19
職員室から、自分の教室に戻る途中、宮地は紗英にこう言った。
「誰もいないわけじゃなくて、少し安心した」
「確かに、誰もいかなったらどうしようという気持ちはあったけど。皆がゾンビになっているよりはましだった」
「けど、飯塚の言い方だともっと校庭で遊んでいたと思うんだよね。それがいなくなったのは」
「うーん。けど、時間も遅くなってるし」
そうだろうか。宮地は考えていた。何かどうしても小学校を出なければならない状況から、皆出て行ったのではないか。それが何の理由かまでは分からなかった。もしどうしても出て行かなければならない理由があったのなら…… 宮地は考えた。そのタイミングに乗り遅れたことになる。
「あと、職員室もそうだったけど、どうして灯りが点かないんだろう」
宮地はまた廊下の壁にあるスイッチをカチカチ、と動かしてみる。まったく電気が通っている気配がない。
「……停電?」
「これから暗くなるよね……」
「やめてよ」
「けど、事実じゃないか」
「怖がらせるようなしゃべり方をやめて」
階段を上る手前で、紗英が手を握ってきた。
「!」
「べ、べつに怖いからじゃないよ」
「う、うん」
宮地は頬が熱くなるのを感じた。
階段をのぼり、教室の扉を開ける手前で、紗英が『パッ』と手を離した。
「ただいま」
「……」
飯塚とケンは、ぼんやりと窓の外を見ていた。
遠くに山々が見える。まだ陽は沈んでいなかったが、着実にその山の方向に進んでいた。
「お帰り。ミヤジ電気つけて」
飯塚がそう言うと、宮地は扉の近くにある教室の灯りのスイッチを入れた。
「あれ…… やっぱり、停電なのかな」
「電気点かないの?」
「うん、廊下も点かなかったし、職員室も暗かった」
「ケンと一緒にここから外を見てたんだけどさ。ゾンビなんて一人もいないぜ。っていうか、歩いているひとすらいない」
飯塚はお手上げ、とばかりに両手を広げた。
「学校って他に誰かいた?」
「いない」
紗英と宮地がそろって首を振った。
「思うんだけどさ。もうそのゾンビの騒ぎは落ち着いたんじゃないの? 平気なんじゃね? だから、みんな家に帰ったんだよ」
飯塚の様子から危機感というものが消え失せていた。
「そんなわけ……」
「俺、見てないから。ゾンビが『街中』を歩いているのなんか。見たのはケンと紗英とミヤジだけ」
紗英が言った。
「私のお父さんも見たわ」
「もう時間がたったからさ、街に自衛隊とかが来てさ、大丈夫になったんだよ。その時の戦いでさ、停電になったかもしれないけど」
宮地から飯塚を見る。飯塚の背後の窓には山々が見える。遠くの街も見える。灯りが一切なく、空の暗さにあわせてどんどんくすんでいく。
「ま、そういうことだから。お腹減ったから、家に帰るわ」
「ちょっと待てよ」
「だって、何か食べたくても、食べるとケンに何かあげなきゃいけないんだぜ。おかしな話だろ」
「けど、そとにはゾンビが」
「だから『そんなの知るかよ』ってことじゃん」
飯塚は立ち上がって扉の方へ向かう。
「ゾンビがいたら、引き返してくるさ。じゃあな」
紗英が引き留めようと手を伸ばしたが、扉がピシャリと閉められてしまった。
宮地は、ゆっくりとケンの方を向いて何かを言いかけた瞬間、後ろから紗英が話し始めた。
「ケンがいけないのよ」
ケンは窓の方から、紗英に向き直る。
「なんだよ、それ」
「ケンが何かと引き換えに駄菓子を渡す、とかいうからよ」
「悪いかよ。取って来た代償をもらうだけだ」
「だから……」
「そうか。紗英、いいこと思いついた」
「チューしろよ。俺とチューしたら、全員に一個ずつ、『よっちゃんイカ』を渡すよ。もう一回したらもう一個ずつ。おっぱい触らせてくれたら……」
話している最中、宮地がケンの頬をひっぱたいた。
「いってぇ」
「この野郎!」
絶対に勝てない、宮地はそう思っていたにもかかわらず、思った時には、ケンにとびかかっていた。
ケンは、宮地を捕まえると、素早く体を捻って足を掛けた。宮地はあっけなく床に転がった。
「弱いくせに、喧嘩をしかけてくるなんて」
ケンがすばやく倒れた宮地の上に馬乗りになる。
宮地が足を使ってケンをどけようとするが、ケンは宮地の足を察知してかわしてしまう。宮地が暴れてもケンはビクともしない。
「ほらっ!」
ケンが握りこぶしを宮地の顔面に振り落とすマネをする。宮地は顔を背けて目をつぶる。
ケンは同じことを二、三度やった後、
「ビビってやがる。ビビるなら、初めから逆らうなよ、あ?」
「ケン、もうやめて」
「突っかかって来たのはミヤジの方だぜ」
紗英は離れた席の椅子に座った。
「チューしていいから」
「ほ、ほんとうかよ」
ケンが体を緩めると、宮地が再びケンの頭に足を掛けようとする。
ケンは初めから知っていたように、宮地の顔面に拳を落とす。
「ぐっ……」
宮地は口の中が切れて、血の味を味わった。
「……本当に、チューするんだろうな」
紗英の表情は曇っていたが、言った。
「ええ。こっちに来てちょうだい」
紗英は座ったままだった。
ケンが紗英の所に行って、肩に手を置くと紗英は手を払った。
「触らないで。触っていいって言って無いでしょ」
「あ、ああ……」
ケンが姿勢を低くして、唇を突き出す。
「紗英、椅子に座ってないで、立ってくれないかな」
「いやよ。そんなのどうでもいいでしょ」
「わかったよ」
近づいていく顔と顔。
「ちょっとまって、ケン。見られるの恥ずかしいから、目をつぶって」
「え~」
そう言いながらも、ケンは目をつぶる。そして、再び唇を突き出して、紗英の方に近づけていく。
「あっ、見てる」
確かに見えてなければ、唇と唇を近づけることは出来ない。正確に唇を近づけていくのは、薄目を開けているからに違いなかった。
「だってみえないじゃん」
「だめよ」
紗英はハンカチを取り出した。そして、ケンの目を隠すように、ぐるっと回して後ろで結んだ。
「紗英、これじゃ見えないよ」
紗英が倒れている宮地に向かって無言で手招きする。
「ほら、こっち……」
「目隠しとってもいい? これじゃ何にも見えないよ」
「大丈夫よ、顔に手を当てて、誘導してあげる」
「本当? このまま近づいてるの?」
「本当よ。ほら、あとちょっと」
チュ…… 唇と唇がぶつかった感じ。頬に当てられていた手が今度急に押し返す。
ケンは、やった! とばかりに慌てて目隠しを外す。
目の前には、紗英が座っている。
「これで全員に一つずつ分けてくれるわね」
「うん。分ける分ける」
ケンがビニール袋を取り出して、駄菓子を机にひとつづつ置いた。
教室の端で、宮地が唇を拭っていた。
気が付いたケンが宮地を見つめる。
「?」
「さっきのパンチで血が出たみたいだ」
ケンは納得したように駄菓子の分配作業に戻る。宮地は内心笑っていた。本当はこの唇とキスしたんだぞ。ケンを誘導するために頬に触れた手も、宮地のものだった。
そうとは知らず、駄菓子を一種類ずつ三人に分けてから、ケンが言った。
「ほら、ミヤジはこれ。紗英はこれ」
「ありがとう」
「ありがと」
そう言って、三人は思い思いに駄菓子を食べ始めた。




