18話:子供の進路とアメリカ留学
そして高校2年1995年4月の予備校の一斉テストで海藤一郎は東工大の合格確率75%横浜国立大学理工学80%、海藤和子は、慶応大が80%、東京都立大学の商学部80%となった。そんな1995年6月13日、夜に、久しぶりに内藤哲人から海藤努に電話が入り、買い値は3800円で良いと思うと教えてくれた。
早速、翌朝、ソニー株の気配値がもっと下だったので3千株成り行き買いを入れ3780円で3千株を1134万円で買えた。そして1996年2月の大学受験の月を迎えて、体調管理に気をつけて、風邪をひかずに、2人とも受験できた。その結果、希望校、全て合格でき、海藤一郎は東工大工学部電子工学科を選び、海藤和子は慶応大学商学部を選んだ。
1996年4月に合格祝いの会を自宅で開き、合格祝いに何が欲しいと聞くと海藤和子が、最初に聞くけど何でも良いのと意味深な質問してきたので、母の智惠さんが、もったいぶらずに何が欲しいのよと聞くと米国夏休みの短期留学に行きたいと言った。あっさりと良いわよと言い、いくらかかるのと聞くと、約百万円、私、アルバイトして自分の小遣いは貯めるからと、お願いと言った。
今度は、一郎に、同じ事を聞くと、僕はパーソナルコンピュータが欲しいと言い、いくらするのと聞くと、PC9821La10モデルA、コンピューター本体44万円、ディスプレイ25万円、プリンター5万円、イメージスキャナー10万円、ソフトウェア15万円で総合計百万円だと言った。了解、何とかしましょうと言った。
1997年になり、7月15日から長女の海藤和子が、うれしそうに、大きなボストンバッグに旅行の着替えや化粧道具など多くの物を詰め込んだ。その後、父の海藤努に、成田空港まで、運んでと頼んだ。既に先月から話していたので、母の智惠さんも有給休暇をとって、朝6時過ぎに家を出て高速道路を飛ばして7時過ぎには成田空港に到着した。
和子が、お茶していかないというのを振り切って、父が、気をつけてなと言いうと母の智惠さんが、はい、これと封筒を渡し飛行機の中ででも読んでねと渡した。そして海外へ出かけて行った。そして2日後の夜23時頃、海藤和子から電話が入り、やっとボストンに到着して学生寮から電話してると言い母の智惠さんに代わると、しばらく話してると智惠さんが大粒の涙を流してるではないか。
耳をそばだてて聞いてると先方の和子も泣いてるようだった。そして少しして智惠さんが電話を置いた。智惠さんが落ち着くのを待って海藤努が何を話してたんだいと聞くと成田空港で渡した手紙を読んだ話よと言った。詳しく教えてくれよと言うと、ちょっと恥ずかしいなと言い話し始めた。
「智惠さんが結婚し仕事と家庭で大変な時、何故こんなに苦労をしなければならないのか悩んだ。」
「その頃、一郎と和子の双子を宿してから悩みが吹っ飛んだ。」
「何としても元気な赤ちゃんを産まなければと思いだけで他の事を考えられなくなった。」
「元気に生まれた時、今迄経験した事のない充足感というか満足感、幸福感に包まれた。」
「だから、この子供達に、絶対に危険な目に遭わせたくないと小さい頃は注意を払った。」
「それが大きくなり自分からアメリカ留学という冒険の旅に自分の責任で出て行った。」
「その話を便せんに書いたのよと教えてくれた。」
「それに対し娘の和子も共鳴し思わず、読みながら涙が流れて止まらなくなった。」
「2人で電話しながら泣いたという訳ですと説明した。」
「この感情は、多分、男性には実感としてわからいでしょうねと、冷ややかに言った。」
「和子が、自分達の手の中から飛び立っていく時の不安の感情は、良くわかるよと伝えた。」
「その時、智惠さんが海藤努に抱き付いて、あなたと結婚して本当に良かった。」
「こう言う感情を共有できるって素晴らしいことなのよと言い、また、泣いた。」
「そして、子供が生まれた頃から、大学に入るまでの昔話を遅くまでして床についた。」
その後、毎週、和子から電話が入り海藤努と智惠さんと一郎が交代して話した。