01
夕方。
陽が沈む方向に、遠くの山々が見える。
反対の方向は、暗く沈んでいくような林があった。
何が怖いわけでも、寒いわけでもないのに宮地はぶるっと震えた。
下校時刻を過ぎても小学校の校庭で遊び続けたせいで『お家に帰りましょう』という意味の、地域に流れる放送はすでに鳴り終わっていた。
一緒に遊んでいた友達は、別々の方向へ、バラバラに帰っていく。
中学の兄弟がいる子は、隣の中学に向かったし、塾がある子は親が迎えに来ていた。
兄弟も、塾にいく必要もない宮地は一人になっていた。
夕日が見えなくなると、あたりが一気に暗くなった。宮地は意味なく震える体を、無理やり押さえて決断した。
『林を抜けて帰ろう』
学校から家への近道が、林の中を突っ切る道だった。
林の道は、定められた正しい通学路ではない。宮地達の地域の子は、立ち入ってはいけないとされている道だった。
明るいうちは問題ないが、暗くなると電気が通っていない道は暗く、舗装していない曲がりくねった道は転んだり、道に迷うことが考えられた。
「大人たちは通るのに」
宮地はさみしいからなのか、誰もいない空間に向かって声に出して言っていた。
宮地の通う小学校から出て、坂を下り、左右に広がる田んぼを通り抜けると、川があった。
橋に回り込んで、渡ると、さっき下った分だけ上っていく道がある。その途中から明かりが消えていて、その薄暗い『林』になっている。
宮地は寒いわけではないのに、ブルっと一度震えると、小さく頷いて、小走りに坂道を上がって行った。
サッカーチームや草野球など、運動をしていたわけではない宮地は、その坂の半ばで息が切れた。
「はぁ、はぁ……」
膝に手をついて、体を曲げて休むと、木の枝が『ザワッ』と音を立てた。
「……」
宮地は風も吹いていないのに音がしたのに驚き、辺りを見回した。
何もいなかった。
いや、何もいなかった、というより何かを確認できるほど明るさがなかった。さらに言えば、坂道左右に曲がりくねっていて、アップダウンもある。そこここに死角があり、それらのどこにでも隠れることが可能と思われた。
ここ、林の入り口まで来て、宮地は後悔していた。
しかし、いつもの通学路、正しい通学路に戻るには、橋を戻って、田んぼを戻り、大きな道へ戻らねばならなかった。
これ以上帰宅時間が遅れると、間違いなく両親に怒られる。
宮地は進むか戻るか、二つの道で迷った末、林の中を進むことに決めた。
自分の呼吸だけが聞こえてくる真っ暗な林の中の道を、ゆっくりと登っていく。
すでに道は舗装がなくなっていて、すこし湿気があるせいか、何度か足を滑らせた。
足元に注意しながら進むと、何か奇妙な鳴き声が聞こえた。
立ち止まって辺りを見回すと、スッと足に触るものを感じた。
「うっ……」
宮地は慌てて飛び退くものの、足に触ったものが何かは分からなかった。
見回しても見回しても正体が分からず、次第に恐怖だけが膨らんでいた。
恐怖の理由は、そこが、ただ暗い、変な鳴き声が聞こえる、というだけが原因ではなかった。
この先の林の中に、宮地たち小学生の間で『ミイラー』と呼んでいるおじさんの小屋があるからだ。
そのおじさんは、頬がこけ、頭は剥げかかっていた。わずかに残っている頭髪も、白髪で、無精なのか切らずにいるせいで、髪の毛は肩まで垂れていた。
口を開くと残っている数本の歯が、虫歯として目に入る。頭や顎の骨、首元の骨やあばら骨も浮いて見えていて、手の甲も、皮の下の筋と骨がはっきりわかるくらい痩せていた。
生きたミイラのようなおじさん。ついた呼び名が『ミイラ―』だった。
『ミイラ―』の小屋は、薄汚れたトタン屋根の掘っ建て小屋だった。小屋を覆う板の何枚かは剥がれ、壊れていた。
小屋の周囲に用をたす穴が掘ってあって、近づくと糞尿の匂いがする。
今、その小屋から、『ミイラ―』が出てきたら……
宮地は想像して怖くなった。
林の道は、急いで走って通り抜けようと思い、宮地は坂を上りきったら、ダッシュしようと考えていた。
「!」
坂を上がり切ったところで、再び足に触れるものがあった。
足元をじっと見るが、やはり何もいない。
恐怖が全身を覆う前に、宮地は走り出していた。
暗い林の中の道を走っていると、突然足を取られて宮地は転んでしまった。
「うわっ!」
どうやら、水はなかったものの土の表面が緩いねんどのようになっていて、その上で足を滑らせてしまったようだった。
倒れた場所も同じように濡れた土が粘土のようになっていて、体中に張り付くようだった。
顔を上げると、鼠がいた。宮地の手のひらより大きな鼠が目に映った。
「あっ!」
慌てて立ち上がろうとして、また足を取られた。今度はお尻と背中に泥をつけてしまった。
「……」
鼠が素早く近づいてきて、口を開く。宮地はパッと手を退けた。
鼠は急に鳴き声を上げ、腹を上にしてひっくり返る。
バタバタともがくように足が空をかいていると思うと、ぴったりと止まった。
「死んだ……」
なおも鼠の死体を見つめていると、鼠の体は痙攣するようにくねった。
宮地は気味悪さに手を口に当てる。
鼠はなおもうごめいていると、鼠の皮膚、短毛の下にもぐりこんでいる何かが見えた。
「虫?」
右に左にカーブを描きながら、皮膚が持ち上がる。宮地は気味悪いながらも、鼠の皮膚の下にいる『何か』を知らなければならないような気がしていた。
その何かが通り過ぎた後の鼠の皮膚は、盛り上がり、時には裂けて血が出ていた。そのカーブが鼠の頭に至り、目から飛び出てきた。
線虫。
いやどんな名前の生物かは知らないが、白く、うねる芋虫のような生物。
鼠のまぶたから出てきたかと思うと、先端の尖った口のようなものをパクパクと開閉し、鼠の眼球に食らいついた。
「うわっ」
宮地は慌てて立ち上がろうとして何度も足を滑らせる。
全身が泥だらけになりながら、ようやく立ち上がると、宮地は家の方へ走り出した。
走っていると、息が切れてくる。
疲れてきたところで、道の脇にある『ミイラ―』の小屋が見える。
こんなところで止まるわけにはいかない。
何かが、いや、『ミイラー』が出てきたら怖すぎる。
大きく口で息をしながら、小屋の方向をチラチラと見て、意識しながら歩き続ける。
何も…… 何もうごくものはない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、と自らの心に言い聞かせる。
動くものは…… ない。
ドン、と何かにぶつかり、宮地の目の前が真っ暗になる。
「!」
おもわずその正面の闇に両手を突き出すと、何かに押し返され、その暗闇はなくなった。そして、宮地にぶつかったその暗闇の正体が見えた。
「だ、誰?」
暗い林の暗い道に、真っ黒なシルエットが見える。『ミイラ―』のおじさんと同じぐらい背丈だったが、体が左に傾げて『く』の字に曲がっている。
曲がった先にある顔が、ゆらっと揺れたかと思うと、宮地に手を伸ばしてきた。
「たっ……」
助けて、というつもりだった。しかし、恐怖でそれ以上の言葉が出てこない。
その歪んだ体の上についている頭は、頬の皮膚がはがれ、骨と歯がむき出しになっていた。頭髪は剥がれた皮膚と一緒にところどころ垂れている。目は見開かれたまま瞬きしなかった。体のあちこちに傷があって、血まみれになったような服と体は、黒くなっていた。
加えて鼻を突く異臭が宮地を追った。
死体。
立ち上がっている死体、とでもいう形状だった。
その立ち上がっている死体が、再び、ゆらっ、と反対側に揺れると、宮地の方へ足が踏み出された。
「!」
宮地は反射的に、揺れて傾いた方の反対側に向かって走り出していた。
一瞬、立ち上がった死体の腕が背中に伸びてきた気がしたが、それが宮地の体に触れることはなかった。
さらに大きく、激しく口で息をしながら、宮地は振り返ることなく林を走り切った。




