポットだげ、後で返してければええ」
「オオギニ(ありがとう)。すんごく助かるす。ちょっと待ってけれ」
長彦は、居間に戻ってキャリーバッグから、お土産の『東京バナナ』を取り出して、おばさんに渡した。
「いっつも悪りいねえ。カタヅゲネス(ありがとう)」
おばさんは『東京バナナ』を大事そうに抱きしめて帰った。もう九十近いはずだが、意外に若々しく見えた。
長彦は、水で顔を洗った。今さら髭は剃らない。総入れ歯なので、そっくり外して、持参した硬めの歯ブラシで汚れをこそぎ落とす。朝の洗顔は三分で終わった。
隣家のおばさんが置いていった包みを解くと、真っ白な握り飯が十個に、白菜の漬物とたくわんが入ったタッパがあった。
さっそく、握り飯にかぶりついた。中から塩引き鮭が出てきた。懐かしくて嬉しくて涙が止まらない。握り飯がさらにしょっぱくなった。
「俺も年だな。やけに涙もろくなっちまった」
そう呟きながら長彦は、握り飯二個と漬物を食べて腕時計を見た。まだ六時だった。
<昼と夜の分を残しておかなきゃ>
風呂敷に握り飯と漬物を包んでいるとき、父親の机の上に『房住山昔物語』という薄手の本を見つけた。埃をはたいて読み始める。
「伝え聞くに昔から、標高四〇九メートルのこの山を房住山というが、いつの頃にどういう人の開基であるか知らない。しかし、世俗のことわざに天台の修行僧・円静が八世紀から九世紀頃に来て、この山を開いたという。その時に『天台山』と号したが、やがて僧坊がたくさん建てられたことから『坊住山』と呼んだ。そして、僧坊は僧房であり、今『房住山』という」
さらに、登山口から峰伝いに、房住山の頂上を経てなお北側の峰に沿って、かつての観音堂の跡まで続く参道に据えられた三十三観音像の写真が一体一体、名前付きで掲載されていた。「一番、如意輪観音」「十五番、十一面観音」「二十一番、聖観音」「三十番、千手千眼観音」といった具合に。
長彦が故郷のこの村で暮らしたのは十二歳までだ。中学からは校舎が近い他町に住み、高校はさらに遠いので下宿した。以後、関東の大学に進学して東京で就職と、結婚するまでは長い独り暮らしを続けた。
だから、故郷の房住山のことがまったく分からないまま六十五にもなっていた。今、この瞬間、そういう自分をひどく恥ずかしい存在に感じた。
<今まで俺は何をやっていたのだろう。仕事ばかりで家庭も故郷も顧みず……>
長彦は、ザワザワッとした寒気とともに、深い寂寥感に襲われるのだった。
<かあさんの見舞いは後にしよう。かあさんはまだまだ元気だし。ごめんよ>
キャリーバッグからナップザックを取り出し、隣家のおばさんからもらった握り飯とたくわんと、帽子やタオルなど思いつく物を詰め込んで、土間にあった長靴を履いて外に出た。
目の前に、物心ついた頃から見上げてきたエゾ松の巨木が変わらぬ貫禄でそびえ、梢の先を鱗雲の流れに晒している。その巨木の根方に、兄と二人で小鳥の死骸を葬ったことや、木登りして、その粗い木肌で手の平を切ったことなどが思い出された。
「房住山に登ってくるよ」
代々自分の一族を見守ってきたご先祖様のようなそのエゾ松に、長彦は語り掛けると、錠を下ろし鍵を弟から教わっていた所定の箱にしまった。
昨夜と変わらず吠える犬をなだめすかしながら隣家に立ち寄った。
「おばさん、さっきはおにぎりオオギニ(ありがとう)。ポット返しに来たよ」
「おお、トヒコ、久しぶりだな。おみやげオオギニ。嫁さん喜んでたよ」
長男の民雄が顔を出した。
「ああ、つまらんもので。ところでおばさんは……」
「おばさんて、ばあさんのことか」
「ああ、あんたのおふくろのことだ」
「ばあさんは去年の十一月に死んだ」
「おにぎり持って来てくれたのは……」
「俺の嫁だよ。知らないわけでもねえべ」
長彦は無言で隣家を離れた。
昨夜は気付かなかった村の様子が、朝日に照らされてくっきり見えた。かつて十六戸だったが、今は八戸もあるだろうか。やけに草ぼうぼうの空き地が目立つ。人影も見当たらない。そういえば、三年前に立ち寄ったとき、民雄が言っていた。
「限界も限界、超限界集落だすよ。今、俺は六十九だけど、村で一番若いのさ。一軒の家に住民一人。しかもみんな夫に先立たれた未亡人だ。町役場は『集合住宅建てて、みんなを一緒に住まわせよう』って言うが、誰一人賛成しねえ。みんな自分の家で死にたいのさ」
長彦の目から涙が迸り眼鏡が濡れた。拭っても拭っても止めどもなく湧いてくる。房住山へ向かう途中の峠の頂で、とうとう堪えきれなくなって号泣した。涙が収まると、<せめて線香一本でもあげてくればよかった>と後悔した。
途中、潰れかけた万屋でペットボトル入りの水とニガーの板チョコを買い足してから、かなり歩いた。やや心細くなりかけたとき、舗装道路の左に「登山道入口」の看板を見つけた。
雑木が密生した山肌に細く通された登山道は、思ったよりも急峻だった。積もった落ち葉の下は湿った粘土層で、油断すると足を滑らせて転びそうになる。その上、普段の運動不足が祟った。左膝に力が入らず、何度もバランスを崩して前のめりに転びそうになった。冷や汗をかいた。
<まずいな、こんなんでは。この先大丈夫かな>
長彦は気持ちが萎えそうになる自分を励ますように、ナップザックの底から軍手を引っ張り出して両手にきちんとはめた。そして、手頃な枝を拾って杖にした。
覚悟を決めると周りがよく見えた。稜線に沿って造られた登山道の両側は百年杉に覆われ、さらに道は上下左右に激しく蛇行していて見通しがきかない。ただ、非常に不思議なことに、<ちょっと休憩したいな>と思う頃合いに忽然と観音像が現れるのだった。さらに、観音像の立っている場所は視界が開け、男鹿半島とその先に広がる雄大な日本海を望むことができた。
長彦は、高さ十四センチ、幅四十五センチ、奥行四十センチの台座に載った背丈六十三センチ、肩幅二十五センチ、胸厚十六センチの苔むした愛らしい観音像を、一体一体鑑賞しながら登った。
いつの間にか正午近くになっていた。三十三体のうち、頂上側に近い二十体目の「千手観音」に辿り着いたとき、一人の先客が観音像の横で腰を下ろしていた。身長一六十センチの長彦よりもさらに小柄で、頭髪がすっかり無くなった、人の好さそうな老人だった。
「こんにちは。どちらからですか」
「わしは愛知県から来た」
「えっ、またずいぶん遠いところからですね」
「実は、今から二百年ほど前に、わしの祖先が、菅江真澄というんだが、ここを訪れたというのでな。わしも冥途の土産に一度はと思っていたんだよ」
確かに、『房住山昔物語』にこうあった。
「菅江真澄は一七五四年に三河国(愛知県豊橋市あたり)に生まれた。国学、漢学、医学、本草学、画技などを学んだが、人生の大半を旅に生きた。一七八四年頃、四十八歳の時、秋田藩を訪れ青森や北海道にも足を運んだが、最後に秋田藩に落ち着き、藩命で地誌を著した。一八〇六年には房住山一帯の風景、風俗、伝説等を書きとめるためにこの地を訪れた」
「これから頂上ですか」と、長彦が聞いた。
「いや、下りるところです。上には美しい景色以外には何もなかった。まあ、それで十分だがね。ところで、わしは腰が弱い。ちょっと手を貸してもらえんかのお」
「どうぞ、つかまってください」……と手を差し伸べた途端、長彦は思いがけない強烈な力で引っ張られた。弱っている足腰では瞬時も持ち堪えられず、観音像の後ろの谷底へ真っ逆さまに落ちていく。
「助けてくれえっ」と叫んだが声にならず、気を失っていく自分をぼんやり感じていた。
第二章
長彦は腕の痛みで目が覚めた。
「おめえ、どっから来たんだあ。身なりがらして都の者ではねえな。修験者かえ」
長彦をねめ回すように見つめるその顔面は、歌舞伎役者のように入墨で隈取りされ、その長さ八十センチ、幅四十センチもあろうか。額の中央部が鋭く盛り上がって角のように見える。血走った目は異様に大きく、男鹿半島のナマハゲのようだ。
異臭がツーンと鼻をつく。長彦は、仰向けに倒れたまま、恐怖のあまり声は出せず首も回せない。
「アケ徒丸兄い、こいつ、もったいないようなツラしてるぜ。頭もテカテカ光ってるし。山の神じゃねえかなあ」
もう一つの大きな馬面が視野に入ってきて言った。鬼の弟らしい、が、角がない。
「アケ留丸兄い、そうかもしれん。こいつの荷の中に白メシがあった。こんなもん、並の人間が食えるもんじゃねえ」
今また一人が視野に飛び込んできた。末弟のようだ。顔の大きさは兄たちとほとんど同じだが、これも角がない。さらに二人の兄とは違ってとても優しげだ。
「アケ志丸、いいもん見つけたな。腹が減って仕方なかった。そいつをいただこう」
角の生えたアケ徒丸がそう言うと、長彦が隣家からもらったでかい握り飯八個と漬物は、瞬く間にアケ徒丸・アケ留丸・アケ志丸三兄弟の胃の腑に消えた。
「足りんな。口汚しだなあ、こりゃあー。アケ志丸、もっとないか」
「アケ留丸兄い、茶色い木端のようなのがあったが、まずくて食えたもんじゃねえよ」
「それじゃあ、アケ徒丸兄い、俺たち、何か食い物捕ってくるから留守番頼むぜ」
「おお、ご苦労さん。だが、坂上田村麻呂の子分、文室綿麻呂とかいう皇軍のやつらがうろついている。気を付けろよ」
「なあに、あんなヒョロヒョロ兵ども、束になってかかって来やがれだ」
胸を叩いて立ち上がったアケ留丸の身の丈は四メートル、アケ志丸は三メートル五十はあろうか。ヒグマの毛皮を纏い、脛にも皮の脚絆をあて、腰に長刀、背中に矢籠、腕に弓と、実に勇ましく迫力がある。
いきなり目の前で展開されているこの光景を、長彦はとても現実のものとは受け止められない。
<マジ〜、夢だろう。現実ならここはいつのどこだあっ。こいつら宇宙人か、原始人か。だけど、日本語を話しているな……>
長彦は脳が融けそうなくらい混乱し、仰向けになったまま、そうっと目玉だけ動かして、辺りの様子を窺った。
立ち上がったらおそらく四メートルは軽く超えよう、角の生えたアケ徒丸は焚き火の前に座って大きな鉈を石で磨いている。
<まさか俺を食おうとしてるんじゃないだろうな>
長彦は、隙を見てすぐにでも逃げ出したかった。しかし、金縛りにあったかのように指一本ビクともしない。
焚き火で岩壁に映し出されたアケ徒丸のゆらゆら揺らぐ影で、そこは巨大な洞穴の中らしいことがわかった。
やがて、狩りに出た二人が帰ってきた。
「アケ徒丸兄い、食い物捕ってきたぜ」
アケ留丸とアケ志丸はそれぞれ両手にキジ二羽と野ウサギ四羽を引っ提げていた。アケ留丸はキジの羽根をむしって、細かい羽毛を焚き火で焦がし、洞穴の隅に流れている小川の湧水で洗った。
キジの細い首を鋭い小刀でスパッと切り落として逆さにし、滴る血を胴の長い甕に垂らし込んでから、平らな大きな切り株の上に置いて腑分けした。いくつかに切り分けた肉塊を浜塩にまぶして杉の串に刺し、臓物は再び洗って小さく刻み、先ほどの甕に放り込んだ。
一方、アケ志は、竹筒の先端の尖った方をウサギの足首に突き刺し、片方に口を着けて、吹矢を射るように強く息を何度も吹き入れた。すると、ウサギはたちまち丸々と膨らんだ。アケ志丸は四羽のウサギを次々に膨らませると、その喉元に小刀を突き刺して一気に引き裂く。まるで、空豆のサヤを剝くようにツルンとウサギを丸裸にした。そして、毛皮を岩の上に広げて干し、臓物と血は、先ほどのと同じ甕に入れ、肉塊は浜塩にまぶして串に刺した。
洞穴に肉の焼き焦げる、あの、食欲をそそる何とも言えない香りが充満した。アケ徒丸・アケ留丸・アケ志丸三兄弟は、彼らの口に合わせた大ぶりの椀でドブロクを飲みだした。
「アケ志丸、その山の神にも飲ましてやれ」
「飲むか分からんがやってみるか、アケ徒丸兄い」
アケ志丸は長彦の背中に腕を回して抱き起こすと、椀の淵で長彦の口をこじ開けながらドブロクを注ぎ込みだした。
この瞬間、金縛りが解けた長彦は、もはや死んだふりはできないと観念し、むせんでしまわないように両手で椀を押さえ、ゆっくり飲み込んだ。
<少し酸っぱい、が、うまいっ>
「おお、山の神が生き返った」
アケ志丸が喜んで、長彦を抱え焚き火の前に座らせた。
「いい塩梅に焼けてるぞ」
長男のアケ徒丸がウサギの肉を差し出すと、次男のアケ留丸も「これもうめえぞ」と、キジの肉を差し伸べてきた。
長彦は肉塊の突き刺さった串を両手に持ち、そのあまりにもおいしそうな肉汁のしたたりに、自分が総入れ歯であることをすっかり忘れて、思わず交互にかぶりついた。不思議なことに入れ歯はなくなっていたが、歯茎で噛めるようになっていた。眼鏡もどこかへ消えたようだが、なくてもよく見える。<もしや>と期待して、頭に触ってみた。だが、頭だけは相変わらずツルツルだった。
「俺は蝦夷三兄弟の三番目、アケ志丸というんだ。それと、アケ徒丸兄い、アケ留丸兄いだ。お前さんの名は何という。どっから来たんだね。お前さんの食い物をいただいちゃったが、白メシだった。やんごとない高貴なお方かな」
「いやいや、ただの人間だけど、どうも千二百年くらいも先の未来から舞い戻って来てしまったようだ。信じてもらえんだろうが……」
「いや、ナモ(何も)オガシグねえよ(変ではない)。この山にはどういう訳か、俺たちの知らない、人間だか何だかがうようよ来るんだ。海の向こうからも、もしかしたら月からもだ。だから、お前さんが千年も先の世界から来たとしたって、ちっとも驚がねえ」
続いて、次男のアケ留丸が膝を打って言った。
「おうよ。この前なんか、頭のてっぺんに馬の尻尾のような髪の毛を垂らしたやつが来て『ニイ、ハオ』と、つまり『ニヤニヤ歯出したお前』と俺を呼んで、『ニン、シェンチィ、ザマヤン』、つまり『ニンニク臭い、ざまねえや』って言うんで、頭にきて追っ払ってやった」
「それはね。『こんにちは。お元気ですか』っていう唐の国の言葉ですよ」
「あ、そう。お前さん、やっぱり山の神だ。唐の言葉も知ってるし。だったら、ついでに一つ教えてくれ。そいつ、逃げながら『ウオアイニイ』って言うんだ。俺は、こう思った。こいつは腹が減ってて、『魚、アイナメの煮たの』って叫んでたんじゃないかと」
「キビワリイね(気色悪いね)」
「どうすてだ」
「だって、『ウオアイニイ』っていうのは、あんたを愛してるっていう意味ですよ」
「げっ、ハンカクシャ(バカらしい)、追っ払ってよかった。それはともかく、お前さん、この辺の出だな。何となぐ俺たちの言葉に似てる。どっから来たんだ」
アケ留丸の巨大な馬面が迫ってきた。
「イ、イットリだ」
長彦の口から、子どもの頃に呼ばれていた村名が無意識に飛び出した。
「イットリ、『イッとィル』かあ。『イッとィル(i-toy-ru)』という村はこの山の南にあるが、蝦夷とアイヌの共同狩猟場に通じる山路という意味だ。俺たちにとって、すごく大事な村だ。だから、お前さんは山の神みてえなんだな。して、名は何だ」
「トヒコだ」
これも無意識に口から出た。
「トヒコ〜っ」
今度はアケ志丸が叫んだ。
「トヒコ、トヒコ、ああ、とこしなえ(永久)のことだな。やっぱり山の神だ。間違いねえよ。な、兄い」
アケ志丸が勝手に解釈し一人合点して椀にドブロクを注ぎ、「飲んでくれ」と長彦に勧め、手を合わせて拝んだ。アケ徒丸とアケ留丸もそれに倣った。
長彦は夢の中にいるような気分だった。しかし、夢にしては生々しすぎた。ただ、出会った三兄弟が人相こそ恐ろしいが意外に優しいのに安心した。
<この兄弟たちに頼って、この世界で生きていくしかない。何かの使命を帯びて、この時代に来たのかもしれないのだから……>と、開き直るしかなかった。
洞穴にはいくつかの小穴が穿たれて、干したふかふかの萱を敷いた寝室になっていた。その一つを宛てがわれた長彦は、酔いが回っていることもあって、ナップザックを枕代わりにすると、呆けたようにぐっすり眠った。
何時間経ったのだろうか。キジとウサギの臓物の入った甕が、焚き火の上で煮立っていた。洞穴の縦長の入り口から差し込んだ朝日が、甕から噴き出す湯気をレモン色に染めていた。
長彦は、自分がどこにいるのか自覚するのにしばらくかかった。昨夜の馬面三兄弟を思い出し、頬っぺたと内腿をつねってみた。
<確かに現実だ>と認めざるを得なかったが、不安は感じなかった。むしろ、何とも言えない安らぎのようなものが心の底から湧き上がってきていた。
ナップザックからタオルを引き抜いて小穴を出た。洞穴の隅に流れている湧水で顔を洗った。ひんやりとした澄んだ水が何とも清々しい。
「おお、トヒコよ、起きたか。ハヤナンス(おはよう)」
洞穴に入ってきた角の生えたアケ徒丸の声に続いて、弟二人も「ハヤナンス〜」と言ってニヤッと笑った。歯は上下合わせて六本もあろうか。長彦が後で知ったことだが、入墨と抜歯は縄文時代からの習慣なのだという。
「ハヤナンス」
長彦は何十年も使っていない『おはよう』と同義語をまったく違和感なく話せた。が、すぐに尿意を催して、聞いた。
「トイレはどこですか」
「ト、ト、トイレって何のこったあ。それも唐の言葉かあ」
アケ留丸がきょとんとして言った。
「いや、ほら、おしっこする所だ」
長彦は放尿スタイルをして見せた。
「ああ、ヒンチ(便所)のことか。そんなもん、この山にはねえよ。外で適当な所でやりな」
長彦は我慢できず、洞穴の外に出て籔の中に入った。小便だけのつもりだったが、ついでに大便もした。イタヤカエデの黄色い葉っぱで尻を拭いた。と、誰かの視線を感じて振り向いた。後方に密生している杉木立の陰に、ス〜ッと隠れた烏帽子のようなものを見たような気がした。長彦は恐怖に駆られて、すぐに洞穴に戻りかけたが、念のために遠回りして時間を稼いだ。
洞穴内では、三兄弟が朝食の準備をしながら麓の村の様子を話していた。
「トヒコ、ずいぶん長いヒンチだったな。こちゃ来てお前さんもメシケ(飯を食え)」
長彦に気付いたアケ留丸が、昨夜ドブロクを注ぎ込んだ椀に竹箸を添えて、長彦の胸元に押しつけてきた。
椀には、キジとウサギの臓物と一緒に煮込まれた稗、粟、麦、胡桃、ヤマノイモ、椎茸が入っていた。かなり臭いがうまい。ガツガツかき込んだ。
「この粥、最高だね」
「俺が作ったもんだ。まずいわけがねえ。いや、それよか、外で何かあったがあ」
「あ、そうそう。ヒンチしてたら、何だか怪しい烏帽子を見たんだ。それで遠回りして帰ってきた。まさか、つけられてはいないと思うが……」
「う〜む、やっぱりそうか」
アケ志丸が肯くと、アケ徒丸が言った。
「今も俺たち話してたんだが、村の連中の態度がいよいよ変だ。稗や粟をくれるのに、やけにおどおどしていた」
さらに、アケ志丸が続ける。
「みんな皇軍に脅迫されるか、金を握らされるかしたのさ。この山の西側に建った堂には続々と兵士らが集まっている。坊主どもさえ、兵と一緒になって酒飲んで騒いでる。この山には昔から、俺たち蝦夷村の山の神が住んでるんだが、天台だとかいう唐様の坊主どもがわんさと乗り込んで来て、でかいテラ(寺)というもん建てて、この山のことを『天台山』と呼びだした。そんで次々と村人を手なづけたんだ。そしたら今度は、鉄の刀や槍を持った皇軍が押し寄せて来て、やれ天皇に従え、やれ口分田だ戸籍だ、やれ租庸調だとかの税を納めろと、うるさいのなんのって。俺たち蝦夷やアイヌを獸扱いしやがって。しまいにゃ、『言うごど聞がねえと殺す』と脅しやがる」
アケ志丸は、怒気を込めてそう言うと、空になった椀に粥を盛った。
「山の神トヒコよ。お前さん、悪い時にこの時代に舞い戻ってきたな」と、アケ徒丸が静かに落ち着いた口調で語り始めた。
「俺たちは男鹿半島で生まれた。ジッチャ(祖父)は夜叉鬼といって、そのオド(父親)は阿弖流為の子分の恩荷だ。阿弖流為は仲間の母礼と一緒に、坂上田村麻呂に平安京へ連れていかれ、河内国で殺されてしまったが……。俺のオド(父親)は大長丸といって、男鹿からこの三種までの一帯を縄張りにしていた蝦夷とアイヌの長だった。その強さときたら、今の俺たちなんか赤ん坊みてえなもんだ。
男鹿の海からハタハタ、ニシン、サバ、フグ、タイ、アジ。浜からシジミ、コタマガイ、ハマグリ。潟や川からはフナ、ウグイ、ギギ。沼にはタニシ、ジュンサイ。丘には柿、梨、梅、スモモ。山には栃の木、栗の木、胡桃の木。山菜はキノコ、タケノコ、アエコにヒデコと、挙げたらきりがねえ。
鳥はハト、キジ、アビ、ガン、カモ。四つ脚ならカモシカ、イノシシ、ウサギ、ムササビ、タヌキ、クマ……。特にヒグマとカモシカは肉もうめえが、毛皮が高級品で、皇軍もこれを狙ってるんだ。
とにかく、俺たちは何の不自由も不足もなかった。今はこんな岩穴を住み処にしているが、皇軍が襲って来る前は、みんな麓の村で竪穴の家に住んでいた。食うもんも着るもんも、みんなで分け合って仲良く暮らしていた。
俺のジッチャもオドも強くて立派だったが、決して偉ぶらねえ。みんなと何もかも一緒だった。クマの皮がいっぱい獲れたら分け合ったし、北方のアイヌとの商売で儲けた金は、村人みんなの寄り合い小屋の建設に充てた。まったく、自分ら家族だけのために金はつかわなかった。そういう規則を作って先頭に立って、みんなを引っ張っていたジッチャとオドを俺たちはとても尊敬している。
ただ俺は、ジッチャやオドのように角が二本じゃなくて、このとおり一本だけだし、しかも鋭さもねえ。子ども心にもずいぶん悩んだもんだ。そのうち、弟たちが立て続けに生まれたが、弟らには角らしいのがない。そっからよ。俺が立ち直れたのは……。オドらにはかなわねえが、弟らに比べたら、俺にはまだ角があるど、と。
ところがだよ。女子にちっとももてねえんだなあ、これが。もう角が流行る時代じゃながったんだよ。弟らは、いっつも女子に追っかけられ、あっちの畑、こっちの繁みで……、いわゆる、その、エヘン、究極の愛の契りをしてる。だが、俺の場合、女子はババ(祖母)とアバ(母親)以外誰も近寄ろうともしねえ。それどころか、俺を見ると、女子はみな泣いて逃げるんだてば。なにも泣がなくともよかんべえ。傷付くよ〜っ。チョー傷付くよ〜っ。
だがな、世の中捨てたもんじゃながった。ある日のことだ。俺が稗粟畑で草刈ってたとぎだ。畑の中で『あれ〜っ、助けてけろっ』と叫ぶ女子ありきだ。俺は『どうしたがっ』と駆け寄った。そしたら、村のはずれの家のナミコが尻餅ついて『ワヂシ(私)の胸さ、ヘビっこ飛び込んだっ』と、狂ったようにもがいてるんだよー。
俺は夢中で、ナミコの着物を剥ぎ取って放り投げた。すると、ヘビが着物の袖からスルスルッと逃げていった。『あれは青ダイショウだ。マムシでねえ。もう大丈夫だ』と、ナミコに視線を戻した。そしたらそこには、ナミコの真っ白な豊かな乳房、じっと俺を見つめている潤んだ黒い瞳……。『ああ』と俺はたまらなくせづない気持ちに駆られて空を見上げた。そしたら、トンビがクルリと輪を描いていた。よく見ると、ヘビがトンビの首に甘えるように巻き付いていたんだ。つまり、天の支配者と地の支配者が一体になっていたのよお。感動したなあ。こっから先は、もう言わせるな。要するに、ナミコは俺の妻になったということよ。
俺は十人の子どもを授かった。アケ留丸は八人、アケ志丸は六人。子どもはもっと多く生まれたが、すぐに死んでしまうのもいた。
はじめに言ったが、皇軍が来るまでは、この地は山海の幸に恵まれて、俺たちは争い事一つせず、お互い助け合って平和に暮らしていた。みんな祭りが好きで、特にイノシシ祭りは盛大だった。一年かけて太らせたイノシシの肉を分け合って食い、その骨を焼いて吉凶を占った。凶と出たことはなかったけどな。
そのときは、アイヌも海ん衆も呼んで楽しく騒いだ。海ん衆は俺たちには珍しいアシカやアザラシの肉、魚や貝や海藻やらを土産に持って来た。『その代わり、これからもずっと祭りに招待してけれ』と言うのさ。
あたりめえだが、いいことばかりじゃねえよ。家族がクマに食われたり、キツネが付いて狂い死にすることもよぐあった。そのときは、村の西側の広場に死者の家を作って、家といっても粗末な小屋だが、そごに屍を住まわせ、みんなして交代でメシを供えた。
屍はだんだん腐って崩れで、風に吹き飛ばされるか雨に流されるか、野犬やカラスが食いちぎってどこかに運ぶかして消えていった。霊魂の方は、山に登って山の神になる者あり、彼の世さ行ぐものありだった。どっかの国じゃ、霊魂が戻る肉体をちゃんと残しておくために、亡骸をミイラにするって聞いたが、俺たちはそんなことはしねえ。
俺たちには上等も下等もねえ。みんな同じように生まれて働いて子孫を残して死んで、此の世よりもずっと素晴らしい彼の世に行く。俺は個人的には、山の神になれる者はめったにいないと思っているがらな。いずれにせよ、それが俺たちの世界だった。だから、狩り以外で弓や槍を使ったことがなかった。皇軍が来るまではな」
アケ徒丸の唇が激しく歪んだ。
「だが、もうだめた。ジッチャもババもオドもオガもヨメコ(妻)もワラシコ(子ども)も、みんな皇軍に連れていがれで、殺されたか奴隷にされてしまった。守ってやれなかった。一族で生ぎ残ったのは、俺たち三兄弟と子分八人だけだ。ひと頃は一族郎党千人以上もいだのによ〜。なんてこったあ〜」
アケ留丸とアケ志丸は、無言でひたすら粥をかき込んでいた。顔面は苦渋と悲嘆でどす黒くなっていた。
「アケ留丸、アケ志丸、いよいよ決戦だ。暗くなったら出発しろ。子分どもはみんな連れて行け、いいな」
「任せてくれ。アケ徒丸兄いはどうするだ」
「俺は一人でここで戦う。ここには先祖の骨がある。空にするわげにはいがねえ」
「私もアケ徒丸と一緒にここで戦うっ」
長彦が思わず叫んだ。
「トヒコ、バガ言うでねえ。お前さんは皇軍の敵じゃねえし、皇軍もお前さんの身なりを見て敵だとは思わねべ。だがら、この粥食ったら、すぐ逃げろ」
長彦は<今、アケ徒丸に逆らっても埒が開かない>と感じて「分かった」と返事した。が、言うか言わないかのうちに涙がボロボロこぼれ出す。
「山の神トヒコ、なんだ、そのナゲツラ(泣き顔)は」
そう言うアケ徒丸の巨眼からも、みるみる涙が溢れた。アケ留丸もアケ志丸も、オンオン泣きながら、ズルズルと音を立てて粥をすすった。
陽が傾いた。三兄弟は、毛皮の上に皇軍から奪った鉄の鎧を、一着だと小さいので二枚三枚とつないで着た。
「シタバ(それでは)、アケ徒丸兄い、悪党どもを追っ払ってくる。俺は西から、アケ志丸は東から攻めて、皇軍を挟み撃ちにしてやるわい。戦利品、しこたま担いで帰るから、置く場所作っててくれ。山の神トヒコ、たったの二日だったが、もう何年も一緒に暮らしているような気がする。マンズ(とにかく)逃げろ。そしたら、また会える。そんとぎはもっと唐の言葉コ教えでけれ。シタバ、アケ志丸、行くべ」
「おおうっ。山の神トヒコ、俺の気持ちもアケ留丸兄いと同じだ。また会うべ」
長彦は、アケ留丸に息がつけないくらい強くハグされ、アケ志丸には手の骨が潰れそうなほどきつく握られた。
「蝦夷一族のために、モジョナテ(夢中になって)戦ってこい」
弟二人はアケ徒丸に肩を叩かれ、それぞれ手下四人ずつ引き連れて、東西二手に分かれて山間に消えていった。
長彦は、寝床にした小穴から自分のナップザックを取り出して逃げる準備をしたが、<戦い方も知らない自分は、皇軍から攻撃されたらひとたまりもない。見つかったら必ず殺される>という恐怖で手が震え、ナップザックの口紐も解けない。
「アケ徒丸、世話になった。オオギニ(ありがとう)。して、どっちさ行けばいい」
「あっちさ行げ」
アケ徒丸は太い人差し指を南に向けた。
「ダシ(南)だ。都の方角だ。北へ行ぐよりは怪しまれまい。飯食うのに困ったら、村人に『南無阿弥陀仏』と言って施しを受げろ。『南無阿弥陀仏』は菩薩様の部屋の扉だから、そごさ飛び込んで相談したらきっと助けてくれる。そんでもトヒコよ。いよいよだめだと思ったら、この笛を吹げ」
アケ徒丸は、鶏の卵大の土笛を長彦に握らせた。土笛はしっとりとした重さがあった。アケ徒丸は「アシカだ」と言い張るが、長彦にはどうしても人の顔にしか見えない縄文の紋様が刻まれていた。
「これ、どうやって吹くんですか」
「この、とんがってるところの穴を吹くんだ。ド・ファ・ソ・ラ・シの五音が出るが、何でもないときに吹いても、何の効き目もない。もう死ぬがもしれないと思った瞬間に思いっきり吹け。そしたら助かるはずだ。んだども、これは秘密だ。他人に教えたら、ただの土笛になってしまう」
アケ徒丸の説明によると、土笛が奏でる五音は「五蘊」とも言って、シは色蘊(形や色)、ドは受蘊(印象作用)、ソは相蘊(表象作用)、ファは行蘊(意思と行動)、ラは識蘊(意識)を表すという。
長彦の震えが止まった。
「オオギニ。死んでもこの恩、忘れません」
「死んでしまったら、この笛ケデ(譲って)やった意味ねえな」
アケ徒丸はニタッと笑い、それからにわかに真顔になった。
「バガけ。死んでしまったら、恩も何も残らねえ。生ぎろ。死んでも生ぎろ」
「アケ徒丸、あんただって死ぬなよ」
「バガけ。俺様は不死身だ。殺されても死なねえ。心配するな。山の神トヒコ、チャッチャド(さっさと)行げっ」
「アケ徒丸、世話になった。オオギニ」
ヒグマのようなアケ徒丸が「ああ」とうなづきながら、リスのような長彦を抱きしめた。
「トヒコ、生ぎ延びて、この時代のことを伝えてくれ。一所懸命暮らしている人間が、あるとき突然、外から来たもんに侵され殺され滅ぼされていく時代のことをな。俺たちのことをな」
「わ、わかった。絶対に伝える」
長彦は込み上げる悲しみに息が詰まってゲボゲボむせんだ。
「行げっ」
長彦はアケ徒丸に放り投げられ、洞穴の外に突っ伏した。
「なんて乱暴なんだ」と、ぶつぶつ呟きながら顔に着いた泥を払い落として、何気なく夜空を見上げた。そこには鎌のように鋭く尖った月が浮かんでいた。
長彦は意を決して藪を漕いで一歩ずつ南下した。密集した杉木立を抜けて麓を見下すと、松明の連なりが見えた。恐ろしいほどおびただしい数だ。
「これはまずい」
長彦は足を止め、深い藪の中に寝床を作って夜明けを待つことにした。
その頃、東西二手に分かれていたアケ留丸とアケ志丸の二隊は、房住山の裾野を一望できる頂きで合流していた。
「アケ留丸兄い、敵は思ったよりも多勢だ。東西からも南北からも、我が少人数隊が二手に分かれて攻めても利がないと思うが」
「アケ志丸、俺もそう思う。ここから見下ろして、山道を挟んで右が深い谷底、左は険しい山の斜面だ。俺らはここから攻め下って、やつらを谷底に突き落とすしかねえべ」
「アケ留丸兄い、皇軍のやつらはみんな臆病もんだ。一気に攻め込んで、やつらの首をしこたまはね飛ばして血飛沫上げるべ。そしたら、やつら必ず怖気づいて逃げ帰る」
「そうすんべ、アケ志丸。皇軍が明け方登って来るところを襲うべ。ただし、一番隊と二番隊に分ける。一番隊は俺だ。二番隊はアケ志丸だ。俺らの戦いぶりを見て攻撃してくれ」
「アケ留丸兄い、わかった。俺らは時がある分、丸太や岩をできるだけ用意する」
「うおお〜、がおう—っ」
猛獣のような雄叫びと、大軍が動く地鳴りで、長彦は跳ね起きた。沢を見下すと、アケ留丸とその手下四人が、山道を登って来る皇軍の列の先頭に雪崩れ込んで、兵の首を蒲の穂でも刈るように次々とはね飛ばしていた。
皇軍は、首が無くなった仲間の胴体から赤黒い血飛沫が噴射するのを見て腰を抜かし、悲鳴を上げながら、どお〜っと麓に向かって逃げ出した。狭い山道からはみ出して谷底の川に落ちていく者も数知れない。
「待てぃ、こら〜っ。まだまだ首が足りん」
アケ留丸隊が叫びながら追うと、皇軍もんどりうって、さらに多数が谷川へ転落した。
そのときである。山側の陣屋とおぼしき処に大将然とした武者が立ち現れて一喝した。
「兵ども、よ〜く聞けいっ。我らが大将の坂上田村麻呂大将軍様があ、お前ら一人びとりをよお〜く見ておられるぞよ」
ヒステリックで高音の、よく通る声だった。
一瞬、山全体が鎮まった。アケ留丸の長剣の回転がぴたりと止まった。尻をまくって逃げていた皇軍が回れ右して反撃を開始、谷間に潜んでいた伏兵が雲霞のごとく湧いて出たのである。
さすがのアケ留丸らも多勢に無勢、逆に谷側に追い詰められた。
まもなく手下四人とも頭を矢に射られて倒れた。兜がなかったのが致命的だった。ただ、アケ留丸一人、全身に矢を受けてもびくともしない。剣を両手に皇軍兵をバッサバッサとなぎ倒す。
一進一退の攻防がどれだけ続いただろうか。やがて、アケ留丸の顔面が異常に青白くなった。そして遂に、アケ留丸はボロボロになった剣を足元に放り投げ、弓を構えて矢を連射した。矢籠が空になると、弓を皇軍に向けて放り投げた。
「アケ志丸、後は頼んだぞ—っ」
遂にアケ留丸は谷底の川に身を投じた。そこへ皇軍が一斉に矢を放ち、石つぶての雨を降らせた。
「ざまあみやがれ」
「鬼もたいしたことないね〜」
「まったくだあ。ワッハッハ」
皇軍の内に笑い声が起こったのも束の間、山道の上方から大量の丸太と岩塊がゴロンゴロンと転がり落ちて来て、皇軍をあっという間に下敷きにした。悲鳴をあげながら麓に逃げ下ろうとする兵士の背中に次々と矢が突き刺さりバタバタ倒れる。
「こらーっ、まだ戦は終わってねえ。そうあっさり逃げるな」
アケ志丸隊五人が、丸太の下敷きになった皇軍兵に槍で止めを刺しながら、なお逃げる兵を疾風のように襲う。しかし、皇軍の逃げ足は速く、気が付けば、アケ志丸隊五人だけが雄叫びをあげているのだった。
「アケ志丸親分、なんだろね、この皇軍の情けなさは」
「こんな野郎どもに悩まされていたかと思うと、なんだかやりきれねえな。……やっ、待てっ。してやられた。アケ留丸兄いの二の舞を踏みそうだ。一旦引き上げよう」
五人は急いで山頂を目指したが、皮肉にも自分たちが転がした丸太や岩が邪魔をして、思うように足を運べずにもたついた。そこに雨霰と矢が飛んでくる。顔や首、太腿、脹脛と、鎧の隙間を縫って肉を貫き鮮血を飛ばす。鉄製の矢尻の威力は凄まじい。四人の手下が次々と倒れた。豪傑アケ志丸も矢の雨を交わしきれず、一矢が左目に突き刺さった。
「むむっ、俺としたことが……」
ほとんどまる一日中、飯も食わずに走り回っていたため、急に目眩に襲われた。アケ志丸はふらつく体を支えようと木の枝に手を伸ばしたが、片目を失明したことが災いして掴み損ね、谷川にどおっと転落した。
「おお—っ、やった、やったぞーっ」
皇軍兵が続々と山道に押し寄せ、アケ志丸が落ちた谷川を覗き込んで石つぶてを放った。
「アケ留丸とアケ志丸を引き上げよ」
あの甲高い声の将軍、文室綿麻呂が命じると、屈強の兵士二十数人が谷川へ下りた。水中で息絶えていたアケ留丸とアケ志丸の巨体に幾重にも縄を巻いて引いたが、びくともしない。
「隊長、まるで巨岩のように動きません。縄が切れそうです。いかがいたしましょう」
「う〜む、やむを得ん。長兄のアケ徒丸を成敗してからとしようぞ」
長彦は、昨夜野宿した藪の中で、じっと一部始終を見ていた。我に返ったときは、とっくに日が暮れていた。
下半身が冷たいのに気が付いた。かなり臭う。尿を漏らしていたのだ。パンツとズボンを履き替え、汚れた物は蔦で縛ってナップザックと一緒に担いだ。<ぐずぐずしてはいられない>と、南に向かって少しずつ歩き出した。
気味が悪いほど青白く細い月の下をしばらく歩くと、寺の甍が見えてきた。大勢の兵士や僧侶が出たり入ったりしている。
長彦は<これ以上近づいたら危ない>と直感し、再び藪に入って寝床を作って眠ることにした。腹はまったく空かない。アケ留丸とアケ志丸の無念を思うと、はらはら涙がこぼれるばかり、ナップザックが濡れた。
そのとき、東の山の頂きから朗々とした歌声が響き渡ってきた。
♪〜
兄弟よ
共に未来へ旅立とう
舟に乗り
希望という名の海に漕ぎ出そう
金と力で人を捻じ伏せる
そんな過去はもうたくさんだ
兄弟よ
共に旅立とう
共に生きよう
愛と優しさこそが人生だ
温かい手で迎え
ゆっくりしていけと
抱きしめ合える未来に向かって
兄弟よ
共に海を渡ろう
〜♪
鬼面のアケ徒丸が涙を月光に染めて大音響で歌っている。まさにアンドレア・ボチェッリのような情感溢れた、心の芯を揺さぶるテノールが房住一帯の山々にこだました。
寺に集合していた皇軍は、突然の理解しがたい出来事に度肝を抜かれ、ポカンと口を開けて立ち尽くしている。しかし、文室綿麻呂将軍には、ただの遠吠えにしか聞こえなかったらしい。
「者ども、ひるむな。何をぼ—っとしておる。きゃつこそ、我ら皇軍の宿敵、極悪人、アケ徒丸ぞ。倒せ、征伐せよっ」
兵は全員、ブルブルッと武者震いし、「わ〜」と叫びながら一斉に弓を引いてかぶらを鳴らした。
一瞬にして、アケ徒丸の全身は蓑を着たかのように矢で覆われた。噴き出した血が足首に伝い、足跡が血の小川となって流れた。
それでも、アケ徒丸は歌い続けながら、まっすぐ寺を目指して突き進む。兵は恐れをなしてサ〜ッと道を開ける。
「ええ〜い、かかれ、かかれっ」
文室将軍が何度命じても、誰一人動こうとしない。いや、動けない。アケ徒丸はまさに巨大な赤鬼と化して叫んだ。
「汝ら、よ〜く聞けい。我は先に戦で死んだアケ留丸とアケ志丸の兄、アケ徒丸だ。
我が身の丈一丈三尺五寸。汝ら、我こそが日本一優れた男だ。だが、この戦では先祖の霊を守って、少しも眠らずに日高山の洞穴にいたが、今日烏に聞けば、二人の弟が死んだという。二人とも汝らごとき小童に敗れるわけなどない。しかし、哀れなことに飯に飢えて疲れて死んだのだ。
何度でもはっきり言う。汝らは我が相手には足らん、足らん。汝らは、これっぽっちのもんよ(と、左手の小指の爪をかざす)。だが、死んだ弟二人と仲間の弔いのため、汝ら全員、今がこの世の見納めだ。おもい知れっ」
アケ徒丸は、兵と僧侶で溢れかえっている寺の庇に諸手をかけて、ゆっさゆっさと揺らした。寺はたちまち潰れ、轟音と悲鳴と共に大勢が天井の下敷きになって死んだ。
「アケ徒丸〜っ。柱が落ちるぞ。逃げろっ」
長彦は我を忘れ藪から飛び出して叫んだ。しかし遅かった。アケ徒丸自身も多くの角材の下敷きになってしまったのだ。長彦は駆けつけて、角材を取り除こうとしたが無駄だった。
「バガけっ。何してる。早ぐ逃げろっ」
柱の下敷きになりながら必死に「行げっ」と、狐か狸でも追っ払うかのように手を振っているアケ徒丸を見ては、長彦は身を引かざるを得なかった。幸い、大混乱の最中で皇軍に捕まらずに済んだ。
その直後に、アケ徒丸は皇軍の手によって首をはねられたという。長彦は逃げるのに精一杯でその現場は見ていない。ただ『房住山昔物語』には、次のように記されていた。
「……阿計徒丸、寺の角木の落ちかかりたるに押され、身に疵の付きたるけるにや、大手を広げて大音声にて曳や曳や此木を除かんとすれど力及ばず、あれ口惜しと身をもだゆるところを、坊主の中より大刀とり来て左右なく首をうちたりけり。是ただごとならず、神仏の加護なるべしと皆感涙を流したり。そのとき、鬼賊阿計徒丸が両眼より光物飛び出て一丈ばかり飛び上がり、一つになって北さして飛び行きたるは、不思議のことと言いあえり」
無我夢中で逃げて来た長彦の目の前に、アケ徒丸たちの洞穴があった。
<なんだ。戻ってきてしまったのか>
洞穴に入ると、焚き火に掛けられた大甕が湯気を立てていた。近づいて匂いを嗅ぐと鶏肉の甘い香りがした。
切り株の上には、干し肉の塊、魚の干物、干し餅、炒り豆などが並べられ、ウサギの皮の裏に消し炭で 「永久児必喰此飯」と書かれた置き文があった。
長彦は翻訳を試みた。「永久児」は「とこしなえの子、つまり、トヒコ」、「必喰」は「必ず喰え」、「此飯」は「この飯」。すなわち「トヒコよ、必ずこの飯を喰うべし」と読めた。
「な、なんて、なんてこった……」
長彦は感動のあまり絶句したまま呆然として、冷え切った手の平を焚き火にかざしていた。体が温まると猛烈な空腹に襲われた。
<そういえば丸二日ほど、何も食っていなかったな>
長彦は、アケ徒丸らが使っていた椀に甕の中のものを装って、長い竹箸で口に運んだ。浜塩で味付けされた鶏肉と雑穀は極上のおいしさだった。
腹が膨らむと、今度は抗い切れない睡魔に襲われた。長彦は焚き火に照らされながら死んだように眠った。もしそのとき、皇軍に見つかっていたら、ひとたまりもなかっただろう。しかし、極度の疲労と悲嘆で<もう、どうにでもなれ>という開き直りの思いもあったのだ。
「バガけっ。トヒコ、起ぎろ、逃げろっ」
アケ徒丸の声と寒気で、長彦は目覚めた。洞穴の入り口から朝日が射し込んでいた。
<アケ徒丸が戻って来たのかも>と、何度も目をこらしたが、人の気配などまったくない。
<なんだ、夢か……。そうだ、ぐずぐずしてはおられない>
長彦は、かつてのサラリーマン時代のように三分で顔を洗い、五分で荷造りをして洞穴を出た。もちろん、アケ徒丸が用意してくれた食糧を忘れるようなことはしない。ナップザックに入りきらないものは、隣家からもらった風呂敷に包んで腰に下げた。さらに、<これさえあれば、どこでも眠れる>と、寒さに備えて熊の毛皮ももらっていくことにした。
峰伝いにしばらく南に進むと、西側に視界が開けて、日本海が一望できる峠に着いた。男鹿半島が突き出している大海原が、朝日を浴びてダイヤを散りばめたようにきらきら瞬いている。
<ああ、もしかしたら、ここは高校生のときに登った『願掛之松』のあった裏山かもしれない>
高校二年生の夏休みのことだった。実家の「裏山の頂上に願掛之松がある」と、祖母が教えてくれた。
「あの山のてっぺんにゃ、でっかい松の木があってしゃ、昔、村の衆は何か願い事があると、その松の枝に鍬をひっがげで祈ったもんだよ」と。
長彦は迷信として聞き流してはみたが興味津々だった。そこで、家族の誰にも告げずに一人でこっそり登ったことがある。何となく気恥ずかしかったのだ。
そのときの、杉や雑木が鬱蒼とした裏山は、足元が崩れやすく、思いの外きつかった。ようやく視界が開けた所が頂上だった。振り向くと雄大な日本海が横たわっていた。中景に男鹿半島、近景にはオランダの技術で干拓が進む八郎潟が広がっていた。
<よし、俺も農業の発展に尽くすエンジニアになろう>という熱い思いが込み上げた。将来何になろうかと深刻に悩んでいた長彦が進路を決めた瞬間だった。
眼下に広がる美しい風景に見とれ、高校時代の誓いを懐しく思い出していた長彦の視界に、一隻の小舟が入って来た。左から右へ、南から北へ滑るように移動していた。
間もなく信じられないことが起きた。小舟の上で三人の大男が手を振っているのが、プロミナーを通したようにはっきり見えたのだ。紛れもなく、アケ徒丸・アケ留丸・アケ志丸三兄弟だ。彼らは生きていたのだ。そして今、小舟で北上している。おそらく北海道を目指しているのだろう。
<おお、よかった。三兄弟が殺されたという言い伝えは嘘だったんだ>
長彦は激しく腕を振って応えた。小舟の三人は両手を挙げて左右に揺らした。長彦も無我夢中でそうした。船脚は意外に速く、瞬く間に小さな点となって消えていった。
長彦はすっかり元気を取り戻し、南へ向かって歩き出した。道中、何人かの僧や修験者らしき男とすれ違った。相手も長彦を坊主と思ったらしく、挨拶代わりに手を合わせる。
食糧を長持ちさせるために、ヤマボウシやガマズミ、アケビの実を食べた。紫のアケビの皮は捨てずに夕食時に焼いて、石で叩いて柔らかくした干し肉と一緒に食べる。しょっぱい干し肉によく合うからだ。
火はジャンパーの胸ポケットにあった百円ライターでおこし、水は谷川からぺットボトルに汲み取った。ペットボトルは、この時代に来る前に、房住山の麓の万屋で買った水が入っていたものだ。
イワシやコマイ、カマスにホッケなどの干し魚、カチカチになった干し餅は、火に炙ると柔らかくなった。ただ、炒り豆だけは、歯茎を痛めるので食べることができなかった。
何日間か冷たい雨が降った。老木のウロや岩穴に逃げ込み、熊の毛皮にくるまって寒さを凌いだ。かつて見たこともない紺碧の空に我を忘れた朝もあった。満天の星に見守られ癒された夜もあった。長彦はもはや、日数を記録しなくなっていた。腕時計は動いていたが、ただの飾り物同然だった。やがて、前方に雄大な鳥海山が立ちはだかり、かなり南下していることがわかった。
道なき道を、「分け入っても分け入っても青い山」と、山頭火の句を口ずさみながら歩き続け、さすがに筋肉痛を感じていたときのこと、谷間から湯気の立ち上っているのが見えた。
「温泉だっ」
この時代に来てから、長彦は一度も体を洗っていない。温泉の存在を確信すると、いきなり全身に痒みを覚えた。すぐにでも浸かりたいという衝動にかられ、湯煙に向かって狂ったように駆けだした。
谷を少し下ると硫黄臭い池があった。指をゆるりと突っ込んでみた。
「ちょうどいい湯加減だ」
夢中で裸になって、服と荷物を熊の毛皮に包むと、長彦は六十五歳という年齢にもかかわらず、アスリートのように跳躍してザブンと池に飛び込んだ。
真っ青な空、真っ白な鱗雲、紅葉がわずかに残る冬仕度の木々……。「キイーッ」と、百舌鳥が高い枝で鳴いている。
<もしかして、俺、本当はとっくに死んだのかもしれないな。ここはきっと極楽なんだろう>
硫黄を含んだ湯気に包まれながら、長彦は自分が今いるらしい時代のことをすっかり忘れ、まさに極楽気分に浸っていた。
ガサガサッという音に驚いて長彦は、重くなりかけていた瞼をかっと開いた。約二十メートル先の栗の木の枝が激しく揺れている。恐怖で一瞬身がすくんだが、<どうせ死んだかもしれない身だ>と思うとやけに落ち着いた。静かにゆっくり池から上がり、体を拭いて服を着た。
ナップザックを肩にかけようとしたとき、突進して来る獣を見た。大きな月の輪熊があと数メートルに迫っている。
長彦は、とっさにナップザックの外付けポケットから土笛を取り出した。
月の輪熊が生臭い息を吹き掛けながら、真っ赤な大きな口を開いて黄色い牙で長彦の頭を噛み砕こうとしたのと、長彦が土笛を思いっきり吹いたのが、ほぼ同時だった。
第三章
<ひどく唸っていたようだな>と感じて、びっしょり汗をかきながら目を覚ましたとき、長彦は木の幹に背をもたれ、右手にしっかり土笛を握って座っていた。アケ徒丸に感謝しながらナップザックのポケットに土笛をしまった。
何気なく人の気配を感じて前方を見ると、継ぎはぎだらけの筒袖を着た、月代に薄っすら髪の生えた貧相な百姓らしき人々から遠巻きにされていた。みんな鍬を持っている。
<もしかして、ここは>
長彦は頭上を仰いだ。勘は当たった。そこに「願掛之松」の枝がゆったりと揺れていたのである。
しかし長彦は、取り巻きの視線にやや恐怖を感じた。そして、アケ徒丸から教えられたとおり「南無阿弥陀仏」と唱えた。すると、取り巻きの人々の言っているのが聞こえてきた。
「ほらみろ、俺のしゃべったとおりだべ。この人は坊さんだ。頭はツルツルだし髭は真っ白だ。大事にすねばなんね」
「んだども、よぐ見れ。着ているもんも履ぎもんも、なんだがおがしぐねえが。俺はキリシタンでねえがなと思うよ」
「キリシタンが念仏唱えるわげねえべしゃ。俺は、彼の世から降りて来た仏様でねえがなと思うんだども」
「まさがあ」
長彦を遠巻きにして、百姓らしき人々はしきりに議論し始めた。
その言葉を聞いて長彦は、<アケ徒丸たちよりも訛がひどいな。なぜだろう。自分の時代に戻ったら調べてみよう>と思った。そんなことを考えていると、取り巻きの一人がゆっくり近づいて来て長彦に話しかけた。
「わしは肝煎の円左衛門と申す者だ。そこの者たちは増浦と入通という集落の百姓たちだが、おぬしは坊さんかえ、修験者かえ。どごから来なすったね」
<この人の言葉は標準語に近い。きっと関東から来た人にちがいない>と想像しながら、長彦は尋ねた。
「その前に教えてください。今の年代はいつですか、何年ですか」
「なにい、延享元年だべ。そんなことも知らないのかね」
「えんきょう元年……。江戸時代かな。将軍様は誰ですか」
「徳川八代将軍、吉宗様だよ」
「そうですか。実は私は今から二百七十年くらい先の、つまりそのお、ずっと先の未来から来た者です。自分でもあまりにも不思議で信じられないのです。ですが、生まれは入通で、ご先祖様は長太っていう人です。そして、この松は『願掛之松』って呼ばれているということも知ってます」
「ええっ、長太の子孫だとおっ」
驚いた円左衛門は振り向いて、大声で長太を呼んだ。
「円左衛門様、なんだすべ」
長太はほっかぶりにしていた汚れた手ぬぐいを脱いで、円左衛門に丁寧にお辞儀した。頭が見事に禿げ上がっている。
<この人が俺のご先祖様か。禿げ頭はやはり遺伝だったんだ>
妙に納得顔している長彦を見て、長太が言った。
「ナンシテダベガ(どうしてだろうか)。この坊さん、初めて会った気がしねえ。あんだの名めっコ(名前)何というだ」
「え〜と、長い短いの長いに、彦左衛門の彦と書いてトシヒコと言います。名字は岩川です」
「え〜っ、名字が岩川けぇ。わしは長い短いの長いに太いと書いてチョータと言うもんだ。チョー(長)が一緒だな。名字も一緒だ。もしかしたら、あんだはわしの子孫かもしれねえ。あんだの知ってる先祖の名めっコ、も少し言ってけれ」
「長四郎、長蔵……」
「なに、長四郎っ。それは、今度息子が生まれだら付けようと思ってだ名めっコだ」
「長四郎というのは、私の父の名でして、父が言うには、長男だけど四郎というのは、先祖に長四郎という立派な人がいて、その先祖の名前をもらったからだと」
「円左衛門様、わしとこの坊さんは何んが深い縁がありそうだなんす」
「したども長太、こんな信じられねえ話コはねえべ。トシヒコという……むむ、祈年祭の名に似てるな。縁起のいい名だ。いや、それはどうでもいい。トシヒコというおぬし、では聞くが、徳川吉宗様の次の将軍は誰かね」
「う〜ん、確か、吉宗の子の家重だったと思います」
「そうげ、家重様か。うむ、そうかもしれねえな」
「ところで、さっきの、私の名前が何かに似ているというのは、どういうことですか」
「いや、トシヒコという語呂が祈年祭の名に似ていると思ったまでのことだ。祈年祭というのは、昔から毎年二月に、春の農耕を始める前に、天気に恵まれますように、豊作になりますようにと、そして、天皇様の長寿と国家の安泰を神様に祈る祭りのことだ」
円左衛門はそう説明すると、横でうなずいている長太にささやいた。
「長太、この人は嘘ついてないようだが、村の衆には、キリシタンから改宗した坊さんだということにすっぺ。近頃の村の衆は、やげに疑い深くなってるがらな。そんで、お前んとごで面倒見てけれ。なに、少しは援助すっからよ」
「円左衛門様、この凶作のとぎに申し訳ねえす。この人は、わしの子孫にちげえねえんで、喜んで面倒見ますだ」
「そうと決まったら願掛けやるべ」
円左衛門はそう腹を決めると、くるりと体を回して村人に向かって言った。
「みんな、この人はキリシタンだったが、改宗して坊さんになったそうだ。長太がしばらくお世話するごどになったがら、よろしぐ頼む。それにしても、ちょうど、わしらの願掛けの日に居合わせた坊さんだ。きっといいごどあるべ。この坊さんと一緒に願掛けすんべえよ」
すると、遠巻きにしていた村人たちはいそいそと「願掛之松」の下に集まり、一斉に鍬を松の枝に掛けてムニャムニャ祈りだした。長彦も両手を合わせた。
そのとき、ギョロ目の若者が怪訝そうに言った。
「坊さん、数珠はねえのがあ。俺は、山の神や田の神は信じるども、こむずかしい仏教は信じでいねえ。だども、坊主は数珠を持ってるこどぐれえは知ってるだ」
「数珠ですか、数珠……。ああ、私の数珠は特別に霊験あらたかなものでして、このように腕に巻いています」
長彦はとっさの思い付きで腕時計をそっと見せた。
「マンズ(とても)きれいだなんす。白金色にきらきら光ってるでねえがあ」
「他の人に言わないでくださいね。言うと、霊験が逃げてしまいますから」
「おお、わがった、わがった。言わね、言わね、何も言わね」
その男は慌てて再び祈りだした。
長彦は冷や汗を滲ませながら目を堅く閉じて、「南無阿弥陀仏」を何度も繰り返し唱え続けた。
丈の高い茅が生い茂る川岸の、裏山の木々の枝葉が雪崩のように覆いかぶさる所に、草庵のような長太の家があった。
建て付けの悪い木戸を開けて中に入ると、板壁の隙間から外の様子がよく見えた。
長太は「オガどご(妻を)呼んでくる。ちょっとばかり待ってでけれ」と言って出ていった。
長彦は、ずうずうしくどこかに座るのもどうかと、その場に立ったまま家の中の様子を探ることにした。
意外に広い土間には、炭俵が二つ。その横に鍬や鋤、大小の鎌など立てかけられ、壁には蓑笠や竹籠、縄その他、長彦には名も知らない藁細工の品々がぶら下がっている。さらに老眼の目を凝らすと、切り株の上に鉈とマサカリと藁打ち用の小槌が置かれ、その奥には小型だが臼と千歯こきもあった。
右に視線を転じると、筵が二枚敷かれた板の間があって、真ん中の囲炉裏には薪が焚かれ、自在鉤で吊るされた鉄鍋が湯気を上げていた。パチパチ跳ねる薪から噴き出す青白い煙が、ゆったりと天窓を抜けて、秋晴れの空へと吸い込まれていく。
やや狭い板の間の片隅には、粗末な調理台らしきものが据えられ、その横の大甕には筧から清水がチロチロ落ちて、甕から溢れた水は、土間に浅く掘られた溝を伝って外の川へと流れていく。
<部屋はこの板の間だけかな。そんなことないだろう>
ややあって、黒い板戸を見つけた。
<ここがきっと寝室だろう>
そして、出入り口の横にも、板戸のない小さな部屋がある。
<おそらく納戸だろう>などと勝手に想像していると、外から女性の声がした。
長太に連れられ土間に入って来た奥さんは、ぼうっと立っている長彦を見て、優しく語りかけてきた。
「あんれ、まんず、おこしやす。ワダス(私)、この家の嫁のトミ子だ。ヨメと呼んでけれ」
「初めまして。岩川といいます。長居はしないつもりです。実は私は……」
長彦が言いかけると、長太が皆まで言わせまいとばかりに話しだした。
「この人は坊さんだ。だども、さっきしゃべったとおり、わしらの子孫に間違いねえだ。んだがら、わしらでお世話せねばなんね」
「んだども、オド(旦那)さん、メシ、どうしたらえべが……」
トミ子は、大きくなっているお腹をなでながら言った。
「なに、メシぐらいなんとがなる。円左衛門様も援助してくれるし」
「メシのごどは少し心配だけど、オドさん、ワダスは喜んでるだ。ワダスのお腹に今、長四郎がいる。そごに、ワダスらの子孫だというお坊さんが来たんだべ。こんだに縁起のええごどねえ。なあ、長四郎、喜べ。この人は、岩川の家が末代まで絶えねっていうごどの証人だよ」
トミ子は愛おしそうに再びお腹をさすった。
「実は、私も食べ物を少しばかり持ってます。メシの足しにしてください」
長彦は申し訳なく思い、ナップザックと風呂敷包みを解いて、アケ徒丸からもらって、まだ残っている干し肉、魚の干物、干し餅、炒り豆を板の間に並べた。炒り豆は、歯茎を痛めるので、ほとんど食べずに残っていた。
「タマゲダ(驚いた)。このぐらいあれば、しばらぐは心配ねえな」
長太はそう言うと、それらの食糧を筵に巻いて、出入り口の横の薄暗い小さな納戸に置いて出て来た。
そのとき、外から男の声がした。
「長太、俺だ、増浦の弥助だ。円左衛門様からの届け物だ。戸を開げでけれ」
「おお、弥助。戸だば、いづでも開ぐよ」
「ンデネグテ(そうではなくて)、両手がふさがってるだよ」
「あっ、そうげ。フトヤ(少しの間)待ってけれ」
中に入ってきた弥助という男は、「願掛之松」の下で長彦を疑った若者だった。
弥助は米五升と稗粟五升の入った叺を板の間に置いた。
「円左衛門様からだ。少ないが、よろしぐとのごどだ」
弥助はそう言うなり、すぐ戻ろうとした。
「なんだべ弥助、そんたにウルダイデ(急いで)」
「村の寄り合いがあるだ。すぐ行がねばなんねのす」
「愁訴のごどだな。オラホ(自分たち)も明日、話し合うごどになってるだ。なんとがなるべがなあ」
「なあに、円左衛門様が付いでるがら、大丈夫だあ〜。シタバ、ごめん」
長太は弥助を見送ると深い溜息をついたが、米と稗粟の袋を持ち上げて、「オガ、えがったなあ」と、微笑んだ。
「円左衛門様のとごろも大変だのに、こんだにいっぺえ差し入れでくださるなんて、ほんとにええ人だなんす」
トミ子は目頭を袖で押さえた。それを見ていた長太の目からも涙がこぼれた。
「長太さん、奥さん、この差し入れには、できるだけ手を付けないようにしましょう。私はけっこうな年齢だから、そんなに頂けません。それよりも、奥さんにはしっかり食べてもらわないと、お腹の子どもにさわります。ですから、その分だけ少しいただいて、残りは返しましょう」
長太は大きくうなづき、「やっぱり、あんだはわしらの子孫だ」と、涙でぐっしょり濡れた手を長彦に差し伸べた。
翌朝から長彦は、大振りの鎌を下げて川岸に立ち、冬囲い用の茅を刈った。川岸は「採草入会地」といって、村人は自由に出入りできた。
長彦は、丈三メートルにも及ぼうとしている茅を根元から鎌でひっかき、ひと抱え程の束にして、細引きで適当に上中下と三か所を縛った。
この時代に昼食をとる習慣はない。しかし、長彦は何か物足りなさを感じたので、昼食代わりに川の水をすくって飲み、黄昏時まで働いた。草庵から青白い煙が立ち上がるのを合図に、茅の束を運んで、草庵の板壁に寄せ掛けて少しずつ囲っていった。
茅刈りに三日、柴刈りに二日、長彦は心地よい汗をかき、川に入って体を洗った。洗濯はトミ子がしてくれた。夕食は、山菜やキノコやイモに栗と、長彦が差し入れた炒り豆や干し肉を加えたごった煮だったが、長太家秘伝の味噌味で、グルメもびっくりするだろうと思うほどのごちそうだった。腹七分位の量だが、空腹を感じることはなかった。
六日目の夜だった。トミ子が熟睡するのを待って、長太が大徳利を抱えて寝室から出て来た。板の間に寝ている長彦を起こして、「ちょっとやるか」と、長彦に茶碗を持たせてドブロクを注いだ。
「いいんですか、こんな貴重なものを」
「これだけは何とか隠しとおしてるだ。今まで、役人に見つかったごどねえがら心配はいらねえ、マンズ一杯」
長彦は、勧められるままに、グビッとやった。
「うまいっ。久々の酒です。ところで、長太さんは何処からどうして、この入通に来たのか教えてください」
「少し長くなるが、子孫のあんだにはぜひ聞いでほしいなんす」
長太は、干した川魚を長彦に勧め、自分もそれをしゃぶりながら、とつとつと語りだした。(長太の訛が非常にきついので、長彦が解説も加えながら翻訳したものを記す。臨場感に欠ける点はご容赦願いたい。著者)
「わしは享保三年(一七一八年)に上野(現在の群馬県)に、三人兄弟の末っ子として生まれた。頭はすっかり禿げているが、歳は今二十六だ。
父親は藩営の金山で働く腕のいい金名子という採掘の技術者だったが、わしが十六歳のときにヨロケという塵肺の病気で死んだ。しかしそれまで父親は、まだ六歳だったわしを金名子にしようと山に連れ出し、一緒に働かせた。
実はそのころ、二人の兄が疱瘡と麻疹で次々に死んでしまっていたし、母親も病気がちで、もはや子を授かることなど望みようもなかった。だから父親は、わしを後継者として鍛えようとしていたんだと思う。
吉宗将軍は財政再建のために、わしら鉱山職人を奴隷のようにこき使った。農民からも根こそぎ奪った。百姓たちはそれでもまだ団結して一揆を起こして、少しは要求を聞き入れてもらったようだが、わしら藩営の鉱山職人は、四六時中、役人に見張られておったから、黙って働く以外何もできなかった。
地下深く掘られた坑内は、松明の煤煙と石の粉で息が詰まり、しかも暑くて湿気がひどい。まるで地獄だった。いくら頑丈な男でも四十歳以上で生きる者はほとんどいなかった。わしの父親も三十六で死んだ。
父親が死ぬと、後を追うように母親も死んだ。母親は十五で嫁いで子どもを三人生み、ひたすら家族のために働いた。だが、長男と次男が次々に死んだあたりから、急に心が弱くなってしまい、床に伏すようになった。そんなとき、とうとう亭主にも死なれ、どうにもならなくなったんだと、わしは思う。それでも死ぬ間際に母親はわしに言った。
『鉱山はやめなさい。あんたも殺されてしまうよ。鉱山はやめなさい。長太』とね。
鉱山は案外、出入りが自由だった。勝手に抜けてもお咎めはなかった。だから、隠れキリシタンや逃亡中のならず者もかなりいた。わしは母親の躯を荼毘にふすと、上野を出ることにした。何の当てもなかったが、とにかく、まずは江戸に向かって歩いた。
当時、吉宗将軍は、甘藷を試しに植えたりして農業の振興に力を入れていた。そこで、わしも百姓をやろうと思ったが、江戸には頼るべがまったくなかった。
乞食同然に人様の施しを受けながら江戸の橋の下で寝泊まりしていたとき、参勤交代で江戸に上っているという出羽の秋田藩の武士に出会った。その侍はわしに、秋田藩で鋳造したという一分銀を恵んでくれて、何故か分からないがいろいろ詳しく聞いてきた。
わしは、こんな石ころみたいな者に興味を持ってもらったことがとても嬉しくて、身の上話をベラベラしゃべった。そうしたら、そのお侍さんが涙ぐみながら言った。
『佐竹公の秋田藩は今、鉱山開発に力を入れているが人手が足りない。おぬし、金名子の修行をしてきたというなら、きっと役に立つ。わが藩の鉱山職人はとても大事にされている。上野のようなことにはならんだろう。おふくろさんも草葉の陰で安心するにちがいない』とね。
わしはこのお侍さんの言っていることは間違いないと思った。そして、一念発起して秋田に来た。元文二年(一七三七年)、わしが十九の秋だった。
いろいろ彷徨い歩いた末に三種村の増浦というところに辿り着き、円左衛門様に出会った。円左衛門様は三種村一帯の肝煎(庄屋)だが、大変親切な方で、わしの金名子の経験を買ってくれ、砂子沢という銀山に紹介してくれた。だがやがて、いくら掘っても鉱脈に当たらなくなり、わしの体力もかなり落ちた。
鉱山で働いて五年目に、再び円左衛門様に相談したところ、『最近新しく、入通の沢を切り開いたばかりだ。そこで山と田畑仕事をやったらどうか』と勧められた。この村には、わしと同じ上野から来たという二家族が先に住んでいて、わしに百姓仕事を手取り足取り教えてくれた。
その先輩の一人が岩川長三郎というのだが、わしはその娘をヨメにもらい、名字を岩川とした。そのヨメがトミ子だ。それで、今トミ子の腹の中にいる子が生まれてきたら、絶対に男の子だと信じているから、長三郎さんにあやかって『長四郎』と命名したのだ。
まあ、そんな訳で、ここまではなんとか幸せにやってこれた。しかし、去年と今年、二年続きの凶作で、みんなの生活がとんでもなく苦しくなった。村の衆がやや殺気立っているのは、そのせいだ」
長太はここで一区切りというように溜息をついた。
「こごがら先は自分の目で確かめでけれ。そうだ。明日は裏山の栗を円左衛門様に届げるべ。朝は一緒に栗拾いだな。トシ、坊さん、トシ坊って呼んでいいべが」
「いいですよ。トシ坊で」
「んだば、トシ坊。酒っコもう一杯どうだすか」
「いや、私は一回心筋梗塞をやらかしましてね、カテーテル手術でステントを入れているんですよ。もうこれでけっこうです」
「何だすか、その……、ま、ええす。んだば、トシ坊、おやすみなんせ」
裏山は入会地の栗林だった。栗には凶作はないという。長太も長彦も杉の枝の先を鋭く削った棒を持って、草叢に隠れている栗の毬を見つけては両足の爪先で押さえつけ、棒でつついて剥きだした栗を叺に放り込む。長彦はゴム長靴なので、なんの苦もなく毬を踏みつけることができて仕事がはかどった。そんな長彦を見て長太は、「耶蘇教の国の靴はええのう。わしは草鞋だから、気い付けねえと毬にさされて、シンタゲの(死ぬほどひどい)目にあってしまうだよ」と、うらやましそうだった。
昼近くなると、叺が栗で一杯になった。
「トシ坊、今日はこれぐれえにすんべ」
長太がほっかぶりの手拭いで汗を拭きながら、毬剥きに夢中になっている長彦に声をかけた。
「オガあ、今日はトシ坊のおかげで、エギャア(たくさん)獲れたよ」
「マンズ、ほんとだ。えがったなんす」
トミ子は嬉しそうに、ぽんと手を打った。
「んだば、半分、円左衛門様に届げでくる。トシ坊と二人で行ってくるがらな。オガは、この栗煮で、長四郎の分もいっぺえ食ってでけれ」
「あんだ、シタバ(そうしたら)、円左衛門様にくれぐれもよろしぐ伝えてクナンシェ(ください)」
長太と長彦は隣りの集落の増浦にある円左衛門の家に向かった。
長太が住んでいる入通と増浦は直線距離にして一キロも離れていない。それは、長彦の時代と変わるはずもなく、長彦は<すぐに着くだろう>と思っていた。しかし、鬱蒼とした杉林の中の曲がりくねった細道は長く、円左衛門の家の前に辿り着くのに、予想した倍以上の時間がかかった。
「こごが円左衛門様の家だ」
長太が指し示した家は、他の家とほとんど変わらない茅葺だったが、形ばかりの門がしつらえてあった。門をくぐって、長太が木戸を叩くと、中から年の頃二十歳くらいの女性が出て来た。
「まあ、長太さん、どうしましたの」
「お嬢さん、この間の円左衛門様からの差し入れのお礼に、裏山で獲れた栗を持って来ただ。坊さんも連れできたす」
「ああ、それはちょうどよかった。父も今日は一日家にいますから」
お嬢様は二人を家の中に招き入れた。
その言葉遣いや身のこなしを見て、長彦は<この娘さんはここら辺の人ではないな。江戸から来たのだろうか>と思った。
薄暗い土間を少し歩くと板の間があり、囲炉裏の前に円左衛門が座っていた。
「やあ、よく来てくれた。上がってくれ」
円左衛門にそう声をかけられたが、長太と長彦は深々と頭を下げながら、栗の叺を置いてすぐに帰るつもりでいた。
「ぜひ聞かせたい話があるんだ。上がってくれ」
いつになく、円左衛門から強く勧められて、長太は長彦を誘って恐縮しながら囲炉裏端に座った。
「アキ子、せっかくの栗だ。すぐに茹でてくれ。みんなで食べようや」
「承知しました。では、鉄鍋でいっぱい茹でましょう」
アキ子と呼ばれたお嬢様は、素早くタスキをかけて、土間に設らえてある竃に火を入れた。
「長太、わしは郡奉行に殺されるかもしれんのだ」
円左衛門が突然切り出した言葉に、長太と長彦は息を呑んで互いに顔を見合わせ、次に出て来る言葉を待った。
円左衛門は語り始めた。
「昨年と今年は不作続きにも関わらず、藩の物成(年貢)が高くて、百姓はひどく困窮している。知ってのとおり、入通でも増浦でも三種村の全集落で、今年になって生まれた子どもは一人もいない。いや、子どもはできたが生まれる前に流されたり、生まれた水子が田畑や山林の肥やしにされてしまっているのだ。母親が栄養不足で乳が出ないし食べさせるものもないからね。八つくらいになった娘は城下町の旅籠に飯炊き女として売られる。長生きしすぎた年寄りは房住山の『婆落とし』から落とされる。
わしは見るに見かねて、森岡郡奉行所に物成を減らしてくれるようにと何度も陳情した。血気にはやる百姓たちには『わしに任せてくれ』と言い聞かせた。
当初は『民百姓のために善いことをしている』と、石井代官は肝煎寄合で、わしを高く評価してくれた。だから、これなら何とか陳情を受け入れてもらえるものと安心しておったのだ。
しかし、十一月になって石井殿に代わって宮崎という代官が就任してからは、三日毎に寄合が開かれるようになって、風向きが急変したんじゃ」
「ええーっ、陳情が通らねえのだすか」
長太が身を乗り出して、立ち上がらんばかりに腰を浮かせた。それを制して円左衛門が言った。
「う〜む。まだ何とも言えないが、寄合を重ねる度に、わしは酷く追及されるようになった。明日は五回目の寄合だが、さすがにわしも気が重い」
「わしら百姓だって知ってるだ。今まで寄合は、せいぜいひと月に一回程度だったべ。十一月になってがら五回も開がれるっちゅうのは、なんぼなんでもジッパリ(たくさん)すぎるしなんす」
「それに、寄合の度に新しい参考人兼説明人とかというのが加わって、あることないことで、わしを詰問するわけだ」
「どんなごどだが教えでくなんせ」
「一回目は、わしが物成を横領しているとの疑いを露わにして、帳簿上の細かいことで質問を浴びせてきた。しかも、その質問者は、これまでわしの下で帳簿を付けていた計算役の永居という小役人上がりだ。
二回目は、山吹という他村の肝煎を呼んで、わしが三種村の百姓に加担し、一揆を起こすようにと煽っている。『それは藩主に背く行為だ』と、その山吹に言わせた。わしは、百姓らが生まれた子どもを流してしまう窮状を訴えた。そんな状況の中で、お互い助け合うために百姓たちは度々集まって、わしのところに陳情に来るのは確かだ。だが、一揆などまったく考えていない、と伝えた。
三回目は、わしはよく知らない坂上家の奥方というのを呼びつけて、こう言わせた。『私は三種村の女たちと慈善活動を通じて深い付き合いをしていますが、お子を流すのは暮らしに困ってのことではなくて、自分の好き嫌いで勝手にやっていることだと、み〜んなが言っていますよ』とね。わしは呆れて開いた口がふさがらなかった」
「ハンカクサイ(まともでない)女だなんす。『み〜んな』って誰のごどだね。顔見でみてえもんだ」
「なんて冷血な女だ。人でなしだ。何が慈善活動だ」
長太と長彦は、出された茹栗に手を付けることも忘れて、円左衛門に降りかかっている理不尽に怒りを覚え、握りこぶしを震わせながら聴き入った。
「四回目は二日前の十一月十六日のことだ。いよいよ宮崎代官がこう言った。『弥助という者から聞いたが、おぬしは肝煎にもかかわらず、隠れキリシタンを入通の長太を使って匿っているそうだな。これは重罪だ。十九日の寄合で改めて沙汰す』と。それはあらぬ誤解だといくら言っても聞く耳を持たないのだ」
「私のせいで、とんでもないことに」
そう恐縮する長彦の両肩を抱かんばかりに円左衛門が言った。
「そうではない、トシヒコ殿。これはみんな宮崎代官の作戦だ。わしに濡れ衣を着せて見せしめにし、百姓たちに一揆を起こさせないようにするための謀なんだ」
「それにしても、このままだと私も捕まるということですね。明日くらいに」
長彦は観念するしかなかったが、<きっと取り調べがあるだろう。そのときは、円左衛門さんのことを思いっきり弁護しよう>と、自分に言い聞かせた。
「いや、肝煎寄合は裁くところではないから、明日は呼ばれんだろう。だが、何があるか分からんから気を付けていた方がいい。長太もな」
「へえ。んだども……」
長太は悔し涙を手拭いでぬぐった。
「おお、すまん。長話になってしまったな。どうだ、一杯やっていげ。アキ子、塩辛出してくれ。栗に塩辛は酒に合うぞ」
長彦は、アキ子からお酌されながら話題を切り替えたいと思って質問した。
「円左衛門様、こんなときにこんな質問をするのは本当に申し訳ないのですが……」
「何かな、トシヒコ殿」
「入通という村の名の由来を教えてくださいませんか」
「そうだな。聞くところによると、入通は東西南北どの方角に抜けるにも必ず通る要所だ。そこで『入り通り』が訛って『いっとり』と呼ぶようになったそうじゃ。しかし、もっと昔は一に通りの『一通』とか、一に鳥の『一鳥』とか、一に取るの『一取』などとも言われ、他の地方の山や村の名にも多くあるそうじゃから、おそらくアイヌ語か蝦夷言葉からきたのではないかという説もある。わしも実は余所者だから、本当のところは分からん。長太は知ってるか」
「とんでもねえ。すっかり三種の訛が身に染み込んだど言えども、あっしも余所者だすもんな」
「あっ、そうだったな。わしもぼけたなあ。は、は、は……」
「ところで円左衛門様、明日の寄合は何刻からだすか」
長太が改まって聞いた。
「明日はいつもより早かったな。辰刻(午前八時頃)からじゃった」
「そうだすか。んだば、円左衛門様、あっしらこの辺で。ごちそうさまでした」
「いやいや、お粗末だったな。今日はいろいろ話ができてすっきりしたわ。明日はなんとが挽回するがらな」
「よろしぐお願えしますだ」
長太と長彦は、円左衛門を拝むように深々と頭を下げて外に出た。
十一月半ばの東北はもはや冬だ。まだ申刻(午後四時頃)だというのに日はとっぷり暮れていた。
少し千鳥足になった長太が言った。
「円左衛門様は大丈夫だべが。万が一のこどがあったら、どしたらえべが。トシ坊、あんだも気い付けねばなんねえな」
「長太さんにこれ以上迷惑かけられませんから、私は今夜荷物をまとめて、明日、森岡郡奉行所の様子を見て、何もなかったら、そのまま旅に出ます」
「旅に出るって、どごさ行ぐだ。わしはちっとも迷惑でねえがら、いづまでも居でけれ」
「いや、やはり江戸に向かうことにします。私の時代の自分の家は、今の江戸の近くにあるので、とにかく向かってみます。長太さん、歩きながらで失礼ですが、本当にお世話になりました」
「わしが秋田へ来たのとまったく逆になったな。んだども、まんだ別れを言うのは早しべ。わしも明日、トシ坊ど一緒に郡奉行所さ行ぐだ。円左衛門様に何事もなげればええんだが。陳情も何とが通ればええんだが。んでねえど、生まれでくる子を流さねばなんね……。まさが、トミ子が、まさが」
長太が突然走り出した。
「ややっ、長太さん、どうしたんですか」
長彦も長太につられて走りかけたが、左膝に痛みを覚えてやめた。前方を見ると、何度も転んでは立ち上がって駆けていく長太の姿が、月明かりの薄闇の中にぼんやり見えた。
長太は一目散に我が家をめざし、勢いよく建て付けの悪い木戸を開けて中に入った。喘ぐ長太の背後で、敷居からはずれた木戸がゆっくりと外側に倒れた。
「あんだ、どしたの。そんたにウルダイデ(慌てて)」
「トミ子、まさが、まぢがったごどしてねべな」
長太はそう言って、トミ子のお腹に手を当てようとした。
「あんだ、何シンペ(心配)してるだ。ほら、長四郎は大丈夫だ。こんたに元気だよ」
トミ子は長太の手を取って、自分のお腹を撫でさせた。
「あ〜っ、安堵した」
長太はそう言うと、その場にへなへなと膝をつき、トミ子の足元で泣いた。
トミ子も長太の狼狽ぶりに呆れた顔をしながらも、ぼろぼろ涙をこぼした。遅れて到着して、外れた木戸を敷居にはめ込みながら二人の様子を見ていた長彦の頬も、涙でぐっしょり濡れていた。
十一月十九日五ツ(午前八時頃)、長太と長彦は森岡郡奉行所前に立っていた。中に入ることはできないが、なんとなく様子が分かるだろうと、時々役人に睨まれながらも怯まずに立ち続けていた。
長彦は、ナップザックの上に熊の毛皮を丸めて背負い、すっかり旅姿になっていた。ジャンパーの右ポケットが少し膨らんでいるのは、中に土笛が入っているからだ。
一方、円左衛門は、六ツ半(午前七時頃)には肝煎寄合部屋に入って開式の合図を待っていた。集まった肝煎の中でも、一際どっしりと落ち着いたその風情は、並々ならぬ人物であることを感じさせた。
開会の刻限になった。宮崎代官が一同をゆっくり見回しながら言った。
「みなの衆、本日予定していた臨時肝煎寄合は中止し、円左衛門殿の裁きを下す段に替える。そのために、今から目付と大目付が同席する」
すると、宮崎代官の左右に目付と大目付がそれぞれ座った。そして、円左衛門が宮崎代官らの真向かいに移動させられ、寄合に出席する予定だった肝煎たちと、参考人の永居、山吹、坂上らは傍聴を許され、円左衛門を背後から睨む位置に座った。
宮崎代官はゴホンと咳払いし、馬面の細長い顎をしごきながら語り始めた。
「円左衛門殿、わしが前回の寄合で話したとおり、本日そなたの処分について沙汰する。そなたは申し開きの機会も与えないのかと不服に思うだろうが、事の次第については、過去四回の寄合の議事録を目付らに熟読させた。何よりもわし自身が寄合の議長でもあるからに、わしも目付もそなたの為したことは十二分に承知の上での今回の沙汰である。よいな、円左衛門、よおく聞けい」
宮崎代官は、懐から巻紙を引っ張り出して大仰に読み上げた。
「三種村肝煎、増浦円左衛門、以下、円左衛門と申す者は、
一つ、藩の貴重な物成につき帳簿記録を偽って一部を横領した。
一つ、凶作にも関わらず物成が高く、そのために民百姓は生まれてくる子を流す程貧窮しているなどと喧伝し、百姓たちに一揆を起こすよう扇動した。
一つ、幕府及び藩の法度を破り、入通集落に現れた隠れキリシタンを匿った。
以上により、円左衛門を本日十一月十九日、羊刻(午後二時頃)、増浦集落北側の髑髏之丘において磔の刑に処す」
「納得できん」
円左衛門が大声で反駁した。
「私が犯したという三つの罪が三つともすべて真っ赤な嘘偽りであります。
一つ目の横領については、記帳した本人である永居殿の訴えによるものです。もし、横領があったとしたなら、まずは永居殿を追及すべきではありませんか。私が永居殿に指示したというのであれば、なぜ永居殿はそのことを明らかにしなかったのか、腑に落ちないことばかりであります。
二つ目、子どもたちが流されているという紛れもない事実を無視しようとは、いかな代官であろうとも許されるものではありません。宮崎代官は現地調査をされたのでござろうか。実態を把握すれば、私が言ってることが嘘などではないことがすぐにわかることだ。物成の削減要求については、先の代官の石井殿が『民のために非常に善いことだ』と評価してくださっていたのですから、百姓に一揆を起こさせる理由など何一つありません。
三つ目の隠れキリシタンの件ですが、役人誰一人その者と会って話もしておらぬのに、何故に隠れキリシタンなどと断定なさるのか、証拠を示してほしい。このように……」
「黙れ、円左衛門。問答無用じゃ」
宮崎代官の脅迫的な制止を跳ねのけ、円左衛門はさらに言った。
「このように、ありもしない濡れ衣を着せて一方的な処理を為したことを藩が知ったら、宮崎殿、そなた自身の身の上に天罰が下りますぞ」
「ええい、何言うか。ものども、こやつをひっ捕らえて早く処刑場へ連れていけっ」
奉行所の外に立っていた長太と長彦の前を、瓦版の束を抱えた十人程が奉行所から飛び出し、四方に散っていった。
長彦は風に飛ばされて足元に落ちた一枚の瓦版を拾って読んだ。
「十一月十九日羊刻、増浦集落北側の髑髏之丘にて増浦円左衛門が磔の刑に処されるなり」
長太が瓦版を長彦の手から奪うように取って何度も読み返した。
「ああ、最悪だ。どしたらえべがあ」
「いや、長太さん、諦めるのはまだ早いかもしれません。とにかく増浦に行きましょう」
「んだども、おがしいな。瓦版はご法度なのに、なんしてあんだに堂々と運べるんだべが。しかもよ、奉行所の中で刷ったみてえだ」
「長太さん、これもみな宮崎代官の策略ですよ。円左衛門様が昨日言っていたように、三種村中の者に円左衛門様の磔を晒して、見せしめにしょうとしてるんです」
「恐ろしい人だ、宮崎代官というのは。おらたちのこの先、真っ暗だ」
羊刻(午後二時頃)になった。髑髏之丘に集まった三種村中の民百姓らは、急に薄暗くなった空を見上げて「雪コでも降ってきそうだなや」と、囁き合った。
「ようし、建てろ」
役人の合図で、後ろ手に縛られた円左衛門を括り付けた丸太が真っ直ぐに建てられた。円左衛門は斬髪され、顔は激しく殴られたのだろう、赤黒く腫れていた。
「惨い。むげえすぎだ」
「円左衛門様は仏様のような人だのに」
「何悪いごどしたっていうんだべ」
「メラシコ(娘)、モギツケネエな(かわいそうだ)」
民百姓らが騒ぎ立てたのを機に、宮崎代官が一喝するように言った。
「うるさいっ、百姓ども。なぜ円左衛門が磔の刑に処されるのか、今から読み上げるがら、よおぐ聞げよ」
宮崎代官はもったいぶりながら懐から巻紙を取り出して大声で読み上げた。
「三種村肝煎、増浦円左衛門は、一つ、藩の物成を横領した罪。一つ、百姓一揆を扇動した罪。一つ、法度を破り、隠れキリシタンを匿った罪。特に百姓一揆扇動は重罪である。故に本日、円左衛門を磔の刑に処す」
宮崎代官はゆっくり巻紙を懐にしまうと、百姓らを睨みつけながら言った。
「わがったが。もしこの中に、一揆を企てている者がいたら、円左衛門と同罪じゃ。見つけ次第、即刻磔にするぞ。まあ、んだども、円左衛門はおぬしらのためによく頑張ったと聞いておる。よって、特別に言葉掛けを三人だげに許そう」
その瞬間、アキ子と長太と長彦が宮崎代官の足元に倒れ込んで叩頭して願った。
「たった一人の子どものアキ子です。せめて父に、私が作ったドブロクを味あわせてやってください」
宮崎代官が「よし」と言う間もなく、アキ子はドブロクを浸み込ませた綿を細い竹竿の先に付けて、円左衛門の口に寄せた。円左衛門は美味しそうに綿を吸った。
「アキ子、いいできだ。これなら増浦のみんなと仲良くやっていける。アキ子、村のもんと一緒に生き抜いてくれよ」
「父上、わかりました。成仏して、私たちをいつまでも見守ってください」
アキ子は実に気丈だった。一方、長太は何も言えず、ただただむせび泣いている。長彦は長太が話すのを待ち切れずに言った。
「円左衛門様、私たちと話をした昨日、円左衛門様はご自分が死罪になることを実は分かっていたはずです。あの時なら逃げることができたのに、なぜ、そうしなかったのですか。どこかにいったん身を潜めて時間を稼げば、何かいい知恵なり方法が見つかったかもしれませんのに」
円左衛門は、腫れた瞼の隙間から瞳を輝かせて言った。
「トシヒコ殿、わしは江戸におった頃、ソークラテースという西洋の偉い哲学者について書いた本を読んだことがある。ソークラテースは、若者を堕落させたというあらぬ疑いで、服毒による死刑判決を受けて投獄されていたとき、脱走を勧める弟子にこう言ったそうじゃ。
『人間にとって大事なのは、多数の者の脅威に屈して自分の魂を破滅させてまでも、ただ生きることに汲々することではない。善く生きることこそ大事なのだ。それは一つには、不正はそれ自身が悪なるが故に、例え自分がいかなる不正を加えられようとも、何人に対しても、自分自身が不正を加えてはならない』とな。
トシヒコ殿、わしもそう生きたい。善を全うしたいのじゃ」
「もうよかろう。下がれ」と、宮崎代官がアキ子ら三人に命じた。そして、右手を軽く挙げて言った。
「やれっ」
槍二本が円左衛門の胸の前で一旦交錯して、左右に離れた。
「えいっ」
次の瞬間、両脇腹を槍で刺し貫かれた円左衛門は、ガクンと首を垂れて死んだ。そのとき、すぐ近くの林に雷が落ちて、一本の百年杉が真っ二つに裂け、続いて霰が激しく降り注いだ。
「おのれ、隠れキリシタン。きさまが何か仕掛けたんだろう。こやつを殺せ」
宮崎代官が狂ったように叫ぶと、役人の一人が槍を構え、長彦目がけて突進した。
<もはや、これまでか>
長彦は咄嗟に土笛を取り出し、思い切り吹いた。
長彦は自分が煙に化身して空に起ち上っていくのを感じていた。地上を見下ろすと、槍で長彦を突こうとした役人が腰を抜かして空を見上げている。
再び続けざまに雷が落ちて、木々が次々と砕けて煙を上げた。そして、雷の一つが宮崎代官に落ちた。宮崎代官はたちまち黒焦げになって死んだ。見る影もなかった。
役人も民百姓もなく、みんな悲鳴を上げて逃げ去った。
残ったのは、磔になった円左衛門と、磔柱の根元に屈むアキ子、いつまでも泣き止まない長太の三人だけ。とても静かだった。
しんしんと、それぞれの頭と肩に降り積もる雪。動くものは、ただそれだけだった。
(下巻に続く)
第一章の房住山に関することや第二章の蝦夷三兄弟、第三章の円左衛門等々、この物語を綴る上で、秋田県山本郡琴丘町(現在の三種町)が作成した資料を大いに参考にさせていただきました。資料提供に多大なご協力を賜りました床田昭治氏には衷心より厚く感謝申し上げます。
ー著者についてー
工藤禿志=本名は工藤長彦。一九五三年六月六日、秋田県山本郡三種町生まれ。