大好きな彼が旅立つ前に
「こんなの、いらない」
思わず口をついて出た、強い拒絶の言葉。これが自分が発したものである事に、ロッテは内心驚いていた。
目の前では一つ年下の幼なじみが、目を見開いて絶句している。彼の手にはロッテに贈られるはずだった、つぼみが開き始めている花の鉢植えが大切そうに抱えられていた。信じられないといった風に、こちらを見つめ返す彼の顔を見ていられなくなってうつむくと、ロッテは身を翻しその場をあとにしたのだった。
ぽつぽつと、いつの間にか雨が降り始めた、夕闇に染まる通りを駆け抜け自宅に戻り、寝台に潜り込む。夕ご飯は、と尋ねる母に返事をする気にもなれなかった。
ルカに、あんな顔をさせてしまった――。
輝くような金の髪に青い瞳、美しく整った見た目、学業成績は優秀、と非の打ち所のないように見えるのに、あわてん坊でそそっかしくて。意外にも頼りがいがあって、男気が溢れる幼なじみ。ロッテの大好きな人。
もうすぐ、手の届かない遠いところへと旅立ってしまう人。
家が近所で年も近く、姉弟同然に暮らしてきた二人だが、ロッテがルカに特別な感情を抱き始めた切っ掛けは、ルカの身長がロッテを超えた事だった。「ずるい」とくちびるを尖らせるロッテに対して浮かべた苦笑は、年下にもかかわらずずっと大人びていて、ロッテはその時初めて、ルカといる事に居心地の悪さを感じてしまった。後は些細な事の積み重ね。ルカが力の使う薪割りを易々とこなすのを見て、彼が男性なのだと実感した。ルカが級友にいじめられたロッテをかばってくれた時に、甘い胸の疼きを覚えた。ルカの困った顔、不機嫌な顔、笑った顔。全てに目を離せなくなっていた。
昨年、ロッテが十五になった年には、もうこれは恋なのだとはっきりと自覚したが、気まずくなりたくないからと、告白をためらっていた。焦げ茶の髪に薄茶の瞳、色が白いことが唯一の自慢なだけで、ルカに釣り合うような女の子か、と問われるとまったく自信など持てなかったのも理由の一つだ。しかし、見た目と人当たりのよさから、女の子に常に囲まれているルカを自分だけのものにしたいという独占欲が湧いてきてしまい、悩んだ末についに告白を決めたのが二ヶ月ほど前。
そして、その翌日のことだった。彼が王都へ行ってしまうと知ったのは。
王国の外れに位置するこの村では、庶民向けの学校を卒業した子供は、大抵が地元のこの村か、もう少し栄えた隣町で職に就く。その例にもれず、ロッテは村の小さな雑貨屋で働き口を見つけた。一方で、一年遅れで卒業したルカは、教師の推薦を受け都の動植物研究所へ行く事になったのだ。どの教科も優秀だったルカだが、生物学は彼の一番得意とする分野だった。
王都まではここから馬車で少なくとも十日はかかる。そう簡単に行き来できる距離ではないし、都の研究所に行ってしまえば勤勉なルカは研究に精を出し、よほどの事がない限りここには戻って来ないだろう。この村とは比べ物にならない程大きな都には華やかな美女もたくさんいるはずで、見目麗しいルカの事だ、きっとすぐに恋人ができてしまうに違いない。告白の決意はみるみるうちに萎れ、ロッテは自分の気持ちに蓋をし、笑顔で見送ろうと決めたのだった。
――そう、決めたのに。
出発を数日後に控えた今日、渡したいものがある、と仕事帰りのロッテをルカは待ち伏せしていた。そして、中央広場のベンチに連れて行かれ、あの花を見せられたのだ。彼は就職先の見学と、新住居の下見を兼ねて、十日ほど王都に滞在し、戻ってきたばかりだった。研究所がどんなに素晴らしいところだったか、という話をまじえながら渡された、そこで手に入れたという鉢植え。今はまだつぼみだが、もう少しで美しい花が咲くのだと言う。
どうしても、受け取れなかった。
とても楽しそうに、研究所で栽培されている植物の話をルカはした。天候によって色が変化する果実、暗い夜道を照らす花や、音にあわせて葉を揺する木々。いつかは植物と意思疎通ができるようにしたい、とルカは熱く語ったのだが、ロッテの耳にはほとんど入ってこず、ただ贈られた物を見つめるだけだった。
この辺りには売っていそうにもない、小洒落た模様のついた鉢に植えられた、お別れの記念とでも言いたげなささやかな贈り物。これからの事と王都での話を聞くたび、浮かべた笑顔が強張っていくのをロッテは感じていた。
極めつけは、ルカの笑顔だ。ずっと一緒に過ごしてきた、家族も同然のロッテに向ける何の屈託もないその顔には、別れを惜しむ欠片もなかった。
結局、自分たちの関係に特別性を感じていたのはロッテだけで、ルカはそうではなかった。その事に強い失望と勝手な怒りを感じ、つい辛く当たってしまった。
自分はなんて、心の狭い人間なんだろう。自室のベッドの毛布にくるまって、ロッテはぎゅっと瞳を閉じた。何が、笑顔で見送ろう、だ。昔から動物や植物が大好きだったルカにとって、その研究で生計を立てる事はこの上ない幸せであるはずなのに、それを祝福するどころか素っ気ない態度で、せっかくくれた贈り物を拒絶した。ルカは何も悪くないのに。あの時の彼の表情を思い出すだけで、胃の辺りがぐっと重くなる。鼻の奥がつん、と痛くなり、閉じた瞼からは熱い涙が溢れてきた。
泣く必要なんてない。ひどい事をしたのはロッテで、傷ついたのはおそらくルカのほうなのだから、ロッテが泣くのは間違っている。そう思って涙を止めようとしたのだが、ロッテには家族に聞こえないように嗚咽をこらえる事がせいぜいで、いつしかそのまま泣き疲れて眠ってしまった。
翌朝、腫れぼったい瞼をこすりながら、ロッテが仕事に行くために玄関を出ると、石畳のあちこちに水たまりができていた。夕方から降り始めた雨は、明け方まで続いたらしい。ルカはあの後、どうしたのだろう。花を持ったままずぶ濡れで、一人ベンチに座っているルカの姿が一瞬だけ脳裏に浮かび、心がじくりと痛んだ。
――そんなはずない。ルカだって子どもじゃないんだから、わたしが言わなくても雨が降れば家に帰るに決まってる。
昨日のルカの、王都での生活への希望に満ちた笑顔を思い出し、罪悪感を消そうとしたのだが、ロッテは家の軒先にぽつんと置いてあった物を見て目を瞠った。今にも花が咲きほころびそうな、ルカの贈り物だった。
結局その日は、ろくに仕事も手につかなかった。集中しようとしても、ふとした拍子に、持ってきてしまった鉢植えと、ルカの顔が脳裏に浮かぶたびにロッテはうろたえ、棚に並べる商品を床にばら撒けたり、釣り銭を間違えそうになった。
「今日は一体どうしたって言うんだい、ロッテ。もうお帰り。これじゃあ商売にならないよ」
ロッテが掃除用のバケツにつまずき、汚水を盛大に撒き散らしたところで、雑貨屋の女主人から通告を受けてしまった。
「す、すみません!」
女主人は、顔をうつむけてくちびるを噛みしめるロッテの顔を見て、苦笑を零す。
「やめておくれ。そんな顔されたら、怒るに怒れなくなっちまう」
ロッテは自分の顔があまり好きではなかった。下がり気味の眉尻に、見開いたような大きな瞳は、普通にしていても気弱そうでどこか悲しげに見えるのに、ほんの少しでも眉根を寄せるとそれがさらに増長されて、ほとんど泣き出す寸前の表情になる。
その顔は同じ年頃の男の子達の嗜虐心をあおり、幼い頃からよくいじめられたし、ルカと仲良くするのを快く思わない女の子達からは「泣き真似ロッテ」と陰口を叩かれた。
そんなロッテを、ルカはいつもかばってくれた。彼が陰口を真っ向から否定すると、女の子達は悔しげながらも、その口を閉ざした。乱暴な男の子からの、時には身体へ及ぶロッテへのいじめにもルカは果敢に立ち向かった。その喧嘩には大抵ルカは負けてしまうのだが、「ロッテに怪我がなくて良かった」と、腫れあがった傷だらけの顔で、それでも嬉しそうに笑う彼の顔は、今でもロッテの胸を柔らかく締めつける。
「この有様だしね、もう店じまいにしよう。言っておくけど、今日の分はちゃんと給金から引いておくからね。ロッテ、明日からはきっちり働くんだよ。いいね?」
優しい店主の言葉に、ロッテは本当に泣き出しそうになるのをこらえて何度もうなずいた。
床掃除を終わらせ、勤め先の店を後にして全速力でルカの家に向かう。
謝りたい。昨日の態度、せっかくの贈り物を無碍にした事。全部謝って、お礼を言って、笑顔でルカの王都での生活を応援する。そして――もう自分の想いをごまかさず、告白しよう。そう固く決意した。
ルカなら部屋で荷造りをしているから、と彼の母親に通された部屋は、相変わらず植物であふれ返っていた。窓枠は蔦に覆われ、所狭しと置かれた鉢植え、天井から吊されたバスケットに咲き乱れる花はどれも美しく、ルカが手塩にかけて育ててきたことが伝わってくる。本棚の上に、前足を折りたたんで座り込むルカの飼い猫ジルがロッテをじろりと一瞥し、眠たそうに目を細めた。
部屋の中央にしゃがんで、なにやら袋をしきりに探っているルカの後ろ姿を見て、ロッテは遠慮がちに声をかけた。
「ルカ」
振り返ったルカは、少し驚いた顔をした後、弱り切った表情を浮かべた。
「ロッテ……。大変なんだよ。財布をどこに入れたか忘れちゃって」
「好きなの」
まず昨日のことを謝って、お礼を言ってから――そんな算段も、ルカの顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。自然と口をついて出た言葉に、ルカが目を丸くする。ロッテの顔にもすぐに血がのぼってきて、慌てて床に目を落とす。お礼を言うために持って来ていたあの植物はいつしかつぼみが開き、白く咲いた花が胸の前でさわさわと揺れていた。ルカが立ち上がり、ロッテの前に立つ気配がした。ひものほどけた靴が目に入る。
「うん、知ってるよ」
頭上から振ってきた言葉に、ロッテは顔を上げた。あっけらかんとした口調で言った後、ルカは一転深刻そうな顔になり、たずねて来た。
「それより財布が見つからなくて困ってるんだ。ロッテ、知らない?」
「……もし盗られたら困るからって、いつも靴下の入ってる衣装箱の奥に入れてなかった?」
「そうだ!」
ルカは顔を輝かせ、早速衣装箱を引っかき回し「あった!」と、誇らしげに見つけた財布を掲げた。
「ありがとうロッテ。母さんにも聞いたんだけど、そんなの知るかって怒られちゃって。やっぱり僕の事一番分かってくれるのはロッテだね」
しみじみとした口調で言われ、気恥ずかしくなったロッテは、ますます赤くなった顔を持っていた花の影に隠そうとしたが、それを見たルカが嬉しそうに笑う。
「その花、咲いたんだね! 持っていてくれて良かった、放っておかれたらどうしようかと思ってた」
その笑顔に、ロッテは胸を突かれた。
「ルカ、ごめんね。昨日ひどい事言った。本当はね、本当に言いたかったのは、わたし……」
「いいよ、もう気にしてないし。それより知ってる? その花はさ」
「もう、ルカ聞いて!」
せっかくの告白を「知ってる」の一言で流されてしまい、続く謝罪の言葉も遮られたロッテは、思わず癇癪を起こした。突然のロッテの大声に驚いた猫のジルが、ビクッと身を起こし、本棚から飛び降りて部屋から逃げていった。
「知ってるよって、知ってるって何? わたしがルカのどこを好きか本当に知ってるの? 優しいところとか、首筋にあるほくろ、笑い声も。毛虫を見ると悲鳴上げるところも、靴紐ほどけてるのに気付かなくてつまづくのも、寝癖だっていつも同じところについてる。格好いいところ、情けないところ、そういうのも全部ひっくるめて好きなの。――そういうの、知ってる?」
ルカは面食らったように、何度か瞬きを繰り返した後、
「そこまでは知らなかったな、でも嬉しいよ」
と照れくさそうに頭をかいた。
さんざんまくし立てた後、ロッテは本当に顔を上げられなくなった。
「もう、やだ。恥ずかしい……こんな事言うつもりじゃなかったのに」
ぎゅっと目を閉じて伏せた顔に、白い花の爽やかで甘い香りが漂う。何度も深呼吸し心を落ち着かせ、おそるおそる顔を上げたロッテの目に映るのは、ルカの満面の笑顔だった。
「ねえ、ロッテ。その花の事だけど、ほら、見てくれる?」
ルカが人差し指で指ししめす白い花を見て、ロッテは思わず息をのんだ。
雪のように白い五枚の花弁の中心は薄青に色づいている。小ぶりで可憐なその花びらは、それぞれ発光していて、ロッテとルカの顔をうっすらと照らし出した。
「研究所を見学した最終日に、種を貰ったんだ。世話する人間の思いの強さによって成長速度が変わるんだって。興味深いと思わない?」
「本当? 見学って、行ってきたばかりじゃない。こんなにすぐ花って咲くものなの? 信じられない。……でもすごく、綺麗ね」
ロッテは、明滅する花に見入った。
「ロッテの花だよ」
ルカがどこか誇らしげに言う。
「種まきしたときも、水やりするときも、ロッテのことをずっと思っていたんだ。研究所の先輩の話では、花が咲いた最短記録はひと月だったんだけど、余裕で超えちゃった」
「ルカ、それって」
「汎用化を目指してるんだけど、なかなか課題が多いらしくて。一番は対象物に対する気持ちが消えると枯れてしまうことかな。女の先輩たちは浮気探知機って言うし、男の先輩たちはそれを聞いて震えあがってる。でも、大丈夫だよ。この花だけは絶対枯れる事はないから」
揺れる花々は、目に痛いくらいの光をロッテに浴びせた。
「眩しいよ、ルカ」
「そうだよ。この花は、咲かせた人間の心を映すんだ。僕がロッテを思えば思うほど、花は輝く。だから、持っていて。この花を、僕の心を君にあげる」
ロッテはもはや、自分がどんな顔をしていいのか分からなくなった。顔の赤らみは引かず、額の生え際には汗が滲み、瞳にはうれし涙までにじんで来る始末。今にもにやけだしそうな、反面泣き出しそうな、みっともない顔をさらさない為に、輝く花に顔を埋めた。
「ずるい、ルカはずるい。そんな事言われたら、わたし待つしかないじゃない」
ルカは、俯いたまま動こうとしないロッテの左腕を引いて優しく抱き寄せ、耳元に囁いた。
「うん、待ってて。絶対に迎えに来るから。もしこの花が枯れるとしたら、それは僕が死んだ時だけだよ」
いささか物騒な物言いにロッテが思わず顔を上げると、ルカは無邪気ににっこりと笑った。
「やっと、顔見てくれた」
「ル、ルカが、変な事言うから」
ロッテはまたもや俯きそうになるのを何とかこらえ、ルカをじっと見詰めた。
「ルカ」
「うん」
笑顔のままルカが答える。
「ルカはひとつに集中すると、他の事全部忘れちゃうの。でも、ご飯はちゃんと食べて、夜遅くなる前に寝るんだよ。徹夜なんか絶対にだめだからね。あと、靴下は左右同じ物を履くんだよ。それと汗かかなかったからってお風呂入らないのもだめ。それから、それから……」
ルカは「うん、うん」と、ロッテの言う事全てに、嬉しそうな笑顔で頷く。
今までにない輝きを放つ花に照らされながら、ロッテはルカを見上げた。本人は真剣に、どちらかと言えば頼りない息子を送り出す母のような気持ちで言い聞かせているつもりなのだが、その顔立ちとにじむ涙のせいで台無しだった。
何も知らない他の者が見れば、ロッテの姿はつれない恋人に「捨てないで」と泣きすがっている風に見えることだろう。実情を知るルカはそんな事を想像し、ますます相好を崩しそうになったのだが。
「待ってる。ルカの事、ずっと待ってるから。だから、死ぬとか冗談でも言わないで。ちゃんと迎えに来て」
切実に言いつのるロッテを見て表情を引き締め、力強く頷いた。
「本当は今すぐ連れて行きたいんだけど、独り立ちできない身では流石に無理だから。でも、このロッテの花に誓うよ。できるだけ早く迎えに来れるようにする、絶対。絶対って、何がどうしてもなし遂げなきゃいけないってことなんだ。だから僕は頑張るよ」
「ルカ……」
もう何も言葉にできずに、ロッテはルカの顔を見詰めるしかなかった。そのとき突然、地を這う魔物のうめき声のような音が鳴った。
「……ああ、ごめん。準備に気をとられて、昨日からろくにご飯食べてないんだ」
ロッテは何度も瞬きをして、怒るか呆れるかどちらにしようと、しばし決めかねていたのだが、
「ふ、ふふっ、ルカのばか……」
顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出す二人の顔を、約束の花が眩しく照らし出していた。