08
飯塚は、走り疲れて木の幹に手をかけると、辺りに漂う霧に気付いた。
「ミヤジっ!」
姿も、答えもない。
「ケン!」
一人で林の中に入ったことはあった。しかし、林にこんな霧がかかったことはなかった。
前後が見えなくなっただけで、どこから来てどこに戻ればいいのかが分からなくなってしまう。飯塚は、一歩踏み出しては正しい方向なのか考え、また一歩進んでは左右を見回した。
戻った方がいいのか。戻るってどっちに行けば戻れる?
そう思った瞬間、背後から金属音がした。
鉄の板に、鉄の棒でひっかくような音が響く。飯塚は、後ろに気配を感じ、ゆっくりと振り向いた。
見た瞬間、自分でも信じられないような声を出していた。
先頭を走っていたケンは、林の中を走りながら奇妙なことに気が付いた。
左右に流れて消えいく風景が、いつの間にか止まっていた。
右足を前に出して、着地、体重を乗せて体が前に行ったら蹴りだして、左足を前へ。
確かにケンは走っていた。何度も何度も交互に足を前に振り出している。
「!」
ケンの足元は、ぼんやりと霧がかかって見えなくなっていて、何を踏みしめ、蹴っているのか分からなかった。
しかし、どうやらそのせいで前にも横にも後ろにも進まず、この場所にとどまっているのだった。
ケンは、足を止めて、周りを見回した。すると、足元の霧が晴れた。
しかし、前にも後ろにも、右にも左にも、飯塚もいなければ、宮地もいない。
絶対に後ろにいるはずだと思って、その方向に振り返って、大きな声で叫ぶ。
「お~い、飯塚ぁ~、ミヤジィ~」
音は林に吸い込まれていくように消えていき、何も返ってこない。
ケンは言い得ぬ恐怖を感じて、体が震えた。
「?」
ケンが後ろを振り返ると、見えないほど近くに何かいて、ぶつかってしまった。
尻餅をついて、何にぶつかったのか、と顔を上げる。
「あっ、あっ、あっ……」
何か来る。
宮地は木の幹に隠れてそれが何かを見極めようとしていた。
ガサっと音がして、次に音がした時だった。
草が踏み倒され、その者の姿が見えた。
「ゾ……」
思わず声を出してしまってから、慌てて自分の手で口を押えた。
体が左に傾げている、昨日の『動く死体』。朝、ケンと紗英が言っていた『リビング・デッド』。いわゆるゾンビ。
ゾンビは宮地が見れない夜の時間に放送する洋画の世界のものだったが、目の前で動いているのは本物の『ゾンビ』だった。
そのゾンビは何もなかったように右肩を前に出し、少しだけ遅れて右足がでて、左肩が前に出ると、やっぱり少しだけ遅れて左足が出てくる。
そんな奇妙な歩き方で進んでくる。
「おいっ!」
宮地は、ゾンビに向かって声を出した。
頬の皮膚がはがれ、顎の骨と歯がむき出しになっている顔が、こっちを向くか、と思ったが、全く聞こえないようだった。
「お前誰だ!」
宮地は、確かめるようにもう一度声を掛けた。
見開いたままでこぼれ落ちそうな眼が、宮地に向けられることはなかった。
「聞こえないのか?」
奇妙な金属を擦り合わせるような音が聞こえてくると、ゾンビはいきなり宮地に振り向いてきた。
「えっ?」
見つめられているのかどうかもわからなかったが、一歩、また一歩、と宮地に方へ進んでくる。
宮地は木の幹から離れ、下がりながら別の木の幹に身を隠した。
ゾンビは右肩右足、左肩左足、と体をひねるように歩き続けているが、宮地が隠れている木とは違う方向に向かっていた。
「見えない? じゃあ、どうやって生きている?」
動く死体だから『ゾンビ』であって、生きているわけではないのだ。死んでいるなら眼も耳も利かなくて当然だ。
けれど、さっきはこっちに向かってきているようだった。
あの奇妙な音が、あいつに指示しているのだろうか。
宮地は木に体を隠しもせず、ゾンビが歩くのを見つめていた。
「そうだ! 飯塚とケンはどこ行った?」
宮地はもう何も考えられずに、とにかく前に向かって走り出していた。
「飯塚! ケン! いるのか? 返事しろ!」
この林を抜けだすこと、全員助かること。
それだけを考えていた。
宮地はキノコのことなど忘れていた。
走っているうち、周囲に霧がかかった。見えづらく、ミヤジは走るのをやめていた。
「飯塚! ケン! 返事してくれ」
歩きながら、辺りの様子を見る。
同じような草や竹、木々の風景が霧で埋まっている。
どっちに行くべきか、わからなくなって立ち止まると、ポンと肩を叩かれる。
「うわっ!」
乗せられた手を払って、振り返る。
焦って身構えると、いきなり聞き覚えのある笑い声が聞こえる。
「ミヤジ、驚きすぎだよ」
「な、なんだよ。飯塚かよ。あんなに大きな声で呼んだのに」
「大声で、呼んだ?」
飯塚は首を傾げる。
「いや、聞こえなかったけど」
「じゃ、いつからそこにいたんだよ」
「今?」
「突然現れたとでも……」
その時、金属を擦り合わせるような、奇妙な音が聞こえてきた。
「ヤバい!」
飯塚がそう言って、宮地の腕を引っ張った。
「来る」
「何が?」
「ゾンビだ」
宮地は飯塚が小さい声になっていることに気付き、言った。
「あいつらは耳も眼も利かない。大きな声で話したって気付かれない」
「けど、動いているものを捕まえるぞ」
と、霧の奥から、右肩、右足、左肩…… ガサガサと音がして、草や竹を踏みしめながらゾンビが現れた。
二人はじっとそれを見ている。
「おい、聞こえるか?」
飯塚が宮地の言ったことを確かめるようにゾンビに向かって言う。
現れたゾンビは、ピクリともせず、そのまま前進を続ける。
「ほんとだ。聞こえてないみたいだ。で、見えてもいないのか?」
「さっき確かめた」
宮地がゾンビの前を横切るが、ゾンビはただただ前へ進むだけで、宮地を追いかける様子はなかった。
「けど、危険だぞ」
飯塚がそう言った瞬間、ゾンビは何かを踏みつけた。
「ほら、見てろ」
宮地はゾンビが屈んで足元から何かを拾い上げるのを見た。
「鼠?」
そもそも頬の皮膚がなく、歯がむき出して見えるその口が大きく開かれる。
そのまま手が口に運ばれると『キュー、キュー』と鼠の鳴き声が聞こえた。
「食った」
「食ったんじゃない。噛みついたんだ」
口から手を離すと、咥えられた鼠が痙攣するように、ピクピク動く。
そして、口が開いて鼠が地面に落ちていく。
今度は真っ赤に染まった口を閉じると、ゾンビから何かを飲み込んだような音が聞こえる。
「やつら、血が必要なのかも」
ゾンビ側も何かをえたように体が震えた。
「ミヤジ、ケンだ。ケンを探そう」
「うん」
宮地と飯塚は、ゾンビから遠ざかるように走り出した。
走っているうち、霧が晴れてきた。
「飯塚、疲れたよ」
「がんばれよ」
「だけどさ……」
さっきから前に進んでいないような気がする。
右も左も、まったく風景が変わっていかない。
「なんかおかしいぞ」
飯塚も走っても進まない状況に気付いた。
宮地は足元を見ると、そこだけ霧がかかったように曖昧で、見えなくなっていた。
「ケン! ケン! 聞こえるか?」
「ケン。早く逃げよう。ここは危険だ」
「止まろう、走っても走ってもこのままじゃ……」
宮地が立ち止まると、飯塚が見えなくなった。
「ミヤジっ?」
飯塚は宮地の姿が見えなくなって足を止めた。
すると、足元で宮地が座り込んでいるのが目に映った。
「ミヤジ、大丈夫か?」
飯塚が手を伸ばして宮地を引っ張り起こす。
パン、と飯塚と宮地は同時に尻を叩かれる。
「わっ!」
気付くとそこにはケンが立っていた。
「なんだよ、ケン。いつからそこに……」
「今だよ今」
「……」
宮地はどこかであった状況に首をかしげていた。
「大きな声で呼んだのに、聞こえなかったのか?」
「えっ? 呼んだの?」
「……」
宮地は周りを警戒した。
あの妙な金属音がして、ゾンビが現れる。飯塚の時はそうだった。だから今度も……
「あっ、あの音」
ケンが言った。
「ヤバい。ゾンビがくる」
声が小さくなっているケンに、威張ったように飯塚が言う。
現れたゾンビの前を、喋りながら横切る。
「やつらは眼も耳も利かないんだ。大きな声で話しても気が付かない」
「えっ? おい、だ、大丈夫か?」
びっくりしたようにケンの声が裏返る。
「そして奴らは狙ったものを捕まえて、噛みつく」
ケンはうなずく。
ゾンビは器用に鼠のしっぽを踏みつけて、動けなくなっているところを手で摑まえる。
「鼠に噛みついた。鼠は死んだと思ったのに……」
「えっ?」
ゾンビの口から、真っ赤な血が流れ落ちる。
逆に飯塚が驚いたように聞き返す。
「鼠は死んだんじゃないのか?」
鼠がピクピクと動いて、止まった。
ゾンビは間違って手を離したように鼠を落とす。
「動き出すんだ。奴らのようにたどたどしく足を動かして」
「……」
飯塚と宮地も、木の幹に隠れて落ちた鼠を凝視する。
「死んでるだろ」
確かに仰向けになって、これが動き始めるとは到底思えない。
「もうすぐだ」
ケンが言うのと同時ぐらいに、再び鼠の体が痙攣し始める。
そしてゆっくりと足が動いて、クルッと起き上がる。
人型のゾンビが動いていく方向に、鼠も倣ったように付いていく。
「放っておいたら林の中の鼠という鼠がゾンビ化しちゃうぞ」
飯塚がそんな封に、思いついたままを口にした。
「それどころじゃないよ」
宮地は言葉を続ける。
「こいつが噛みついているのが、鼠だけじゃない、としたら?」
「どういうことだよ」
「狸とか、カラスとか、林にいる生き物が、どんどんゾンビ化したら……」
宮地の言葉に、飯塚もケンも気が付いたように恐怖を顔に表した。
「け、警察を呼ぼう。キノコを探している場合じゃない」
「飯塚、これ、現実だよな? 現実なら、頬をつねってくれ。痛いはずだから」
「ケンはこっちをやってくれ」
飯塚がケンの頬を、ケンが飯塚の頬をつねった。
『イテテテ!』
二人の声はシンクロしたように同時に聞こえた。
宮地は昨日も見ていることであり、二人よりは落ち着いていた。
「警察が本当に信用してくれるだろうか」
「……」
これがだれかのイタズラだったら。映画の撮影とか、テレビのドッキリ番組のネタだったとしたら。
「そ、そうか。ほら、テレビで真っ赤なヘルメットを被ってさ、『ドッキリ』の看板を持ったおじさんが、そこら辺からひょいってさ」
「ドッキリか!」
ケンは嬉しそうに木の幹から飛び出して周りを走り回った。
「ドッキリなら怖くないぞ!」
「そ、そうだよな」
飯塚も隠れるのをやめてカメラがないか、おじさんが隠れていないか辺りを探し始めた。
ゾンビはまだすぐ近くに見えている。
「危ないよ! まだわからないぞ!」
宮地一人、木の幹に体を隠したまま叫んだ。
「今の内に逃げよう!」
「逃げたら、テレビに映らないよ」
「もう少し探そう……」
ケンがそう言った時、足元で鼠が大きな口を開けて、ケンの靴に噛みついた。
「ケン、これ、ゾンビ鼠だ」
宮地が鼠のしっぽを踏む。
「やばいから、早く足を引いて」
「うん」
ケンが足を引くと、宮地が踏んでいたしっぽが切れてしまい、鼠はケンの靴に噛みついたままだ。
足をブンブンと振るが、鼠は落ちない。
「取れないよ」
「ケン落ち着け」
飯塚がケンの足を止めさせる。そして拾った木の枝で鼠の体を貫く。
鼠は口を開いて靴を離す。ケンは急いで足を引く。
「見ろよ、口がクビの近くまで裂けてる」
ケンはそれを確かめるように顔を近づける。
宮地は目を背け、二人の背中を叩く。
「そんなことより、早く逃げよう。これは『ドッキリ』なんかじゃない。あの鼠に噛まれたらゾンビになっちゃう」
金属を擦り合わせるような奇妙な音が聞こえてくる。
三人は音のする方向を一斉に振り向く。
すると、ヨタヨタと転がりそうに歩く鼠が一匹、二匹、三匹……
「見ろよ飯塚」
「いつのまにこんなに増えてるんだ」
「二人とも、落ち着いてみてる場合じゃないよ!」
宮地は二人の服を引っ張った。
三人は顔を見合わせると同時に声を出した。
『逃げろ!』




