現代の魔法少女が日常を楽しんでいるようです。
シャボン玉はパチンパチンと音を立ててはじけて散って。
青い空に浮かぶ白い雲。ときたまそれに遮られる、真上に上った太陽。
影は短く、じっとその場に立っているだけでじんわりと肌に汗が浮かんでくる。
右から、左から。前後どこからもセミの鳴く声が聞こえ、まさに今が夏なのだと教えてくる。
「ゆみー、お昼で来たわよー」
一部屋挟んで向こう側のキッチン。そこからおばあちゃんがお昼御飯ができたと教えてくれる。
「いまいくー」
手に持っていたシャボン液と棒を近くの岩に置き玄関に靴を脱ぎに行く。
地面に惹かれた砂利が心地よい音を立て、間をおいておかれている足場の様な大き目な石の上を大股で歩く。
玄関にたどり着き、靴を脱ぐ。その際きれいに並べないのはご愛敬。ついでに手洗いうがいをせずに席に着きおばあちゃんに怒られたのもご愛敬。
「「いただきます」」
ふたり、おばあちゃんと私、手を合わせて食前の挨拶をする。机の上に置かれたのはまさしく真夏の風物詩、そうめん。
ガラスの器に盛られたそれには氷が乗せられていて、お皿には汗も浮かんでいる。
スッと、ひとすくいして、自分のお皿に入れる。めんつゆは冷蔵庫に入れられていたからとても冷えていて。
ちゅるちゅると口に入り込んでくる白い面はとても冷たく、おいしかった。
「ゆみ、今日はこの後どうするんだい?」
食事中、おばあちゃんが聞いてくる。時間帯はお昼。今日もまたいつものごとく予定の入っていない私。午後の時間はむしろ何をしようかと迷っていたほどだ。
「んー、なんにもない」
「なら、少し頼まれごとをしてくれないかい?」
口をもぐもぐさせながら話す私にちゃんと物を飲み込んでから話しなさいっと注意してくる。おばあちゃんのご飯を食べる姿はとても凛としていて、背筋も伸びていてとてもかっこいい。いつもそれを見習おうとはするけど、いつも疲れるかして中途半端で止まってしまう。
頭の後ろから流れてきた髪を後ろに戻しながら、私はそうめんをすする。
「頼まれごとって、なにするの?」
「田中さんのところにもっていってほしいものがあるんだよ」
「えー」
思わず思ったことが口から出てしまう。そんな私を見るおばあちゃんの顔には苦笑いが浮かんでいる。だってこれは仕方がないのだ。こんなに暑い日の中を歩いて、しかもお中元ということはそこそこ重いものを運ばないといけないんだから。
「そんないやそうな顔しなくてもいいじゃないか。そうだ、帰りがけにアイス買ってもいいからさ」
そういって妥協案をだすおばあちゃん。そして私はといえば『アイス』という単語につられて、ついついそのお使いを引き受ける方に心が傾き始めていた。
「アイスって何円までの買っていい?」
「120円」
「そのはなし、乗った!」
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「あっつーい」
いまだ日の高い中をぽくぽくと一歩づつ歩を進める。
頭にかぶった麦わら帽子が普段より大きな影を作って、私はそれを追いかけるように道を歩く。
相変わらずセミの鳴き声はあちらこちらから聞こえてきて余計に暑く感じる。
せめてもの救いは私の背負っている鞄に入っている水筒ぐらいだろうか。
『外は熱いからこまめに水分補給するんだよ』と、おばあちゃんが持たせてくれたものだ。
おばあちゃん特性のシソジュース。紫のシソの葉を佐藤か何かと一緒に煮詰めて作った原液を水で薄めて氷で冷やした冷たいジュース。
もとが紫紫蘇だからか、そのジュースもとっても紫色。
でも、私にとってはこの紫色がとても好きだった。だってとってもきれいだったから。
こつん、と道端に転がっていた少し大きめの石をける。ころんころんと石は転がってぽちゃんと田んぼにつながる水路に落ちる。
石を追ってその中をのぞいてみればところどころに黒い粒つぶしたものが見える。おたまじゃくしの卵。
「あっつーい!」
この道を進む間に何度も言ってきた言葉を再度繰り返す。左側は林になっていて右側はあぜ道が広がっている。
近くに人の影は見当たらなくて、まるで世界に私一人だけになったような気がする。
「ふんっふふーん、ふふんふーん」
石をけりながら、鼻歌を歌いながら。
いまだ到着点の見えない一本道を歩いていく。時たま立ち止まっては水筒を開け、またある時は炉端の石を蹴り上げる。
お出かけだからと着替えたお気に入りの白いワンピースが太陽の光を反射してよりその白さをキラキラしたものに変身させる。
まるで私はお姫様のよう、なんて思うけど、それも少しの間だけ。
肌に浮かぶ玉のような汗を見て、お姫様はこんな風にお出かけしないもん、なんてガックシする。
ツーとほほを伝う汗をハンカチでぬぐいまた一歩、歩を進める。
「こーんにーちはー」
ガラガラと扉を開けて家のどこかにいる田中さんに挨拶。
開けた扉は玄関ではなくて庭につながっている部屋の扉。
庭から上がりやすいようにと置かれた白い石の足場に立ち、声を上げる。
「たなかさーん?」
「はいはーい」
と、家の中から女性の声。
それとほぼおなじタイミングで廊下を誰かが渡る足音が聞こえてくる。
ガラガラ、と庭に面した部屋の扉が開く。
「あら、ゆみちゃん、どうしたの?」
老齢の女性。髪は白色でところどころに灰色の髪も混じっている。
「おばあちゃんがこれ持っていきなさいだって」
そういって、おばあちゃんに渡された袋を背負ってきた鞄の中から取り出す。
それを縁側に出て正座をして目線を合わせてくれてた田中さんに渡す。
「あら、暑中見舞い。おもかったでしょ、ありがとうね」
「うん、すっごく重かった」
歩くたびにその存在を示すかのように背中で揺れる思いそれは徐々にしかし確実に私の体力を奪っていて。
すでに持ってきた汗をぬぐう用のハンカチは汗でびしょびしょでお気に入りのワンピースも汗を吸ってところどころ肌が透けて見える。
こりゃお姫様には程遠いな、なんて頭の中で思ってクスリと笑う。
「?」
そんな私をみて不思議そうな顔をする田中さん。
「あつかったでしょ、麦茶飲んでいく?」
「うん、のむのむ」
靴を脱いで縁側に上がる。
勝手知ったる家も何とやら。田中さんの前に立って冷蔵庫が置かれている部屋に向かう。
ガラガラと音を立てて扉を開けるととたんに今までいた風とは全く違う空気が私たちを迎える。
「はぁ~生き返る~」
「ふふふ、クーラーを入れてたからね」
部屋の中はとても涼しくて。冷房と一緒に入れられていた扇風機が浮かんでいた汗をどんどん飛ばしていく。蒸発熱でどんどん体温が奪われていき、ほてっていたからだが冷えていく。
部屋の上に置かれた机、その下をのぞくと真っ黒な猫が涼をとっていた。その目がうっすらと開き、私と目がある。
「やっほー、カタラトフ」
『よう、夢田んところのがきんちょじゃねえか』
けだるげに開かれた口から出てきたのはまるで安物の機械から作られた合成音のよう声。
ぱたんぱたんと揺られる尻尾はまるで猫の様なものなのに、その金色の瞳はまるで人のように私を見つめてくる。
「わたし、がきんちょじゃないもん」
『実際ガキだろうが』
「ほら、カタラトフもちゃんとあいさつしなさい」
田中さんが私と同じように机の下をしゃがみ込みながら覗く。
『おいおい、なんであんたまで俺のことをカタラトフなんて名前で呼ぶんだよ…』
ふふふ、とわたしの隣で笑う田中さんは本当に楽しそうだった。
「はい、ゆみちゃん麦茶」
「あ、ありがとうございます」
私が渡された麦茶を見てのどが渇いたのか、カタラトフが田中さんに注文する。
『おい、俺にもなんか飲み物くれ』
「花はじゃあこれね」
もともとそうなることを予想して用意していたのか、お皿に組まれた白い液体をカタラトフの前に出す。
牛乳だ。
『げ、まーたそれかよ』
「カタラトフ好き嫌いしたらだめだよ?」
私の言葉にうっとなる黒猫。先ほどまで揺れていた尻尾も心なしかその勢いを失っている。
「そう”カタラトフ”好き嫌いしたらおやつにですからね」
そういう田中さんはカタラトフと違ってとっても楽しそう。
「あ、そうだゆみちゃん、この後はどうするの?」
「んー、今日は召喚獣の練習しようかなって思ってる」
「あら、だったらうちで練習していきなさいな。ほら、花も手伝ってくれるでしょうし。ね、花?」
『あぁ、ま、いいよ。しょうがない手伝ってやるよ』
「ううん、今日は一人でやってみるの。いままではおばあちゃんか誰かに見てもらいながらだったから、少しは一人でできるようにならないと」
「そう?…でもやっぱり一人で練習させるのは心配だから花、あなたついていってちょうだい」
『はぁ、しょうがねえな』
のそりと、そんな擬音語が正しいような動きで体を起こす黒猫。とことこと私の足元によってきてすでに立ち上がっていた田中さんを見上げる。
『んじゃ、夕飯までには戻るから』
「はい、二人ともいってらっしゃい」
『で、ゆみ今日はどこで練習するんだ?』
「んーっとね、こっち」
田中さん家から徒歩数分。行くときに通ったみちの途中から林の方へ入り、道とも言えないような道を進む。
頭の上を通り過ぎる青い木々。遠くには蝶の姿もちらほらと。
『おい、あまり奥に進むなよ?』
私がどこに向かっているのか心配になったのか、カタラトフがそんなことを言ってきた。
「わかってる」
私だってもちろん危ないところには近づいたらいけないってぐらいの常識は持ち合わせてる。
しばらく林の中を進むと、急に視界の開けたところに出てきた。
『ほう、これは懐かしいな』
空き地。その真ん中にはどこから現れたのか電車の車両が一両おかれていた。
それはとてもきれいなものとはいえず、ところどころに風にさらされたために生まれたさびが浮かび、草花やツタもそれに巻き付いている。
「あれ、カタラトフここ知ってたの?」
私が先日、冒険しているときにたまたま見つけた秘密基地。だというのにこの猫はとっくに知っていたのだろうか。
『あぁ、ここは道子がむかしよく遊んでいたところだからな』
「へぇ、田中さんここのこと知ってたんだ…」
私だけが知っている、素晴らしい秘密基地を見つけたと思ったのに、残念だ。まぁ、それを置いてもこの場所はとても魅力的なところなんだけどね。
『ここなら地脈も安定している。力の制御の不安定なお前でもまぁ安心して練習できるいい場所だな。』
「む、なによ、私が未熟者だって言いたいの?」
『現に、未熟者ではないか。使い魔もいないしな』
偉そうにそんなことを言うカタラトフ。その尻尾は天高く、まるでつかんでと言わんかのようだ。ちょうど、視線も私のほうじゃなくて空き地の電車のほうに向かっているし。
「むー!」
『お、おい、何をする離せ!!そこをつかまれるとかなり痛いんだぞ!?』
「なら、訂正して!わたし、未熟者じゃいないもん!!」
『て、訂正も何も…』
「ふん!」
まだ何か言いたそうだったので、尻尾を握ったまま首のほうにつかみ直し、そのままグルんぐるんと回る。
『や、やめろ!!目が回る!わかった、わかったから!!』
ぴた。
その言葉を聞いて私はにゃんこスイングを止める(※良いこのみんなはマネしちゃだめだよ)。
『まったく、えらい目にあった…』
「自業自得でしょ」
『…ふん』
どこかツーンとした態度をとるカタラトフを放っといて、私は車両の中に入る。
(えっと、確かここへんに…あ、あった!)
『ゆみ、何を探しているんだ?』
そんな私の行動を不審に思ったのか、先ほどまで連れない態度だったカタラトフも中に入って尋ねてくる。
「へっへーん、いいでしょこれ」
そういって私はさっき椅子の下から引っ張り出したそれをカタラトフに見せる。
『なんだそれは…杖のつもりか?』
程よい長さに、握りやすそうな形状の棒。
「うん、やっぱり魔法使いなら魔法の杖を持たないとね」
『…わかっていると思うがそれは杖でも何でもない、ただの木の棒だぞ?』
「わ、わかってるわよ!こういうのは雰囲気が大事なんだから詰まんないこと言いっこないだよ」
杖(木の棒)をもって外に出る。少なくとも屋根のあった中とは比べ、太陽光が直接当たるため熱く感じる。でも、それが逆に今から魔法を使うのだと私の心を引き締める。
『それで、今回は何を呼び出してみるんだ?』
「んー、軽いところで森の妖精かな…」
『まぁ、妥当だろうな。近くに木々も多く生えているし、魔力の提供も安定もしやすいだろう』
「でしょ、ほら、集中するから少し黙ってて」
私の言うことを素直に聞くカタラトフ。いつもこれぐらい言いうこと聞いてくれるといいんだけど…。
まぁ、カタラトフは田中さんの使い魔だからしょうがないんだけどね。
(集中集中…。えっと、呪文は何だったけ)
うろ覚えの記憶の中から目当ての呪文を思い出す。
「えーっと、眠れる木々に宿る精霊よ。今一度その幼き姿を私の前に表せ!」
空き地にそよ風が走り、遠くからセミの声が聞こえる。
つまり、何が言いたいかというと、何も起こらなかったというわけで。
『…おい、力の集中がなってないぞ』
「わ、わかってる!次こそちゃんとできるもん」
今一度、自分の体の中に走る力の躍動を右手に集中させる。そしてそれを結晶核として大気の力を固めていく。
『よし、そのままさっきの呪文を唱えてみろ』
「う、うん。眠れる木々に宿る精霊よ、今一度その幼き姿を私の前に表せ!」
ポン、と右手のその先から白い煙が上がる。そのまま煙は回転をつけ、徐々にその形を固定されたものに近づけていく。
『ふん、成功だな』
「私のかかればこんなの楽勝よ」
『に、しては一回目は見事に失敗していたけどな。ほら、まだ集中を研ぎらせるな。扉が閉まりかけてるぞ』
「お、っとと。危ない危ない」
そんなこんなでその間に。煙は徐々に形を持ち、とうとう動きを止めた。
中空にとどまるその姿は緑色の光をたたえ、その存在が普通のものではないことを示している。
「…でもさ。いつも疑問に思うんだけど呪文の中の『幼き姿』ってどこにあるのよ…」
それはどこにでもあるような種で。光っていなければもしそれを地面に落とせばただの種にしか見えないだろう。
『木の成体を樹木とするならば、その幼き姿が『種』であることは当たり前のことだろう?』
それのどこがおかしいと、逆に訪ねてくるカタラトフ。
「いや、それは納得できるんだけどさ、精霊なんだから人の姿で出てきてほしいというか、その、ね?」
『それはお前たち人間の創作の物語だろうが。そもそも大自然がなぜ人間を基準に考えなければいけない』
「まあ。いいんだけどさ。えっと、呼び出した後はどうすればいいんだっけ」
『べつに、どうしなくてもいい。放っておけば勝手に消えるさ』
「こう、その、どっかーんて派手な魔法とかないの?」
しばらく外で練習していると汗が浮かんできて外の日差しもすごかったので電車の中に避難してしばらく。
持ってきた水筒の中身はカタラトフと一緒に分け合ってすでにからっぽで。
お気に入りのワンピースも肌にくっつくようで少し気持ち悪い。
ただ、その汗の上を風が通るたび、とても涼しく感じる。
『いわゆる攻撃魔法的何かか?』
「うん、そういうの」
ところどころに穴が開き中身の綿が飛び出しているような椅子に、座れそうなところを探して二人ー一人と一匹ー座る。
カタラトフはというと、私の質問に対して
『はぁ』と、大きなため息をついている。
『お前はあれだ。いわゆる漫画の読みすぎなんだ』
「む、なによ、そのバカにしているような言い方」
『ような、ではなく、しているのだ。祖母殿からの話をちゃんと聞いていなかったのか?』
一瞬、ムッとしそう、というよりしたけれど、どこか深刻そうな雰囲気を出すカタラトフの言葉に思わず背筋が伸びる。
それに、おばあちゃんの話を出されると私は弱い。
だって、おばあちゃん普段はとっても優しいんだけど怒るときはとっても怖いから。
「き、聞いてたけど」
『なら、この話も覚えているだろう。己の分を超えた魔術を使用してその身を滅ぼした魔女の話。攻撃魔法というのは存外になべてその難易度がほかのものに比べ何段階も高い。お前のような未熟者が使ってみろ。一瞬のうちに蒸発して消えるぞ。それに…』
「もー、わかった、わかったから!」
まだまだ長い話が続きそうなカタラトフの口を遮る。この猫は一度そういう話をすると長いのだ。一度なんてお昼食べておやつの時間までずっと話し相手にされてたもん。
「要は、きちんと自分のできることを確認してからってことでしょ!?」
『む…わかっていればいいんだ、わかっていれば』
まだまだなにか言いたそうだったけど、その口を閉じてぴょんと椅子から降りるカタラトフ。
「どうしたのカタラトフ?」
『いや、そろそろいい時間だ。お前も家に帰るといい。俺も道子のところに帰らないといけないしな。ついでだ送って行ってやろう』
そういわれて外を見ればそこそこ太陽も傾き始めている。
この場所から家に帰る時間を考えればそろそろ帰ったほうがいいかもしれない。
「べつに、カタラトフに送ってもらうほどでもないと思うんだけど…」
『俺もお祖母殿に用事があるし、ついでだついで』
少し赤色に染まり始めた空を見上げながら、「あぁ、今日もそろそろ終わりなのかな」なんて思うのはすこし大人振りすぎだろか。
隣を歩くカタラトフは話すときはいっぱい話すけど普段はそれほど口数が多い方じゃないし、私も今は何か話したいことがあるわけでもない。
昼間聞いたセミの声は夏が来たんだと思わせるものだったけど、夕方になるとセミの声もどこか物悲しく感じられる。
日が陰り、すこし冷たい風が私の髪をなでていく。
そのたびに顔の前に流れてくる髪をどかすのもおっくうだ。
「この髪切ったらだめなのかな…」
それは別に誰かに訊くために口に出した言葉じゃなかったけど、隣を歩くカタラトフには聞こえたらしく。
『あまり、子供のうちから髪は切らないほうがいいぞ?髪は己の力のストッパーにもなるし、貯蔵庫にもなる』
「でも、うっとうしんだもん。それに夏になると蒸れるし」
『ふむ、言わんとすることはわかるが。まぁ、似合っているのだからそのままでいいだろう』
私を見上げるようにするカタラトフ。まぁ、四足歩行で歩いているんだからそれもしょうがないことなんだけど。
猫に褒められるというのもなかなか悪くないかも、なんて思って、しばらくはまだこのままの髪型でいこうかな、なんて。
「ただいまー」
『お邪魔する』
家にたどり着いて玄関で靴を脱ぐ。
「あら、結構遅かったのね。おかえりなさい。花ちゃんもいらっしゃい」
私たちが帰ってくるのが見えたのか玄関ではおばあちゃんが待っていた。
『ちゃん付けはよしてくれ。これでもあなたと同じぐらいの年は重ねているのだから』
カタラトフはというと、おばあちゃんに対していつもと違う口調で話す。この猫はいっつもそうだ。おばあちゃんだけなぜか特別扱いして。変にかっこつけたような話し方。
「ふふふ、まぁ気が向いたらかんげてみるわ。ゆみ、冷蔵庫にジュースあるから飲んでもいいわよ」
「え、ほんと!?やった!」
なんだかんだで結局最初にもらった120円はまだ私のバックの中に入ったまま。ジュースを飲めるならこのお金はちゃんと貯金して今度本屋さんが来た時に新しい漫画を買うようにとっておこう、なんて考える。
「ほら、カタラトフも一緒に行こう!」
『いや、私はお祖母殿と話があるのでな。先に飲んでてくれ』
「そうね、ごめんなさいねゆみ、ちょっと大人同士のお話合いがあるのよ」
そういうおばあちゃんとカタラトフは申し訳なさそうな顔をしていて。私だってちゃんとそういう分別はきちんとできるからしょうがないとその場は素直に引き下がる。
「それじゃ、ちゃんと残しておくからね!」
『いや、別に残しておかなくてもいいんだぞ?』
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「それで、弓の調子はどうなの?」
『いつもと変わりないな』
由美はいま台所でジュースでも飲んでいるころだろう。
今日は少し遠出をしたのでたまたま手に入れることができた、由美のすきなアップルジュース。
それは地下室の中にあったため保存状態もよく、賞味期限も切れていなかった。
「そう…それはつまり、力が下がってない、ということね」
『まぁ、幸いにして上がってもいない、がな。それで、外の様子はどうだった?』
「どうもこうもないわ。影の影響はどんどん広がっている。近いうちにここもばれるでしょうね」
ため息をつく私の声はとても暗い。
『覚悟をしていたほうがいいだろうな』
「そうね…でも、由美だけは何とかしてあげないと。あの子はだって…」
『ああ、わかっている。あの子は私たちの希望でもあるんだ。彼女の命。私の命に代えても守り抜くと誓おう』
「…あなたにそう言ってもらえると少し安心できるわ」
『そうか。…顔色がよくないな。少し休んでから由美のところに行くといい。では、私はこれで』
「えぇ、道子にもよろしくって言っといて」
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玄関に行くと、そこには腰掛に座ったままのおばあちゃんが一人だけでいた。
「あれ、カタラトフは?」
「あの子ならもう田中さんのところに帰ったわよ」
せっかくカタラトフの分のジュースも持ってきたのに。
冷蔵庫で冷えていたジュースは外に出したとたんに汗をかき始め、私の手はとても冷たい。
ふと、そこで気が付いた。
おばあちゃんの顔色が少し悪い。いつもは気丈で、めったなことでは驚きもしないおばあちゃんの顔色がどこか青白く見える。
「おばちゃん、どこか調子悪いの?」
そうきくとおばあちゃんはどこか無理のある笑顔を作って。
「だいじょうぶよ」
その時私は特におばあちゃんの言葉を疑わなかった。
だって、おばあちゃんはいつも強かったから。
今日も今日とて、私はいつもと変わらない日常を過ごした。
これが、残り少ない私のささやかな日常であることに気が付かないまま。