15
霧が追いかけてくる中を、飯塚と宮地は走って道まで戻って来た。先に林の中の通り道で待っていたケンと紗英に合流する。
四人が顔を見合わせる。
疲れたのか宮地が膝に手をついて、息を整えていると、気付いたように紗英が口を開いた。
「ねぇ、松崎さんは?」
「それは……」
宮地がそのまま答えないでいると、飯塚が代わりに言う。
「子犬を探しに戻った」
視線を落としている飯塚と、宮地の顔をかわるがわる見ながら、紗英が言う。
「えっ? なんで一緒に探してあげないの?」
「それは……」
言いかけて宮地は再び黙ってしまった。紗英の視線が『痛い』そんな風に感じた。
うつむいたまま飯塚が言った。
「『ダブルオー』が自分を追うな、と言ったんだ。そんで、こっちを突き飛ばして、あの人、一人で子犬を探しに戻ってしまった」
「……」
「霧が出てきてる。早くここから出ないと……」
宮地が林を抜けようとするが、紗英は指をあごに当てて悩んでいる。
「けど、松崎さんが……」
「大人なんだから、大丈夫だよ。子犬をここで見つけて、子犬に餌をあげに、いっつも来ていたんだ。こっちより林のことには詳しいはずだ」
「……」
宮地が紗英の手を取って言う。
「紗英、まずは自分たちの心配をしないと」
全員が顔を見合わせて、静かにうなずいた。
四人は林を抜けると、口数少なく、それぞれの家路についた。
何度も何度も、宮地の頭の中に松崎さんのことが思い返された。本当に見捨てて良かったのか。しかし、あの霧の中、見えもしない姿を追いかけて林に入っていったら、おそらく自分も…… と考えて、ブルっと震えた。
「ただいま」
勝手口は鍵が掛かっておらず、そのまま扉が開いた。
「!」
まずい。
宮地は家に入ると、音を立てないようにそっと扉を閉めた。そして、この国の一般的な慣例に反して、靴のまま家に上がった。
頭の中に『ゾンビがいる』と言う考えが浮かんでいたからだ。
家にゾンビがいて、もし母が噛みつかれていたら、どうすればいい。宮地は悩んだ。ゾンビに噛まれてしまったら、助けられない。だから、母を放置して逃げるべきなのだろうか。それとも自分も母に噛まれてゾンビになればよいのだろうか。自分が噛まれないようにして、病院に連れて行けるだろうか。
勝手口から入った部屋には誰もいなかった。
部屋の曲がり角から先を覗き、何もいないことを確認すると先に進む。階段まで来たら一歩一歩、足音を立てないように上がって行く。
階段を上りきると、奥の部屋から物音が聞こえた。
宮地は背中を壁につけて、そっと近づいていく。部屋のドアノブをゆっくり回すと、扉を開ける。
徐々に顔を動かして、その隙間から中を覗く。部屋の中には誰もいない。じゃあ、物音はどこから? 窓だ、窓が開いている。
宮地は音が出ないように大きく扉を開けて、すり抜けるようにして部屋に入る。
開いた窓から、再び物音が聞こえてくる。
「うわっ!」
宮地は人影に驚いて、部屋の中で尻餅をついた。
窓の外には、母が洗濯ものを両手に広げて、物干し竿に引っ掛けているところだった。
「あら、お帰り」
宮地は母の姿をつま先から頭のてっぺんまで、何度も見返した。
「?」
「お母さん?」
「なあに? あれ、靴! 靴履いて部屋に入るって、あんた頭おかしくなったの?」
宮地は、慌てて靴を手に持つと、言った。
「いや、勝手口が開いてたから、泥棒かなにかいるんじゃないかって」
宮地は母に『ゾンビ』と言っても信じてもらえないだろうと思って、とっさに『ゾンビ』を『泥棒』と言い換えていた。
「あら、鍵開けっ放しだったかしら…… ま、それにしても心配性ね。泥棒はいないわよ」
「うん。よかった。けど、本当に物騒だから、鍵かけて。話しかけても返事しない人が来たら絶対玄関を開けちゃダメだよ」
「よく覚えているわね。大丈夫。それをあなたに教えた本人なんだから」
「約束だよ」
宮地は、靴を手で持って勝手口に戻っていった。
靴を玄関に置いた時、チャイムが鳴った。
宮地の中で『ゾンビが来たのでは』という警戒心が働いた。
「どなた?」
「ミヤジ!」
「えっ? さ、紗英?」
「ミヤジ、早く開けて」
声は紗英のもので間違いなかった。けれど…… もしこれが…… 宮地はそれを疑いきることが出来なかった。
玄関を開けて飛び出していた。
「どうしたの紗英?」
「ミヤジ!」
紗英の姿を確認するかしないかのタイミングで、宮地はきつく抱きしめられた。
背の低い宮地は、紗英に抱き着かれて何も見えなかった。暖かくてやわらかい感触と、いい匂いだけが宮地を包み込んだ。
「ど、どうしたの紗英」
そう言うと、ようやく紗英は体を離した。
見ると、紗英は涙を流している。
「お母さんが…… お母さんが……」
「えっ? お母さん? 紗英のお母さん?」
紗英はうなずく。
「とりあえず、紗英の家に行こう。お母さんに話してくるから、とりあえず玄関に入って」
宮地は紗英を玄関の中にいれて、扉の鍵を閉めた。そして慌てて二階に上がって、洗濯ものを干している母に言った。
「これからちょっと紗英の家に行ってくる」
「はい。いってらっしゃい」
「……」
母は宮地の様子をみて首を傾げた。
「今、この街で『変なこと』がいっぱい起きているんだ。さっき言った通り、返事しない人が来ても絶対に玄関を開けてはダメだよ。たとえボクの姿をしていても」
「?」
「お願いだよ」
宮地が言うと、母は手招きした。宮地は、母に近づくと、母は宮地を抱きしめた。
「わかったわ。いう通りにする」
「……じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
宮地は踵を返すと、急いで階段を下りた。
玄関先の傘立てから、太くて大きな傘を一本、手に持った。
「紗英も使う?」
そう言うと、紗英も傘を一つ選んで手に取った。
「ケンと飯塚も呼ぼう。ちょっと待って、電話するから」
紗英は袖で涙をぬぐいながらうなずいた。
ケンの所には電話が通じたが、飯塚の所はずっと話し中だった。
宮地は諦めて言った。
「飯塚のところは通じない。ずっと話し中。とにかく、行こう」
紗英は何も言わずにうなずいた。
紗英の家の前で、ケンが待っていた。
「どうしたんだ?」
「紗英のお母さんが」
宮地がそう話しても、紗英は黙っている。
「……」
「とにかく確かめよう」
「なんで二人とも傘持ってるの?」
「武器…… かな。ケンも何か……」
「電話で言ってよ。何にも持ってこなかった」
ようやく紗英が口を開いた。か細い、小さな声だった。
「家の玄関にも、傘あるから」
「お、おう」
ケンはサエの様子がおかしいことに気付いたように、小さい声でそう答えた。
宮地が紗英の家の玄関にたって、振り返ると、紗英は「鍵はかかってないわ」と言った。
宮地は同意を求めるようにうなずくと、ケンと紗英もうなずいた。
ガッ、と音を立てて勢いよく扉を開ける。
紗英の家。
初めて訪ねる女の子の家、それが、こんな状況で訪れるなんて。宮地は少し残念な気持ちになった。
家の中に入ろうとすると、傘を抜き取りながらケンが言った。
「お、おい、ミヤジ! 靴脱げよ」
後ろから、紗英が小さい声で言った。
「いいの。ケンも靴のまま上がって」
「外国のお家みたいんだな」
「……」
紗英はケンの言葉に反応しなかった。
「どっち」
宮地が言うと、紗英は「左」と答えた。
左に進んでいくと、洗濯機が回っている音が聞こえてくる。
ゴン、ゴン、ゴン、と回転するドラムとそれに伴って洗濯機全体が揺れる音がした。
突き当たりが洗濯機のあるお風呂場のあたりに見えた。
人影がある。
髪を後ろで縛って、ポニーテールにしている。紗英に似て、スラっとして背が高い。
「お母さん」
宮地が言った。ケンが言う。
「なんで紗英の家にミヤジのお母さんがいるんだ?」
宮地は振り返らずに言う。
「ちがうよ、紗英のお母さんだ」
「だって、いま、お母さんって」
「ちょっと黙ってて!」
紗英が大声を出すと、ケンは黙った。
紗英の声に反応したのか、洗濯機の方にいる人影が、ゆっくりと振り返る。
右肩、右足、右肩、右足、右肩、右足。少しずつ、肩から回って振り返るその動き…… 宮地は確信した。
「お母さん!」
紗英が風呂場の方へ駆けだす。宮地は廊下の壁に手を突っ張って、紗英が行かないように遮る。
「紗英、落ち着いて、紗英!」
紗英は宮地の腕にしがみつくようにつかまって、泣きながら声にならない声をだしていた。
「残念だけど…… お母さんは亡くなった」
「亡くなったって、死んだってこと?」
ケンが無神経にそう言った。
「死んだって言ったって、お母さん立ってるじゃん…… あれ…… なんか……」
紗英の母が風呂場から出てきて、廊下の灯りに照らされた。
口元だけが生き生きと赤く、歯が牙のように変形していた。肌は青い血管が浮いて見え、まるで皮膚全体が青黒く見える。
首元に深い傷跡があって、そこから流れ出た血で、着ている服が真っ赤に染まっている。
「ゾ、ゾンビ!」
ケンが大声で言い放った。
紗英の鳴き叫ぶ声が、ケンの声に呼応して大きくなった。
声の大きさと宮地の腕を握る力は比例するように強くなった。宮地は歯を食いしばった。
「に、逃げよう」
「いやぁ……」
紗英は目に映る現実が受け止められなかった。
おそらく、自分で母を見た時に、はっきりと理解していたのだろう。だが、どうしてもそれを現実として受け入れられなかった。だから宮地のところに助けを求めてきたのだ。自分の見間違えじゃないか、ということを確かめる為。
宮地が、あるいはケンや飯塚が、はっきり『母はゾンビだ』と言ってくれれば、訣別できると思ったのだろう。しかし、実際はそれでも受け入れることが出来なかった。突然の母の死。小学生の女の子でなくても、受け入れることは難しいだろう。
宮地は振り返って、紗英の肩に手を置き、言った。
「紗英。しっかりして。辛いけど、このことをお父さんに伝えないと。そうしないと、知らずに帰って来たお父さんもゾンビされてしまう」
「いやいやいや、お母さんはゾンビなんかじゃない!」
母親の方へ駆けだそうとする。
宮地が全力で受け止める。
「だめだよ。紗英まで失う訳にはいかないよ」
「いやよ、お母さん!」
紗英の力が抜けてくると、宮地が押し返し始める。二人が家の中を戻ってくると、ケンは先に玄関で待っていた。
「ほら、二人とも早く!」
宮地はうなずき、「紗英、ほら」と言って先を促す。
紗英の家を出ると、三人は小さな公園まで走った。
その小さな公園にはボックスがあって、公衆電話が置いてあった。
「お金ないぞ」
「緊急時だから、この赤いボタンを押せばいいんだよ」
公衆電話から、警察や消防に繋がるように赤い緊急通報のボタンがついていた。宮地はそれを押した。
受話器を外し、警察に電話する。
『ツー・ツー・ツー』
話し中の音が繰り返し返ってくる。つながるのか、つながらないのか。
宮地は受話器を置いて、もう一度繰り返す。やはり『話し中』の音が繰り返し返ってくる。
「どうして! つながらない」
「貸して」
紗英が電話の前に立って、宮地と代わって電話を掛ける。
しかし、応答はない。同じように『話し中』を示す音がするばかりだった。
「……」
ケンが、紗英と宮地の背中をつつく。
「……」
電話をかけるのに必死な二人は、それを無視して受話器に聞き耳を立てる。
するとまた、ケンが紗英と宮地の背中をつつく。
「おい、ヤバいぞ」
「……」
それでも二人は無視して警察への電話をかけ続けた。
つながらない。回線がパンクしている、とでも言うのだろうか。
と、ケンが紗英と宮地の背中をつつく。
その時、奇妙な音が聞こえた。
林の中で聞いたことがある、金属が金属に擦り付けられるような音。宮地はケンが何を言いたいのかが、なんとなく分かって寒気がした。
「なぁ、ヤバいって。二人とも、無視すんな!」
その大きな声に、紗英と宮地がケンを振り向く。
ケンが後ろに手を伸ばす。
ケンの伸ばした手の先に、小さな公園を囲んでいる柵がある。その柵の周りに、青黒い肌の『生ける屍』達が三人を見ていた。
ゾンビたちは柵を乗り越えることは出来ないらしく、柵にぶつかると方向を変えた。
柵のない公園の入り口に、到達したゾンビが、順番に、中にいる宮地たち目指してやってくる。右肩、右足、左肩、左足…… と一歩一歩。
三人は体を寄せ合いながら、じりじりと後ずさりする。
「ま、まさかこんなに増えてるなんて」
「逃げよう!」
「逃げようったって、どこにさ」
宮地は考えた。頭の中に緊急避難所の看板が浮かんだ。
まず思いだされた看板に書いてあったのは、この公園だった。もちろん、ここは駄目だ。
「この公園以外の、ほかの避難所って?」
『家』が良いがそっちへ帰る方向は、公園の入り口方向を見るかぎり、戻れそうにない。
紗英がボソッと言う。
「……学校」
宮地も、学校のことを『緊急避難所』と示している看板があったことを思いだす。
柵を超えれないゾンビを出し抜くには、学校の方に逃げるのは良い考えに思えた。
「それだ! 学校に逃げよう!」




