第九十四話
「ええっと、あの・・・、その」
いきなり大きな声を出されて驚いてるだろう木下君よりも、声の元である私の方が動揺してしまっていて何か言わなきゃと思っていてもなかなかちゃんとした言葉になって出てこようとしない。
「そんなにすぐにフッたフラれたなんてお爺さんの耳に入ったら、『女子にフラれるとは不甲斐ない、やっぱり儂が嫁を用意してやらんとな』とか言われちゃうよ」
「・・・ふむ」
今日が初対面で会話らしい会話も無かった木下君のお爺さんの性格なんて想像でしか語れないけれども、木下君には思い当たるようで私の言葉に納得するような素振りを見せている。
「それと、流石に学園内でも何もしない、という訳にはいかないんじゃないかな。どこからどんな風に話が伝わるかなんて分からないんだから、なるべく怪しまれないに越したことは無いと思うのだけれども」
パーティでの私の発言を否定しなかったこと、今も私が恋人のフリをしたことを拒否するような態度を見せていないこと、それらの木下君の態度につけこむような罪悪感はあるけれど、毒を食らわば皿までという言葉もあるんだ、もう引っ込みのつかないところまで突き進んでしまえばいい。
あの宣言は事実でも真実でも無いけれど、今はフリでも本当のことになるようにしてまえばいい。
「とは言っても、じゃあ何をどうすればいいかなんて分からないんだけれどもね」
悲しいかな、私の恋愛経験値はゼロで、初心者どころの話じゃない。恋愛小説やゲームの知識ならそれなりの蓄積もあるけれど、ああいうのって本当に参考になるのかどうかは分からないしね。
「その辺りはおいおい考えていけばいいだろうさ。それより、家に着いたようだな」
「あ、そうみたいだね。送ってくれてありがとう、また新学期に、だね」
「こちらこそ、今日は助かった。こちらの事情に巻き込んですまないがよろしく頼む、華蓮」
「へ、今?」
「恋人同士だというのにいつまでも名字で呼んでいては格好がつかないだろう?それじゃあ、また新学期にな、体調を崩さないようにな?」
フリーズしてしまった私を置いて車は走り去ってしまった。
・・・ああ、そうかぁ。フリとは言え、対外的には私と木下君は恋人同士になるんだなあ。
自分から言い出したことの筈なのに、改めて木下君の口から聞くその言葉は私には破壊力が大きすぎるみたいだ。
とりあえずお家に入ろう、こんなところで固まっていたらきっと風邪をひく。新学期まで、もう何日も無いのに体調を崩してしまったらそれこそ恰好がつかないもんね。
「ただいまぁ」
「おかえり華蓮って、何かいいことがあったみたいね?」
「へ、なんで?」
居間に入るなり人の顔を見てそんなことを言うお母さんに聞き返せば呆れた様な顔を浮かべている。
「鏡でも見てきたら?一目で分かるわよ」
よっぽど今の私は分かりやすい表情をしているようだ。でも、鏡を見るまでも無く今の私はにやけきった表情をしているんだろうな。
「それ脱いだらそのままお風呂入っちゃいなさい。もう沸いているからすぐに入れるわよ」
居たたまれなくなって退散する背中に掛けられた言葉に従ってここはお風呂に入ることにしよう。今は落ち着くことが最優先だ、きっと。
浴槽に張られたお湯の熱が体中に行き渡る。これならのぼせ切った頭も相対的に冷えてくるかもしれない。
パシャリと顔にお湯を掛けて一息つく。思い返すのはさっきの出来事。名前で呼ばれて、恋人になるって言われたこと・・・いやいやいや、フリ!フリだからね。あくまで「まだ」フリでしかないんだから浮かれるようなことじゃない。
でも、あんな風に言ってくれるなんて、案外木下君の方も乗り気なのかな?って期待してもいいよね、きっと。
そうじゃなくて、そう、名前だよ。別に異性から下の名前で呼ばれることは初めての体験ってわけでもないのに、木下君に「華蓮」って、そう呼ばれたと思うだけでもの凄く恥ずかしいって言うか、照れる。
ああ、私の方もこれからは木下君って名字じゃなくて下の名前で呼ばないといけないのか・・・呼べるかな?ちょっと練習が必要かも・・・。
「な、なお、まさ・・・くん、って、うわー、ダメだ!なんかすごく恥ずかしい!」
ジタバタと動かした手足に釣られてばちゃばちゃとお湯も跳ねる跳ねる。
「あんまりお風呂で遊んでると風邪をひくわよー?」
「ご、ごめんー、いま上がるからー」
ひとりで勝手に騒いでいるのが聞こえたのか苦笑交じりのお母さんに大きな声で返事をしてお風呂から上がる。
名前一つで大騒ぎとか小学生か、と言われそうだけれども仕方ない、自分でもここまでとは思っていなかったんだからね。
新学期が始まるまであと数日、とりあえずそれまでになんとか面と向かって呼びかけられるように練習あるのみかな?
お読みいただき、ありがとうございます。




