【三題噺】これが一度目の恋だったなら。
深く気高く甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
肺を満たしたその空気が、この後数分自分を生かすのだと考えて、少し微笑む。
誰にも告げずにこの街を出ることは、初めから決めていた。
『君は僕に恋をしてないかい?』
至極楽しそうに頬杖をついて、ある日彼はそう言って目を細めた。
それは、私が最年少魔導士の彼の秘書になって間もない頃のことだった。
麗らかな午後。それは面倒な会議が終わり、私は彼にお茶を出したところだった。
「恋の意味をご存知ですか?」
お茶受けのクッキー音を立てずに机の上に置いて、私は彼に尋ね返した。彼はうねるような色素の薄い髪を、いつも通り気だるげに搔き上げて、口元だけで不敵に笑う。
「誰かのことを日がな一日、朝も夜も考え、焦がれることだろう?」
「いいえ、その方を前にこの世で一番愚か者になるということです」
「…………なかかなに手厳しいな、君は」
乱暴に紅茶を飲む彼の口元を見ながら、私は彼の先の発言を反芻する。
高いところから差し込む日の光が、彼の襟元についたバッチを煌めかせる。
齢十五で魔導士になった神童にして、魔導士一の異端児。
彼がどうして、魔導士どころか魔力の欠片もない私を秘書にしたのか。
「私は貴方に恋をしているんですか?」
ちょうどクッキーを口に放り込んだところだった彼が激しくむせる。
特に慌てず、けれど迅速に新しい紅茶をカップに注いで差し出す。
ひったくるように一息で飲み干される紅茶に、一杯いくらだと思っているのかしらと日給ほどにあたる高級茶葉に思いを馳せる。
彼は割れるかと思うほどに力任せにカップをソーサーに叩きつけると叫んだ。
「馬鹿か、君は!」
「開口一番にそれですか。恋をすると馬鹿になるらしいですよ」
「いいから少し落ち着いてくれ」
「落ち着くのは貴方の方では? クッキーを喉に詰まらせたことが死因ですとお伝えするのは私なんですよ、いい迷惑です」
「さらっと毒を吐くな!」
彼はそう叫んでから、大きくため息を吐くと額を押さえた。
口を開こうとすれば、片手で制止される。
「頭痛薬はいらない。医者も必要ない。僕にいま必要なのは時間だ」
「クッキーをむせずに食べるためには、百回噛むといいと思いま」
「いいから少しその口を閉じろ」
仕方なく言われた通りに口を閉じて、加えて口の前に指で作ったバツ印を掲げる。
「僕が悪かった、君の本心を引きずり出そうと思って心にもないことを言った」
大きく息を吐いて、彼が椅子に深く体を沈み込ませる。
何とも表現できない不服気な瞳に晒されて、私は首を傾げてみせた。
「本心?」
「君は僕に物怖じもしない、何も聞かない、その癖に僕の望み通りの働きをしてくれる」
「私を指名したのは貴方なのに、それが不服なんですか?」
彼の言っていることの不明瞭さに、眉が寄る。
彼の片眉が微かに動いたかと思えば、机越しに腕を引かれていた。
驚く暇もなく、口にクッキーが押し込まれる。彼の行動意図が全く理解できない。
「ほほしはんへふか?」
「君は、」
そこで彼は珍しく、歯切れ悪くそこまで口にすると、目を伏せた。
「いや、何でもない。クッキーは美味しいか」
「はい、さすがたった一枚で時給分のクッキーです」
「…………これからは単価をもっと押さえていいと上に言っておいてくれ」
「はい」
じっと見つめていれば、再度ため息とともにもう一枚クッキーを手渡された。
「では、失礼します」
部屋を辞して、扉を閉めて、そして、こつんと閉じた扉に額を当てる。
「…………わかるもの、なのかな」
前世の記憶があるなんて言ったら、彼は笑うと思っていた。
言うつもりすらなかった。
だから、考えたことすらなかった。
彼にも前世の記憶があるかもしれないなんてそんなこと。
「貴方の前ではとっくに愚か者なのよ、生まれる前から」
そう嘯いて、私は家に向かって歩き出す。
『お前もあいつも死ぬだろう、でも生まれ変わっても決して結ばれない』
遠くから見ているだけでよかった。言葉を交わしたくなんてなかった。
何処にいても、よかった。
例え日陰にいても、貴方さえ日向にいるのなら、その隣など望んですらいなかった。
『もし結ばれるようなことなどあったら、それは不幸としてお前たちを焼き尽くす』
「もう愚か者なら、どこまでだって愚かになっても構わないわ」
明日、この街をでよう。
荷物はトランクひとつで十分だろう。
庭で見頃の金木犀を置いていくのは辛いけれど、肺一杯に香りを吸い込んでいこう。
そうすれば、その香りがわずかの間でも私を生かす糧になる。
「貴方は何も知らないから、愚か者になんてならなくていいのよ」
私の声は街の喧騒に飲まれて、誰にも届くことなく消えた。
一時間で三題噺を書く企画で書いた一作目の裏で書いた別の話。
お題は、金木犀、トランクケース、陰日向。