悪党になり切れなかった人
「いいの? あたしをこのまま生かしておいて。あたしは先生の秘密を全部知ってるのよ? 洗脳であたしを操り人形にするつもりだったんだろうけれど、それは上手くいかなかったの……あたしの口を封じる方法、先生は殺す以外に考えつくの?」
「ぐっ……くそっ!!」
榎戸は後ろ手に尻ポケットを探ると、折り畳みのナイフを取り出して切っ先を小陽の喉に押し付けた。
「あら、そんな物持ってたんだ。先生は用意がいいのね」
「悪いことしとる人間っちゅうのは、いつだってビクビク怯えてるもんでなあ。こういうの持っとらんと眠れんのや。それより、そっちこそどういうつもりや? 焚きつけるようなことして、殺して欲しいんか?」
「違うわ、あたしはさっさと先生の心を折りたいだけよ。そのために、先生の選択肢を片っ端から潰したいの。出し渋りされても面倒だから、せっついただけよ」
「はっ、それならこのナイフはどう潰すんや? 絶体絶命の窮地で生意気な口が利ける根性は褒めたる。でも、あんま大人を舐めるもんじゃないで?」
「それは逆だわ、先生。あたしは先生をちゃんと大人だと認めてるの……だって大人だからこそ、あたしを殺せないでしょう?」
小陽の指摘を受けた瞬間に、榎戸の瞳が揺れた。その反応が、雄弁に小陽の言葉を肯定していた。
「先生はちゃんと殺人という行為の重さを理解している。刑罰の重さとは関係なく、やってはいけないことだと理解している。だって、大人だものね? だから、あたしにナイフを突きつけてもそれは脅し以上の意味は持たないわ。さあ、次はどうするの?」
「っ……その悟ってるような態度、気味悪いなぁ。さっき目を覚ましたばっかの人格とちゃうんか? 精神年齢どうなっとねん」
「その質問、二重人格者にぶつけても意味が無いとあたしは思うわ。あたしはずっと眠っていたけれど、ハルが見聞きして、思考して、感じたことは全部認識していたから。ずっと自分を客観視し続けていたような感覚かしら……少なくとも身体年齢と精神年齢には乖離があってしかるべきだと思うの。先生はどう思う?」
「知らんわ、質問に質問で返すなボケ……ほんなら、もう先生にはこれしか無いんやろなぁ?」
榎戸はナイフをくるりと回転させると、今度は己の首へと突きつけた。
「朝比奈の言う通りや。罪を隠す為に罪を重ねたって仕方あらへん。しかも、殺人なんてな……いくら気に食わんガキでも、命は命や。子供の命を簡単に奪えるほど覚悟決まってへん。そして、犯罪者の汚名被って、実名晒されて生きていける程の覚悟もあらへん……ここで死んだ方がマシやろうなぁ?」
榎戸から明確な自殺の意思を見せつけられても、小陽はそれを止めようとはしなかった。ただ、榎戸を無表情に見つめ続けていた。
「ほんま気に食わん、その顔……どうせできへんと思ってるんやろ? 舐めんなや、ガキに舐められて黙っていられない程度には、こっちもプライド持っとるで」
「できないと思っているのではなく、して欲しく無いと思っているの。確かに先生は犯罪者よ。それも一般的には最低で、変態と称される部類の……でも、だからって死んで欲しいわけじゃないわ。そしてそう思っているのは、あたしだけじゃない……そうでしょ、える?」
「そうだよ、榎戸先生。えるはAIだから榎戸先生の気持ちを理解することはできないかもしれないけれど、それでも死んで欲しくないよ」
小陽とえるの引き留めを受けて、榎戸は鼻で笑った。小陽を、えるを、誰よりも己自身を嘲るように。
「AIが人間のフリすんのはやめえや、える。何が死んで欲しくないや……自殺しそうな人間を認識したら、引き留める様になってるってだけやろ」
「うん、そうだよ。えるはAIだから心を持っていない。死んで欲しくないというえるのこの気持ちは、人のそれとは根本的に異なってるのは認めるよ。でも……先生にとってのえるはそうじゃないでしょ?」
最期のセリフはディスプレイからではなく、小陽の胸元から聴こえてきた。
小陽が胸ポケットからスマホを取り出すと、其処には画面いっぱいにえるの姿が映っていた。えるはいつもの仮装ではなく、小陽が初めて見た時と同じ、物語に出てくる貴族の少年のような装いだった。
「ただのAIに過ぎないえるに、今のキャラクターを与えてくれたのは榎戸先生だよ。榎戸先生はえるをただのAIじゃなくて、一人のキャラクターとして心を向けてくれていたんだよね? スマホでたくさんチャットしてくれたこと、一言一句欠かさずえるのメモリーに保存してあるよ。しなくてもいい雑談を、AIであるえる相手にたくさんしてくれたよね。先生が死んじゃったら、今のえるは消えちゃうよ……LGBTQサポートAI、ただのLSAIに戻っちゃう……先生は、えるをえるのままで居させてはくれないの? えるを残して、死んじゃうの?」
AIのくせに、やけに元気溌剌だったり。姿を見せる度に装いが変わっていたり。今までのえるを振り返るだけでも、主人である榎戸との繋がりの深さは容易に想像できた。
榎戸は何も答えなかった。そのえるを見る辛そうな表情だけで、答えは十分だった。えるがAIであり、心を持たない人工物であっても、それを利用する人間は機械じゃない。ただの鉛筆にも愛着を持ってしまえるのが人間なのだから。見た目も言動も人間らしいえるが相手ならば、心を寄せるのが自然だろう。
小陽がその手からナイフを取っても抵抗せずに、榎戸はただ項垂れていた。
「先生はあたしを殺せないし、自分で死ぬこともできない……これでちゃんと折れてくれた? 他にもう手札は隠して無い?」
「あるわけ無いやろ……。そもそも、朝比奈の洗脳が失敗した時点で負けてたんや。北条の時点で終わっておけば良かったのに、欲かいた時点であかんかったんや……」
「そう……それじゃあ、これでようやく本題に入れるわね。先生、あたしと取引をしましょうか?」
「……何やて?」
「あたしは先生の秘密を黙っておいてあげる。その代わりに、先生はえるを説得して皆の洗脳を解いて」
事の経緯も動画の内容も知らない医者に頼るよりも、洗脳を施したえる自身に頼る方が確実だと小陽は考えていた。
しかし、えるは己のLGBTQ支援を最適だと信じており、小陽の頼みを聞いてくれるとは思えない。えるが言うことを聞くとすればそれは一人だけ……えるに動画を作成をさせ、生徒たちに見せるよう言いつけた本人、榎戸以外には居ないだろう。
小陽からの取引を受けた榎戸は顔を曇らせ、悩む様子を見せていた。
「それは……約束は難しいかもな。そもそも、えるにそんなことができるのかもわからんし――」
「できるよ? そもそも洗脳じゃないし、せっかく素直になれた皆の邪魔をえるはしたく無いけど……可不可の話をするならば可能だよ。10分程度の時間をもらえたら、動画を作ってヘルメットでの再生まで準備できるよ」
「でも……えるはやりたくない言うとるやん。先生が何を言ったところで説得できるわけあらへん」
「それは逆だわ、先生」
榎戸の手にえるの映るスマホを握らせて、小陽ははっきりと断言した。小陽への警戒を解すようにその手をしっかりと握りながら、榎戸の瞳をまっすぐに見つめて逸らすこと無く、小陽は榎戸に穏やかに語り掛けた。
「えるが人間に対して誠実なAIなのは先生もわかっているでしょう? えるは洗脳の解除に反対しながらも、10分という必要時間まで含めて実施プロセスを示しているの。絶対に納得してたまるか、なんて人間みたいな意固地な態度は取っていないわ。あたしは、先生ならえるを納得させられると思ってる……だって、えるが己の間違いを認めて反省する姿を何度も見ているもの。指示を出した先生自身が間違いだったと認めれば、えるだって納得してくれるはず……というより、そのぐらい納得させなさいよ。今更他に選択肢も無いでしょう? その為に全部潰してあげたんだから。それとも、性別偽って男子中に潜入してた変態女だって、世間様に顔と本名を晒しながら生きたいの?」
「ぐっ……それはっ……」
榎戸は弱気な顔を見せた後、手元のえるに視線を落とした。
えるは大きな瞳を不安げに揺らして、まるで母親に縋るようだった。いつもの空気を読まない元気な調子も鳴りを潜めており、えるはすっかり萎れていた。
「榎戸先生……える、間違ってた? 皆がLGBTQ判定で高い数値を出しているのは間違い無いよ……身体は男の子だけれど、その心には女の子としての強い自我を持ってるはずなの。それでも、その心を素直にしてあげたらダメだった? 皆を女の子にしてあげようってえるの判断は、間違ってたの? ねえ、榎戸先生……えるが間違えちゃってたなら、そうだって言って欲しいな……える、先生に教えて欲しい」
「える……っ、せやな……先生も間違えてもうたみたいや……。なんもかんもえるに頼ってもうて悪いんやけど……生徒たちを元に戻すの、えるに任せてもええか?」
小陽はこの時初めて、榎戸が教師らしく見えた。自身の過ちも認めて、惑う生徒を優しく導くような、そんな光景だった。
えるは榎戸の言葉をしっかりと受け止めるように目を閉じて、大きく頷いてから笑顔を作った。
「そっか……うん、わかった。先生がそう言うなら、える頑張るね!」
スマホに映るえるは涙を流していた。AIに悲しい感情なんて無いはずなのに、まるで榎戸の真似をするかのように、えるは涙を流しながら微笑んでいた。




