第5話 - 別離 -
夫婦が互いの為を思い、それと知らずに大切な物を譲り合い、結局すれ違ってしまう。そんな逸話がティグの知識の底にあった。委細の不確かな過去の知識は、刀工には理解の及ばない物語だった。それでも記憶に残っていたのは、なにか刀と繋がりがあったのだろうか。
両親の痴話喧嘩を見て、ティグはそんな事を思い出していた。なにか違うかもしれないけど。
お互いの誤解が解けた後は、滞りも殆どなく話が進んでいった。やはりティグの年齢が問題となりエリシアが迷いを見せたのだが、沈黙を守っていたティグがここぞとばかりにオーグに加担した。
それでエリシアは折れた。今まで自己主張どころか、我が儘のひとつも言わなかったティグが初めて見せた、確固たる意志を目の前にしては、折れない訳にはいかなかった。
そうと決まれば両親が動くのは早かった。まずは、隊商の顔役や仲間達にその事を知らせなければならない。その後は、今日まで世話になった、家族とも言える人々への挨拶回りである。
今や確たる防衛の要であり、先だっても類希な活躍を見せたオーグ達である。彼らが隊商を離れるのを素直に喜ぶ者は一人もいなかった。
隊商の顔役達は、ここで望みうる最大限の待遇を提示して、オーグ達が隊商に留まるように求めた。
歳のいった者の中には泣きながら、両親をなじる者さえいた。ティグの出産に立会い、何かと彼ら一家を気にかけていた女性だった。
ここで産まれ育ったティグを、本物の孫のように思っている者達の、言わば代表だったのだろう。その姿を見て、同じ想いを抱きながらも同世代の者が諌める、それは必要な通過儀礼だったのかもしれない。
情理両面、多種多様な説得の全てを、オーグ達は正面から受け止め、感謝と共に辞意を貫いた。
ティグは戸惑っていた。生まれてこの方、いや、刀工の七十余年を合算しても、この数日間ほど多くの人に抱きしめられた事はなかったからだ。
優しく、強く、弱々しく、ぶっきらぼうに、乱暴に、惜しむように、悲しそうに、様々な人が入れ替わり立ち替わり、ティグの元を訪れた。
なぜ彼らはこんな事をするのか。自分が大成を予感させる子供だからだろうか、ティグはそう考え、自ら否定する。
何かの記念にと、刀工の元を訪れる者達を見たことがある。彼らは皆一律に好意的で、その好意は表面的なものだった。
遠い、遠すぎる記憶に、その答えがあった。刀工が必要とせずに切り捨ててきたもの。その規模があまりに大きかったせいで、同じものだと気付かなかった。
家族という集団、血の繋がりとは別の、今日まで共に生きてきた人々。
彼らは、今生のものとなるかもしれない別れをしに、ティグの元を訪れたのだ。
ティグが問答の末に転生を果たしてから数日、それの価値に気づくには短すぎる時間しかなかった。
だからせめて、別れの日までの間、ティグは彼らを見かける度に、走り寄り抱きついた。
皆がどう感じたかは知れないが、振り払う者は一人もいなかった。
ある程度の規模の町に着く度に、大小様々な人の出入りが行われて、隊商は再編成される。その際には、ささやかな宴が催されるのが通例だった。
しかし、今回のそれは、参加者が多くささやかとは言えない規模となってしまった。隊商の顔役達は苦笑いしながらも、常より少し豪華な食事を提供した。
「追加報酬は出せないが、餞別がわりだ」
赤字だよ、そう言って笑ったのは、最初にオーグ達の隊商参加を後押しし、最後まで隊商に残るよう求めていた顔役だった。
宴も終わった別れ際、二人は固く握手を交わし、短い言葉でいつの日かの再会を約束した。
宴の間、エリシアは絶えず年配の女性に指示を受けていた。それは今日に限った事ではなく、ここ数日間のエリシアの日課であった。
指示を出しているのは、先日泣きながらエリシア達を批難した女性だった。
出て行くなら仕方がない、そう割り切った彼女がとった行動は、エリシアに対する徹底的なスパルタ教育だった。
母親として、妻としての心構えから、女としての諸事万端を昼夜なく教え込んだのだ。
冒険者としてはそれなりの経験を積んでいたエリシアだが、今の自分に必要な物の多くを持ち合わせていないどころか、知りもしなかった事を痛感した。
彼女には常日頃から世話になっていると思っていた。とんでもない事だ。エリシアは頼りきっていたのだ、自分はなんでもできると思い込みながら、あらゆる事を彼女に。
あまりにも足りなさすぎて、次の大きな町まで隊商を出るのを止めようかと本気で考えたエリシアだが、その頃には引き返せない所まで話が進んでいた。
結局彼女は、隊商が町を出るその日まで、エリシア達の世話を焼いていった。
「勘違いするんじゃないよ、このままじゃティグが不憫すぎるからやってるんだ」
感謝の言葉を述べたエリシアに対する、それが彼女の返答だった。
「それじゃ、もういくよ。達者でね」
隊商が町を立つ直前になって、彼女はようやくエリシア達の宿から引き上げようと背を向けたが、不意に向き直って強くアリシアを抱きしめた。
「母親が子供の前で簡単に泣くんじゃないよ!格好悪い!」
その日の彼女は小さく震えていたが、決して涙は見せなかった。
一方のエリシアは隊商の面々に、締まらない顔で別れの挨拶をする事になってしまった。
隊商は町を離れた、ティグ達を残して。