19話:子供たちのアメリカ留学1
そして4週間後、1997年8月19日深夜、成田空港に到着すると連絡が入り海藤努と智惠さんと、一郎の3人で迎えに行った。帰りの車の中では和子さんが興奮してしゃべりっぱなしで海藤努が運転して1時間で自宅に着いた。その後も和子が米国内を旅行して回った話をいろいろ聞かされ、特に驚いたのがシアトルの料理の美味しかったこととボーイングの工場ので大きかった事。
その他、アメリカの優秀な大学を訪問したときの話。訪問希望していた大学は、アメリカ東海岸のハーバード、プリンストン、コロンビア、マサチューセッツ工科大学・MIT,イエール大学。それに、西海岸のイエール、スタンフォード、カリフォルニア工科大学、カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校・UCLAだった。
しかし、残念ながら実際に訪問できたのハーバード、プリンストン、コロンビアだけだと言った。そして、来年は、出来たら西海岸の大学の短期留学に行きたいと言った。カリフォルニア大学サンディエゴ校UCSDエクステンションの4週間コースで約50万円なので、一生懸命に家庭教師のアルバイトして、お金貯めるから、来年も行かせて欲しいと言った。
なぜ、そんなに安いのと智惠さんが聞くと、まず学生寮でなく、ホームステイである事。旅費が入ってない事。授業が英語力をつけるプログラムだけで見学、見物や短い旅行が全く入っていないと説明した。それで、いくら欲しいのと、聞くと、日本円で50万円と言った。すると、海藤努が、俺のへそくりで出してやるかと言うと、智惠さんが駄目、自分の計画を優先すべきと言い放った。
智惠さんが30万円は出しますが、後は、アルバイトで稼ぎなさいと言った。もし、それでも難しい時は、要相談だねと笑いながら言った。すると和子が笑いながら了解ですと答えた。そして9月から家庭教師のアルバイトを土日中心に、かけ持ちしてするようになった。冬休みも忙しそうに出かけて行った。そして1997年が終わり1998年を迎えた。
一郎の方は、就職口を探すため、1998年から夏休みにソニー、冬休みにNECへのアルバイト希望の書類を出し、了解されたようで3週間ずつアルバイトで出かけた。その後1998年も7月を迎えて、智惠さんが和子さんに、アルバイトで、いくら貯まったと聞くと金額は言えないけど30万円の補助で大丈夫と笑いながら言った。それなら宜しいと言い30万円を直接渡した。
自分で電車に乗り出かけて行った。もちろん、その後も毎週1~2回、日本時間の朝7時頃に電話をかけてきた。その話によると今年はサンディエゴのアメリカ人家に同じ年の女の子がいた。そのため楽しく、ホームステイしていると話した。今年の授業もそんなに、みっちりと組まれていないのでシアトルからロサンゼルスまでアムトラック「列車の旅」をしてくると出かけた。
7月18日、今回は、自分で行けると言い目黒駅まで送って手を振って電車の乗り込んで行った。海藤和子は、留学の前に、シアトルからロサンゼルスへの列車旅を計画した。シアトル駅近くに宿を取り1泊し昼食をとった。シアトルのキングストリート・ステーションに到着したのは出発1時間半前。荷物を預けて、出発30分前に並び始めたが、「停電により遅延」とスピーカーから聞こえた。日本の様に「お急ぎのところ申し訳ありません」的な話はない。
むしろ駅員のオバさんは、ピリピリ怒っていた。アムトラックは幸い15分遅れで乗車。「ようこそ!」、良い声の客室乗務員のサムが迎えてくれた。個室は向かい合わせのシートをスライドするとフルフラットのベッドになる。2人利用の場合は、車窓の上に畳んであるベッドを倒して2段ベッドになるが、頑丈そう。アムトラックが動き始めたら早速車内を探検。寝台車には、個室の他にシャワールームやトイレがある。コーヒーや水、氷、タオル類は自由に使えるように常備。
隣のパーラーカー・寝台車・一等車乗客専用特別車、ラウンジカー・展望車では、ワイングラスを傾ける人、新聞や本に読み入る人、ゲームに興じる親子連れなど、それぞれに楽しんでいる。 客層はシニアのカップルが多いのだけど、シニア男性グループ、女性同士、若いカップルなどさまざま。ご機嫌で個室に戻った。2階建ての寝台車の車窓を、ワシントン州の風景が時速30マイルで流れる。