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少し朝もやが残っているかのような早朝。静かな住宅街は、ほとんどの住民同様まだ眠っているようだ。ときどき物音が聞こえこそすれど、日中のような活発さはない。
そんな住宅街に響く、えらく歩調が緩やかな下駄の音。足を引きずっているのかと思えるほどの緩慢な足取りで、娘が一人歩いていた。
着ているものは、端から見てもずいぶん上等だと思える白い着物。袖や裾に施されている刺繍は派手とはいえるものではないが、上品なデザインの蓮華の花。羽織ったショールは、その蓮華に会わせるかのような落ち着いた桃色だ。
着物に垂れた肩ほどの髪は、少し癖のあるアッシュブロンド。同色の長い睫の下にある左目は灰青色。右目はカーゼと包帯が巻かれていて窺い知ることはできそうにない。とても日系人とは思えないその色ながらも、幼さの残る顔立ちはさほど彫りが深くもなく。東洋と西洋の性質を受け継いだような、非常に華やかな娘だった。
細く白い、腕が伸ばされる。その手が触れたのは、電柱に貼り付けられたこの辺りを番地を示す青い看板。書かれている文字は『桜ヶ丘3丁目2番地』。
それこそ望んだ番地であり、娘はその文字を懐かしむようになぞる。
……あった、ここだ。
やっと、ついた……。
今更ながら乱れている呼吸に気がついて、落ち着くようにと大きく一つ息をつく。思わず下を向いた視線の先には、己の足先。しかも鼻緒の辺りが、血で赤く染まっていた。
そういえばもう何時間も歩きっぱなしだったっけ。そう思い至れば、一気に疲れが押し寄せてきた。
まったく自慢にならないが、体力はない。こんなに何時間も歩いたのだって、実に10年ぶりだ。何より風邪でまだ熱が残っている時に出て来たのが堪えているようだった。
ふいに意識が遠退き、膝をつく。ずっと意識しないようにとしていたのに、実感し始めてしまえば疲労と頭痛に身体の自由が奪われていく。
まだだ。まだ、家についていない。
……倒れるわけにはいかない。
そう強く思うのに、耐えきれない倦怠感に意識を手放してしまう。
ようやく溜まっていた副業が終わったのは、日が昇ってまもなくのこと。本業とは違い、この副業はパソコンと睨めっこが常なので、どうにも目や肩に疲れが溜まる。
じわりと痛む目頭を抑えつつ、ベッドの上に大の字で転がった。
副業はもともとは趣味が興じて始めた程度だったが、これがどうして最近その量が増えつつある。今のところは本業に支障がない状況ではあるが、いずれどうなるのかわからない。そろそろどちらか一本に絞るべきなんだろうなと思いつつ、まだいけそうだとも思ってしまっている。
ま、とりあえず………、寝よう。
そう思った矢先、まさかのインターホン。しかも2度連続ときたもんだ。時計を見れば、6時をようやく過ぎたころ。どこのどいつだと舌打ちしつつ、こんな非常識なことをする知り合いは一人しかいない。
唯一の救いは、うちが隣家と少し離れていることで、この騒音が伝わることがないことだ。
相手が誰か分かった上で、むしろ分かったからこそとても相手をする気にはなれず、掛け布団を頭から被って何も聞かなかったことにする。とっとと寝てしまおう。そう思うのに、またしてもインターホンが鳴った。
1回、2回、3回……、4回目が鳴る頃には、インターホンだけではないものすら聞こえてきた。
「キ——マ——リ——!!」
名を叫ぶかのように呼ばれれば、さすがにもう寝ていられなかった。護は被っていた布団を跳ね飛ばし、玄関先まで向かう。苛立ちをそのままぶつけるかのように解錠し、玄関を開け放った。
その先にいたのは、悪びれもせず片手を上げて「おはよー」と軽々しく挨拶してきた昔馴染み。
「朝っぱらから何の用だ! こちとら徹夜明けっ、帰れ!!」
「まーそう朝からカリカリしなさんな」
「てめえのせいだろ、弘!!」
そう護が怒鳴ってやっても、弘は「ごめん、ごめん〜」とまったく笑顔で対応。反省している様子など微塵もなく、逆に「こいつは昔からこうだ」と顔を顰めるしかない。
朝っぱらからインターホンを無遠慮に鳴らすこの非常識の名前は、新山 弘。護にとってはもう20年来の悪友、もしくは腐れ縁というべき存在だ。
「で、何の用だ」
「届け物だよー」
「届け物?」
「そーそー」
そういって弘は護に背を向け、歩き始めた。その先に弘の愛用しているバイクが見えれば、どうやらそこに届け物らしいものがあるのだろうとは察しはつく。
とはいえ、こんな朝っぱらからわざわざやってくるなんて何かあるに違いない。厄介事などごめんだ。
「いっておくが、捨て犬猫は受け取らん!」
とりあえず想定で弾き出された可能性を潰しておくことにする。実際何年か前に捨て犬を拾ってきて、置いて行った前科が弘にはある。「ずっと一人暮らしで淋しいでしょ?」なんて体のいいことを言い切った弘だが、ただ単に拾うだけ拾って扱いに困ったに他ならない。
里親を見つけるのにどれだけ苦労したことか。子犬だったことがまだ救いだったと思う。
投げかけられた、あからさまに不機嫌さ全快の発言に弘は振り返ってくる。もともとへらついていることの多い弘だが、今回の表情はさらに胡散臭い。
「やだなー、違うよー。もっと、い・い・も・の」
厄介物に違いない。
長年の感で、護はそう直観した。