数年振りのおはよう
「おはようさん、どんな気分や?」
ヘルメットを強引に脱がされて、小陽は目を覚ました。榎戸のにやにやとした笑みが視界に入って、不快な事この上無かった。
動画を見せられていた時間は定かでは無いが、他の生徒たちと同じならば数分程度だったのだろう。動画の内容こそ憶えていないが、小陽の身体は背中まで汗でぐっしょりと濡れており、気持ちの悪い余韻が体中を巡っていた。
小陽は榎戸からの質問に答えることなく、ただ強く睨みつけた。
「おお、こわ。織田とおんなじで反抗的やなあ……ちゃんと女の子にはなれたんか?」
「……当然でしょ。あたしは最初から女の子よ」
「あぁん? なんや口調まで変わってもうて、随分気合入ってるんやなぁ……ほんまは女の子に憧れとったんか? まあええわ、一応素直になったかは確認しとかんとなぁ。朝比奈がしなさそうなこと……北条を思いっきり抓ったりや」
「そんなことをする意味がわからないわ。それに、あたしが命令に従うわけないでしょう?」
「……なんや不安になってきたわ。えるの動画が変に作用してもうたんか? いいか朝比奈、よく聞きや? 別に怪我させるまでやらなくてええねん。軽くでええから、素直に北条を痛めつけてみいや」
「素直に……いいわ、それくらいお安い御用よ」
小陽は椅子から立ち上がると、傍らにずっと寄り添っていた睦美の顔を見た。
「睦美……」
「……?」
睦美の瞳は相変わらず蕩けたままであり、榎戸の言葉も聞いていないようだった。小陽からの暴力に怯える様子も無く、仮に殴ったとしても、何も理解できないまま殴られ続けるのだろう。
睦美を見つめるばかりの小陽に痺れを切らしたのか、再び榎戸が口を開いた。
「やっぱ効きが悪いんとちゃうか? もっかい被せといた方が良さそうやな」
「無粋な真似は止めてよ、先生。久しぶりの幼馴染との再会なのに、邪魔立てなんて大人のすることじゃないわ」
「は? 久しぶり? 自分、何言うてるんや……さすがに頭ぶっ壊れてまうのは想定外やで……。どないしたもんか……とりあえず大人しくしとき。ええか、素直に先生の言うことを聞くんやで?」
榎戸は小陽の頭に手を置くと、指示を強調するようにポンポンと叩いた。小陽はその手を喜ぶでもなく、払い退けるでもなく、ただ不敵に笑んでいた。
「ご心配には及ばないわ。あたしはちゃんと素直に、自分の心に従ってる……ただ、ちょっと角度に悩んでいただけよっ!」
小陽は右手を開くと腰を落とし、右下から左上へとかち上げるように、その掌底で榎戸の顎を殴り抜いた。
「は――かっ!?」
突然の暴力に防御もできず、後方へとよろめく榎戸。小陽は膝を畳んだ状態で榎戸の腹部に足の裏を添えると、今度は力いっぱいに膝を伸ばして蹴り飛ばした。
榎戸はバランスを取れずに後方へと転がり、えるの映るディスプレイがかかる壁に背中から衝突した。
「こらー! 暴力はダメですよ、小陽くん! 今すぐ拘束します!!」
「ごめんなさい、える。でも、あたしはか弱い女の子よ。先生とはいえ、大人の男性に急に頭を触られたら、恐怖を覚えてしかるべきじゃないかしら?」
「んー、それはそうかも。でも、正当防衛だとしてもちょっとやり過ぎだからね! お互い反省して、気を付けてね!」
「はーい。それと、える? あたしの呼び方はちゃん付けでお願いするわ……その方が女の子らしいでしょ?」
「うん、わかったよ小陽ちゃん!」
「ありがと。それにしても、まさか最初に暴力を振るうのがあたしになるとはね。久野絵くんが睦美を蹴りつけてたけれど、あれは睦美を助ける為だし……やっぱり、なんだかんだ男の子って優しいのね。あたしたち女とは大違い……先生もそう思わない?」
倒れ伏す榎戸に視線を合わせるようにしゃがみながら、小陽は小首を傾げて見せた。
榎戸は痛みに呻き、咳き込み、荒れた呼吸を必死に整えながら、えるに向かって吠えた。
「える、見ての通りや! 朝比奈への洗脳は全く足りてへん。さっさとヘルメット被せて、もう一回動画見せて今度こそ素直にしたりや!」
「洗脳じゃないってば! あれは新しい人生を送る皆が素直になれるようにお手伝いする、えるからのプレゼントなの! そもそも、あの動画は榎戸先生の指示で頑張って作ったんだから、洗脳呼ばわりは控えてくださいね!」
「どうでもええ! ええから、さっさと女の子にした生徒たち操って朝比奈を拘束せえや!」
「そう言われても……小陽ちゃんは女の子の自分を素直に認めてるよ? えるはこれ以上動画を見せる必要性は感じないかな?」
「そんなわけっ……っ! それなら、なんで朝比奈に素直って言葉が通じへんねん!!」
「死んだからよ」
小陽はただ冷たく、事実だけを榎戸に伝えた。榎戸と視線を合わせたまま、四つん這いで歩み寄りながら、小陽は淡々と口にした。
「なっ、はぁ? い、いきなり何を言うとんねん……なら、目の前で生きとる朝比奈はなんやっちゅうんや」
「生徒を見守る教師ともあろう者が、もう忘れたの? 朝比奈小陽は二重人格だったじゃないの。あたしが生んだ男の子としての人格は、女の子にされる洗脳に耐え切れなかった。男の子として生まれた事実と、女の子として刷り込まれた自認の矛盾を解消出来なくて、人格は消失してしまったわ。その結果、元の人格であるあたしが表に出てきたの。朝比奈小陽は確かに洗脳を受けたけれども、あたしは洗脳されていない……あの子が身代わりになって、あたしを守ってくれたのよ」
狼狽え動けない榎戸の眼前まで迫ると、小陽はその揺れる瞳を覗き込んだ。無感情に、無表情に、ただ目の前の榎戸を見つめた。
「そういえば、お礼を言ってなかったわ……無理矢理起こしてくれてどうもありがとう、先生。おかげで、最悪の気分だわ……この人殺し」
「っ……な、何を馬鹿なっ。これは殺人とちゃう……全く別の話や!」
「そう? まあ、別に他人がどう思うと構わないけれど。どちらにせよ、先生はこれから人殺しにならないといけないんじゃないの?」
「は? 何言うとるんや……そないなこと、するわけが――っ!」
話している途中で榎戸は気付いたようだった。自身の社会的な死を避ける為には、目の前の小陽が障害になるということに。




