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「もー…なんでこうなるかな。犬猫ならまだしも、あろうことか人間拾ってくるとか…」
娘はずいぶんと熱があるようで、抱き上げた瞬間じんわりと伝わってくる熱さで分かった。呼吸が浅いのもそのせいだろう、頬も赤く火照っている。
とりあえず娘を寝かせることにした。着物じゃ寝にくいだろうが、さすがに帯を外すことは躊躇われる。それでも少し緩めてやって、頭には氷枕。
なんだろうか、この疲労感。
娘が眠るベッドの傍の椅子に、護は溜まらず座り込んでため息。ふつふつと心の奥から沸き上がるのは、面倒ごとをもってきた弘への苛立ちだ。
あの野郎、マジでありえねえ…!
恨めしそうに顔を上げた護の視線の先には、ベッドの上で眠っている娘。その顔立ちの幼さから、とても成人ではないだろう。つまり、未成年。
これが職場にバレたらと思うと恐ろしい。下手に勘違いされれば最悪解雇処分にだってなり兼ねない自体だ。護は現職の教師であり、この手のことはとくに禁忌。シャレにならない。
かといって今更どっかに捨てるわけにもいかない。だいたい状態が状態だ、これを見捨てるほど落ちてもいない。
———…となると、しばらく様子を見るしかないわけで。またため息を吐かずにはいられなかった。
……ま、もう焦ったってしゃーねえし。
これからのことは娘が起きてから考えればいいかと、護は部屋を出て行った。
はじめて陸に上がった人魚姫は、一体なにを感じたのだろう。
深海とは違う空の青さに目を見張ったか。太陽に熱せられた砂浜に魅せられたか。水流とは違う、肌を撫でる風に心ときめかせたか。その風に揺れる鮮やかな緑に驚いたか。
はたまた、これで夢が叶うと夢に夢を見たのだろうか。
ちゅんちゅんと小鳥が鳴く声。風が大地を駆け抜けて、木々がざわめき上げる。
眩しいくらいに輝く太陽が地上を照らす外の世界は、さぞ美しいことだろう。煌めきと期待が溢れているに違いない。
けれど今となればそんな世界も興味はなく、鉄格子のはまった窓の外を見遣ることも億劫で。ただぼんやりと座り、どこを見るわけでもなく前方を眺める。
若干7歳にして知った絶望に、何をする気力も起きない。ただ時間が過ぎるのを静かに待つ。
この座敷牢に入れられてどれくらいの時間が経ったのかすら、どうでもよかった。早く終わればいいとすら思った。何が、というわけではない。ただ漠然と、すべてが終わってしまえばいいと思った。
「やっと戻ってきたのか」
言葉をかけられて、ようやく人が傍にいたことを知る。
緩慢に顔を上げ、声がしたほうに視線を走らせる。格子越しにいたのは、栗毛色の髪の青年。この屋敷の名を継ぐ、半分だけ血の繋がった兄だった。
「おかえり。外の世界は楽しかったかい?」
返事を返す気も起きず、ただぼんやりと異母兄を眺める。異母兄は掴みどころのない笑みを浮かべ、こちらを満足そうに見遣っている。
「やっぱり観賞魚の価値は、大海ではなく水槽でこそだ」
その異母兄の言葉とともに、夢から覚める。ゆっくりと開かれた瞳に映る天井は見知らぬもの。身体がやけに熱い。えらく汗をかいたようで、着物が肌に張り付いていて気持ちが悪い。
ずいぶんと昔の夢を見た。屋敷に連れ戻された頃のことだったから、もう10年も昔の夢。ここしばらくずっと見ることはなかったはずなのに、屋敷を無断で出たことがきっかけだろうか。
……そういえば、ここどこだろう。
のそりと身体を起こす。きょろきょろと部屋を見回しても見知ったものは何一つない。寝ていたずいぶんと大きいベッドも、その隣に置かれた机も、窓からの景色も、どれも覚えのないものばかり。
けれど屋敷ではないということだけは分かった。それでよかった。それだけでどこかも分からないこの場所に、ほっとした。
起き上がろうと、ベッドの端に手を置く。ぐっと力を入れたら手が滑った。
身体が大きく傾くのを感じながらも、とっさに行動できるほど反射神経が良くなくて、迫りくる床に思わず目を閉じた。