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学生時代からいずれ必須になるだろうと、タイピングの練習をかねたゲームなどをしていたせいか、今では当然のようにブラインドタッチだ。愛用のパソコンのキーボードは、すっかり手に馴染んでいて使いやすい。傍にはこれまた愛用のマグカップ。地味に400mlはいるサイズで気に入っている。
今作っているのは、来週本業で使う英単語の小テスト問題。予定では今日一杯副業に時間を割くつもりだったが、予想外にその進みがよく、朝方には終わってしまったので、明日に回すつもりだった本業に手を付けてみた。
英単語20問と、今回はおまけで長文の和訳なんかもつけてみるか。
そんなことを考えながら、マグカップにはいっているコーヒーをすする。長文は何を題材にしようかと首を捻ったその時、低くて鈍い音がした。
ドスン!とかバタン!とか、正しくそんな効果音。発信源は間違いなく、娘を寝かした自室だった。
あれだけ派手な音を立てられては、さすがに見過ごすこともできない。よいしょと護は立ち上がり、部屋の前にいって扉をノック。ゆっくりとその扉を開けた。
「入るぞー」
部屋に入ってすぐ目に入ったもの、不自然な格好で床に転がった娘だった。掛け布団が絡まった状態で大の字になっている娘は、十中八九ベッドから落ちたのだろう。とくに抵抗した感じがない辺り、反射神経はあまり良いとはいえないようだ。
布団がクッションになったのか、娘は苦痛に顔を歪めることもなく。ぼんやりと天井を見遣っていた。
「大丈夫か?」
傍に寄って腰を落とす。娘はこちらに視線を寄越した。
「おーい…?」
「………」
ようやく娘が上半身を起こし始めた。至極ゆっくりな動作ながら、どこか品の良さを感じさせられる優雅さ。
緩慢な動きは、熱で身体がだるいせいもあるかもしれない。そう思えば護は娘に手を差し出した。
「ほら、手」
瞬間、娘の動きが止まった。震えた、といったほうが近いかもしれない。
じっと護の手を魅入っていた娘の視線が、徐々に上がっていく。そのまま護とカチリと視線が合えば、彼女は息をも止めたようだった。
その一瞬の沈黙後、娘の瞳から一粒の涙が零れ出た。
「えっ…?」
「……に…」
娘は何か言ったようだったが、あまりの小さな呟きに聞き取ることは出来なかった。訳も分からず突然泣き出され、思わず呆然としてしまったのも原因だろう。
そんな固まった護の正気を戻したのは、腹に食らった柔らかくも重たい一撃。視線を下げれば、娘のアッシュブロンドが目に入った。
———…つまりこれは、抱きつかれているわけで。
「ちょっ…」
普段ならば、こんな娘などひっぺがしていること間違いなしだっただろう。けれどどうしたことか、ほっとしたような安心感が護の中で生まれていた。
やっと手元に取り戻した。そう感じてしまうほど思いは強く、とても彼女を引き剥がすことなど出来そうになかった。
「苦しいって」
心にもないことをいってみる。それで彼女が離れてくれたら、きっとこの感情などただの迷いだと思うことが出来るだろうから。けれど娘は護が望むように離れることはなく、むしろさらに腕に力を込めてくる。
大きくなっていく娘の嗚咽と、娘の涙を吸収しているのであろう己の冷たい腹部。共に拒絶出来ないのならば、もはや諦めるしかなかった。
「なんだっても———……」
訳も話さず、ただ泣く娘も。
そんな娘を突き放せない自分も。
双方とも心のどこかで受け入れている己に薄々気がついて、どうしようもなくげんなりする。
「えらいもん、押し付けられた」
やっぱりあの腐れ縁は厄介ごとばかり持ってくるということか。
何度目か分からないため息に、うんざりした。
海を捨てて、ヒトになったその姫の足は、慣れない大地にどれだけ激しい痛みを感じたか。
突き刺すような痛みに、何度足を止めたか。
それでも彼女は喜んだことだろう。
痛むことは進んでいるということ。
もう一度出会うその時に、近づいているはずなのだから。