第四話
あの出会いから8年後。
今目の前にいる老執事イールはグレンをデルタ国王と言った。
デルタは新興国で、ほんの2、3年前にできたばかりだ。その頃シュリは他国情勢どころではなかったから、デルタ国王が誰なのか興味もなかったし、知る由もなかった。
グレンはある時から突然レジャーベルに来なくなったし、別にそれはそれでシュリは全然構わなかった。
出会いから毎年夏になると現れてはシュリに嫌みを言う少年のことなど、いちいち気にしてはいなかったのだ。
それなのに…。何故今、シュリの元へグレンの使いがやってくるのか。シュリにはすっかりさっぱり解らない。
「…デルタ国王って…グレンが?」
訝しげに尋ねればイールは至極当然といった表情で頷く。
「…私の知るグレン=カニングスとは違う人物…?」
「いいえ。シュリ様がご存知のグレン=カニングス様です」
「…あの、ナーガの末息子の、嫌みで性格の悪いあのグレン?テイトと同い年で、夏になると王宮に現れてテイトとつるんで悪戯するか、私に嫌みを言うしかしないあのグレン…?」
「…グレン様ももう大人ですから、悪戯はしませんが。そうです、そのグレン=カニングス様です」
イールはしっかりと頷く。
その顔を穴が開く程見つめて、シュリは椅子を蹴飛ばす勢いで思わず後ずさった。
ガタンっという大きな音が、居間に響いたあと、シュリはそれにも勝る大声を出していた。
「………………うっ、嘘でしょう!?何故どうして!?何の用事があってグレンの使者がここに来るのよ!?」
わなわなと震え出すシュリにイールは困ったように眉を下げた。
「…驚くのも無理はございませんが…少し落ち着いて下さい。シュリ様、とりあえず深呼吸しましょう」
スーハーと深呼吸を自らしてみせ、イールはシュリにもするよう促す。
とりあえずイールの真似をして2、3回深呼吸してから、シュリは大人しくまた椅子に腰掛けた。
「………その、グレンが、何の用で?」
「…これ以上驚かせてしまうのも申し訳ないのですが…」
本当にすまなさそうにイールは溜め息をつく。ごくりと、生唾を飲み込む音が、何故か響いた。
「シュリ様をデルタ国王の正室にお迎えしたく存じます」
「…………………正室……?」
正室ってなんだっただろうかと、シュリは暫く止まってしまう。
シュリの母親は正室だが、テイトの母親は側室だった。でもどちらも父の妻であり、子を産んだ母である。立場上シュリの母親の方が、上位だが、早くに亡くなった正室より生きている側室の方が権力はある。特に苛められた記憶もないが、深い愛情を注いでもらった記憶もない。
「そうです。…つまり、シュリ様を妻としてデルタ国へお迎えしたいのですが……大丈夫ですか?聞いておりますか?」
シュリの目の前でイールはぱたぱたと手を振ってみせる。当のシュリはまだ頭の回転が回らないのか、微動だにしない。
「…それは、冗談、ですか?」
やっとの思いで紡いだ言葉はぎこちなくシュリの口から出てきた。
とても本当のこととは思えない話の流れにシュリは微かな望みを含めてイールを見る。が、イールは首を振った。
「…冗談でここまで来る程、私も暇ではございません。真実、シュリ様にこの婚姻を結んで頂きたく存じます」
「………何故?」
小さな呟きが、イールの耳に届く。
目の前のかつての姫は愕然とした表情でイールを見つめていた。
「…シュリ様への待遇は保証致します。このままここで一生を終えられても幸せでしょうが、どうかグレン様と共に歩む道もお考え頂けませんか?」
「私はもう、姫ではないわ。他に相応しい姫君が大勢いらっしゃるでしょう?」
「グレン様もシュリ様の状況は存じております。…正直に申しますと、私も他の姫をと、グレン様にご提案致しました。けれどその度、グレン様に一蹴されてしまいました」
苦笑混じりにイールはシュリを見る。
この不遇な姫は自らの立場を充分理解しているのだとイールは思った。同時に彼の主上はシュリのその聡明さをいつからか見抜いていた。だからこそ、他の姫では駄目だったのだ。
「…本当はシュリ様は見つからなかった事にしようとも思ったのですが…」
「そうして頂きたいものです」
「…ですが、お話させて頂いて今、私もシュリ様にデルタ国へ来ていただきたいと思います」
にこりと柔和にイールは笑う。その笑顔を見つめてシュリはどうしていいかわからずただ小さな溜め息を溢しただけだった。