第一〇話 シュヴァートとシシリア
シャンが出て行った後、部屋には重い空気が漂っていた。
シシリアは食事に手を付けず俯き、シュヴァートはジッとシシリアを見詰めていた。
しばらくその状況が続いたのだが……その重苦しい沈黙を破ったのは、ガタッと乱暴に椅子に座ったシュヴァートだった。
「小娘よ、食わんのか?」
シュヴァートの声に、ビクッと反応するシシリア。
シシリアの脳裏には先程の一件が過ぎっていた。
シュヴァートの怒りに満ちた表情。発せられた重圧。そして、蠢く影。
あの時はシャンの機転によって何とかなったものの、いつ何時、シュヴァートが襲ってくるか判らない。
――こ、怖い……。
自然と震え出す身体。シシリアはぎゅっと自身の身体を掻き抱く。
罵声や怒声には慣れたつもりだった。どんなに酷い言葉を投げ掛けられようと耐えられた。激しい殺意を向けられた事もある。それでも気丈に頑張れて来れたのは……。
――皆が守ってくれていたんだ。
生まれた時から祖父の様に接してくれた執事。いつも笑顔で元気付けてくれる護衛の騎士。最後まで慮ってくれたメイド。身を呈して守ってくれた家族。
周りの優しさを改めて実感し、そして……。
――居なくなっちゃったんだ……もう、わたくしは……独り……。
心にぽっかりと穴が空き、激しく押し寄せて来る喪失感。
身体が震える。涙が溢れて来る。もう誰も……誰も……。
ふと、何かが身体を包み込む感触がした。見れば、いつの間にかシュヴァートが傍に立っていた。
「震えているぞ、小娘。寒いならちゃんと言葉にして伝えろ」
不機嫌そうな表情をしたまま、上着を掛けてくれるシュヴァート。
そこで初めて、シシリアはシュヴァートを恐怖の対象ではなくありのままの姿としてしっかりと認識することが出来た。
まだ少年と判る幼い容貌。艶のある黒髪に赤い眼はあの方と同じ。少し羨ましいとシシリアは思ってしまった。
「む? なんだ? 我の顔に何か付いているのか?」
「あ、いえ、そうではなく……ちょっと羨ましいと思って」
思わず口に出てしまい、ハッとしてシシリアは口を噤む。だが、羨ましいと言われたシュヴァートは意味が判らず追及する。
「羨ましいとは何がだ」
「えぇっと……その……シャン様に似ているなぁと思って……」
追及されてしまえば、素直に答えるしか選択肢はない訳で。シシリアは思った事を素直に伝えると、ずっと険しい表情のままだったシュヴァートが本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ほう。シャン様に似ていると言われるのは、我にとって最大の賛辞だな。この姿になれて本当に良かったと思っているぞ」
喜ぶシュヴァートはまさしく少年然としていた。その姿にシシリアは思わずほっこりとしてしまう。だが……一変してシュヴァートの表情は険しくなる。
「しかし、我が主であるシャン様がお出しになられた料理を食わんのは感心しないな。はよ、食わんか」
「あ、ごめんなさい。……いただきます」
シュヴァートの言う事はもっともだと、シシリアは慌ててスプーンを使ってたまご粥を口に運ぶ。
「美味しい……」
シシリアにとっては見慣れない料理であったが、暖かく身体に染み渡る様な優しい味だった。
それから二口、三口と口に運び、はふぅっとひと心地付く。
「ふむ。口には合ったようだな」
「えぇ、とても美味しいですよ。暖かくて優しくて……心温まるお料理ですね」
自然と微笑むシシリア。そして、気付いた。シュヴァートが物凄く物欲しそうな顔でたまご粥を見ていることに。
「あの……シュヴァート様もお食べになられますか? わたくしが口を付けてしまった物ですが」
シシリアよりも幼く見えるシュヴァートの物欲しそうな表情に、ついそんな提案をしてしまう。が、シュヴァートは首を横に振る。
「いや、それはシャン様が貴様にお出しになられた物だ。我が食すわけにはいかん。それに、我には食事は不要だ」
固辞を示すシュヴァート。……ちょっぴり悲しそうだったが。
それよりもシシリアには気になる発言があった。はしたないとは思いつつも、たまご粥を食しながら、思い切ってシュヴァートに質問してみる事に。
「食事が不要って、どういう事なんですか?」
「む? そのままの意味だが?」
「えっと……食べ物を摂らないと、生きていけないと思うのですが……」
「あぁ、そういう意味か。普通の生物ならそうであろうな。だが、我は魔物だ。それもダンジョンのな」
「――え?」
サラッととんでもない事を聞いてしまったシシリア。思わずスプーンを落としてしまう。
「おい、小娘。シャン様からの施しを粗末に扱うな」
「あっ、ご、ごめんなさい」
食べ物を粗末に扱った事を指摘され、反射的にシシリアは謝った。胸中はかなり動揺したままだが。
心を落ち着ける為に、たまご粥を一口。ほっとする味だとシシリアは改めて思う。
優しい味に心が落ち着き、シシリアは冷静になった頭で思考を続ける。
――いったいどういうことなの? わたくしの聞き間違い? いえ、でもシュヴァート様ははっきりと『ダンジョンの魔物』だとおっしゃった。ということはつまり……シャン様はダンジョンマスターなの!?
ダンジョンマスター。それがどういった存在なのか、シシリアは知っていた。この世に害を齎す悪しき魔物の主であり、迷宮を守護する存在だと。
迷宮とは悪しき魔物が跋扈する魔の巣窟。スタンピードと呼ばれる魔物の大氾濫によって、いくつかの国家が壊滅的な被害を受けたとシシリアは教えられていた。
勿論、悪い事ばかりではない。迷宮からは貴重な武防具や魔導具が出土するし、魔物の素材も得られる。付き合い方を間違えなければ、人類にとって益を齎す場所でもあるのだ。
中には迷宮から得られる利益によって発展し、迷宮都市と呼ばれる都市もあるが、それは極めてレアケースだったりする。
基本的にはダンジョンが発見されれば、数多くの冒険者を投入し攻略するのが基本だ。ダンジョンの攻略――即ち、ダンジョンマスターの討伐である。
シシリアは震えた。それは仕方が無いのかもしれない。何せ、昔からダンジョンは危険で、そこを守護するダンジョンマスターは危険極まりない凶悪な存在だと教えられてきたのだから。
「む? また震えておるな。何か着る物を持って来よう」
「い、いえ! だ、大丈夫ですっ!」
思わず拒否してしまった。恐れから来る反射的な反応だった。
しまった。怒りをかってしまったのでは……とシシリアは身を縮こまらせ、おそるおそるシュヴァートの様子を窺う。だが、特にシュヴァートの態度は変わりなく、シシリアは心の中でホッと胸を撫で下ろす。
「ふむ、なるほどな。これが、シャン様が仰られていた事か。人化状態を厳命するわけだ」
流石はシャン様だと、一人感心するシュヴァート。主の慧眼に尊敬の念が湧き溢れ、自然と微笑んでしまう。
「……どういうことなのでしょうか?」
「ん? あぁ、シャン様に厳命されていたのだ。貴様と接する際は人化しとけとな。我の種族は黒牙狼という黒い狼の魔物だ。初めて我の姿を見る者にとっては威圧感が凄まじく、ただでさえ寝起きの貴様には負担になってしまうと仰っていたのだ」
「……え? それは、つまりわたくしの為に……」
「そういうことだ。我の様な魔物が他者から疎まれ、恐れられているという事は、シャン様からお教え頂いた。にもかかわらず……我はまだまだ未熟者だな」
どうやらシュヴァートは先の一件を激しく悔いているようだった。腕を組み、苦虫を噛み潰したような表情をしている。
それがシシリアの警戒、恐れを解くきっかけとなった。
思えば、シュヴァートもシャンもシシリアに対して、優しく接してくれていた。確かに先程の一件では、シュヴァートはかなり怖かった。今まで感じたことが無いほどの恐怖であった。
しかし、それはシシリア本人にも非はあったのだ。シャンの姿を見て、嬉しさのあまり飛びついてしまったが、本当に恥ずかしい事をしてしまったと、今更ながらにポッと頬を染めてしまう。
「お優しいのですね。シュヴァート様も、シャン様も」
ふと目線を下げれば、残りわずかとなったたまご粥が。その優しい味が全てを表しているように感じられた。しかし……。
「それは違うな。確かにシャン様はお優しい方だ。だが、我は違う」
「え? でも、シュヴァート様は私に対して優しく接してくれているではありませんか」
「それはシャン様が命じたからだ。貴様の様子を見ておくようにと。我は、我が主であるシャン様とその眷属しか信用せぬ。今でも下等生物である貴様がシャン様のダンジョンに居る事が気に喰わぬ。しかし、貴様はシャン様にとって大事な情報源だ。シャン様のお役に立つからこそ、存在を認めているに過ぎない」
シュヴァートにとって、シャンこそが至高の存在であり、存在意義なのだ。
それはダンジョンモンスターとしての宿命でもあり、ある種呪いとも言えるかもしれない。
「そう……でしたね。シャン様にもそう言われたのでした……」
シュヴァートの言葉がシシリアの心に突き刺さった。自分は情報源としての価値しか無いのだと。
ポタポタと涙が落ちていく。
――わたくしは独りだ、誰からも必要とされていない。私が生きている意味なんて……。
「何を涙する事がある。シャン様にとって必要とされているだろうに」
「……え? 必要と……されている?」
「うむ。情報源として現に必要とされているし、役に立っているではないか」
違う。そんなものは必要とされているとは言わない。シシリアの心の中に苛立ちが芽生える。
「そんな、そんなことが必要とされているなんて言わないわッ!」
バンッとテーブルを叩き、シシリアはまるで慟哭するかのように叫ぶ。
「情報源として必要とされている? そんなのはただ利用しているだけって言うのよっ! わたくしは必要とされたい! 生きてもいいんだって言って貰いたい! だけど、利用価値が無くなれば、わたくしなんて追い出すんでしょっ! あいつらみたいにっ!」
感情が溢れ出す。公爵令嬢としてセルフコントロールに優れているはずのシシリアが、人目も憚らずに涙を流し叫んだ。
「なんだ、ちゃんと理解しているではないか」
しかし、魔物であるシュヴァートにはシシリアの慟哭は響かない。激昂するシシリアとは違い、シュヴァートは淡々と返すのみ。その態度が急速にシシリアの心を凍てつかせていく。
「必要とされていないわたくしなんて……私なんて生きている意味が無いわ……」
シシリアはガックリと項垂れ、一度は生気の戻っていた瞳に暗い影が差していく。
「ハァ~、これでは情報源としてシャン様のお役に立つことも出来ぬな」
シュヴァートは大きくため息を吐き出し、立ち上がって項垂れるシシリアの元に近寄る。
「シャン様のお役に立てぬ者は要らん。この場で殺してやろう」
シシリアの耳に冷淡な声が聞こえる。
――そうだ。必要とされていないわたくしは……独りぼっちの私はもう……。
何の反応も見せなくなったシシリアをシュヴァートは見下ろし、手を大きく振りかぶると――パチンッ! と、シシリアの頬を打った。
「……え?」
このまま殺されると思っていたシシリアは、何故頬を打たれただけだったのか理解出来ず、呆けながらシュヴァートに顔を向ける。
シュヴァートはそれ以上何かをすることも無く、ドカッと椅子に座り、またしても大きくため息を吐き出す。
「ハァ~……シャン様はこうなることを見越して、我をこの場に残したのだろうな。人の心の機微を我に理解させる為に。これも試練か」
そうシュヴァートが一人で納得するが……当のシャンにそんな意図は全くこれっぽっちも無い事を指摘出来る者はこの場に居なかったのだった。
「小娘よ。我は未熟者だが、貴様は愚か者だな」
「……」
「必要とされていない? 利用されているだけ? そんなものは当たり前だろう。シャン様がいくらお優しい方だとしても、貴様とは出会ったばかりなのだ。見ず知らずの者を救っただけでも尊き行いだと言うのに」
正論だとシシリアは思った。命を救って頂いただけでも大きな恩があるのだと。
「貴様は、必要とされたいと言ったな。それは利用価値としてではなく、個として必要とされたいのだな」
「……はい。必要とされたかった……ただただわたくしは生きてもいいんだと言って貰いたかったんです……」
「傲慢だな。先も言ったように、出会ったばかりのシャン様に求めるべきではない。シャン様が貴様の何を知っている? 何も知らないだろう。そんな状況なのに、シャン様に何が出来るというのだ。いや、違うな。シャン様は貴様の為に手を尽くしているように我は思うぞ」
「……え?」
「まず、貴様の命を救った。例え情報源だとしても、その事実には変わりない。それも最上級ポーション――エリクサーだったな。そのような貴重な代物を使ってまで貴様を助けたのだ」
エリクサーを使った……? その事実にシシリアは目を瞠った。
大国であるロードスティン王国でさえ、エリクサーは国宝級の品である。そのような貴重品が自分に使われていたとはシシリアは思いもしなかった。
「第二に、この牢屋――というかもはや部屋だな。この部屋は貴様の為に、シャン様が貴重なDPを使ってまで用意した一室だ。ここの設備はシャン様の居室よりも設備が充実しているのだぞ」
「シャン様の居室よりも……?」
「ああ、そうだ! 全く! 何故シャン様よりも貴様の部屋の方が、質が高いのだ! 我は納得出来ん!」
「ご、ごめんなさい!」
あまりの気迫に、思わず謝ってしまうシシリア。シュヴァートは激昂状態のまま続ける。
「最後に、その食事だッ! シャン様は我と同じく、必ずしも食事は必要としていない体質だ。けれど、シャン様は週に一回の食事を摂られ、それを心の底から楽しみにしておられる。しかしッ! 週に一度の食事にもかかわらず、白パンに薄い肉を挟んだとても質素な物しか召し上がらない。食事を用意するにもDPが必要らしく、極力不必要な出費を出さない為だと仰られていたが……貴様が今食している物の方がシャン様のお食事よりも豪華なのは何故だ! シャン様は、貴様に甘すぎるッ! それにシャン様はいつもご無理ばかりされて――」
ヒートアップするシュヴァートだが、ほとんどシャンに対する愚痴にしか聞こえなくなってきていた。
その事にシシリアは気付いていたが口を挟めるわけもなく、ただ静かに話を聞き続ける。
そして、如何に自分が愚か者だったのか、痛感した。深く恥じた。情けなくなった。
「――もっと御身を慮って欲しいものだ! フーッ、フーッ!」
吐き出すだけ吐き出したシュヴァートは荒く息を吐き出す。後半は愚痴だけになってしまったが、それでもシャンに対する愛情が、シシリアには強く伝わってきた。
「申し訳御座いませんでした。そこまで気遣って頂いているとは……」
「ん? あぁ、そうだ。シャン様は貴様を気遣っている。情報源だとシャン様は仰られるが、我の目から見て、貴様がただの情報源だとは思えんな」
「わたくしは……わたくしは一体どうしたらいいのでしょうか」
判らなくなった。心の中がぐちゃぐちゃでどうしたらいいのか、シシリアには判らなくなっていた。だから、こんなにもシャンを想うシュヴァートに問い掛けたのだが……。
「そんなもの知るか。我が判る筈もなかろう。あれこれ考えるより、まずは情報源として役に立て」
と、冷たく突き放されてしまう。しかし、シュヴァートの言葉には続きがあった。
「その上で、自分が何をしたいのかを考えるんだな。貴様が何かを抱えていることは、心の機微が判らぬ魔物の我にでも判る。苦しいなら苦しいと言え。助けて欲しいなら助けて欲しいと言え。何も語らず、待っているだけでは何も解決はせんぞ」
全くその通りだとシシリアは思う。辛い現実を嘆き涙し、何も語らず誰かから手を伸ばされることを待っていただけだ。
――シュヴァート様が仰るように、なんてわたくしは愚か者なのかしら……。
「シャン様はお優しいお方だ。気に掛けている貴様の頼みなら、多少の事は聞いてくれるだろうな。ただ……シャン様の事を利用するだけならば……」
シュヴァートはそこで言葉を止めたが、その瞳は雄弁に語っていた。
――その時は我が貴様の息の根を止めるぞ、と。
シュヴァートから溢れ出す壮絶な殺気。だが、何故かシシリアは怖いとは思わなかった。
何故自分は怖がってないのか。不思議に思って己を顧みてみると、ある感情に気付く。
――あぁ、そうなのですね。わたくしもシュヴァート様と同じような気持ちにいつの間にかなっていたんですね。
シュヴァートのような崇拝ではないが、言うなればその感情は尊敬に近しいもの。忠誠心という程ではないが、シャンの為に自分が出来ることは何でもしたいという感情だった。
……それが恋だと、恋愛というものがよく判らないシシリアが気付くのはまだ先の話である。
「シュヴァート様、御助言感謝致します。まずは、わたくしの事を全てシャン様にお伝えしようと思います。そして、いつの日にかシャン様に、そして、シュヴァート様に認められるようになりますわ」
シシリアは迷いの晴れた微笑みでそう言った。
濃密な殺気を込めたはずなのに、恐れ慄くことなく、逆に晴れやかな微笑みを浮かべる様子を見て、シュヴァートは驚き、少しだけ感心した。
――シャン様が何故下等生物を保護しているのか、全く理解出来なかったが……なるほど。中には随分とマシな奴も居るのだな。
「フンッ。口だけなら何とでも言えるものだ。だが……多少は認めてやろう、シシリア」
殺気を収め、そっぽを向きながらシュヴァートは言った。
シシリアはその様子に驚いたものの、満面の笑みで答える。
「はいっ! 精一杯頑張りますね!」
大輪の華が咲いたかのような笑顔を浮かべるシシリアであった。
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*次回更新日は、2019/8/31 16:00の予定。
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