それはこの世界にありふれた願望/苦悩
睦美が浴場へと入ってきたのは小陽が身体を洗い終えた後、お湯に浸かってから5分程度経った頃だった。
扉の開く音に反応して小陽が視線を向けると、浴用タオルを縦に広げて身体の前面を隠した睦美が立っていた。睦美は小陽の視線に気づくとビクっと震え、身体を隠すようにしゃがみこんでしまう。それは、同性に身体を見られた反応では無かった。
「ごめん……そうだよね……今の睦美は女の子だもんね……。ほんとごめん……」
「う、ううん、ハル君は悪くないかな……ボクが勝手に意識しちゃってるだけかなってっ……ほっ、ほら、見られても全然平気……かなっ?」
睦美は生まれたての小鹿のような足で立ち上がると、震える手で身体を隠すタオルを取り去った。
浴槽から入口までは距離があり、身体の細部は鮮明には見えない。それでも、睦美の顔が耳まで真っ赤で、明らかに無理をしているのがわかってしまった。
必死で健気な睦美の姿を直視できず、小陽は顔を背けた。背中に睦美の乾いた笑い声がぶつかって、やがて気まずい空気を誤魔化すようにシャワーの音が響き始めた。
睦美が髪を洗う音が聴こえる。石鹸を泡立てる音が聴こえる。シャワーが身体に当たる音が聴こえる。やがて水音が止むと、小陽の背後までぺたぺたと歩いて来る音が聴こえた。
すぐ近くまで来ているのに、睦美は何も言わなかった。息を呑んだり、詰まらせたり、声になり損ねた音を喉で鳴らしたり。小陽との入浴を躊躇っていることは見るまでも無くわかった。
小陽は振り向かずに、浴槽に背を預けていた姿勢から90度回転して俯いた。
「そっちは見ないようにするから……それとも、やっぱり僕は上がった方がいい?」
「そっ、そんなことないかな……おっ、お邪魔しよう、かなっ……」
背後の少し離れた位置から、ちゃぷりと水音が聴こえた。背中に波がぶつかって、ほんの少しだけ増した水位が、睦美の存在を教えてくれた。
『…………』
姿を見ていなくても、忙しなく生み出される波と水音で睦美の様子は伝わってきた。その息遣いで、何度も小陽に話しかけようとしている意思が伝わってきた。
(どうして、こうなっちゃったんだろう……)
一番気の許せる友達のはずだった。気を遣わなくたって通じ合える間柄のはずだった。
ただ、幼馴染と一緒にお風呂に入りたかっただけなのに。睦美との間に出来てしまった、性別という越えられない壁を、小陽はどうしようもなく実感してしまっていた。
「ごめん、やっぱり僕もう出るね」
小陽はじくりとした胸の痛みに耐えられず、立ち上がって浴槽の外へと足を踏み出した。しかし左手を睦美の右手に掴まれ――
「まっ、待ってハルく……ん……」
――小陽と睦美は正面から向かい合った……一糸纏わぬ姿のままで。
「睦美……?」
上から見下ろす小陽からは、睦美の表情が良く分かった。真っ赤に染まった耳も。呆けたように開いた口も。そして、小陽の顔を見ていた視線が段々と下がっていく様子も。
そこは見せびらかす必要は無いけれど、隠す必要も無い、そんな場所。少なくともふたりの間ではそのはずだったから、小陽も特に隠してはいなかった。
見慣れていると豪語していたそれを、睦美はしばらく見ていたが、やがてその瞳から大粒の涙を零し始めた。
「えっ!? ど、どうしたの? 睦美、大丈夫?」
異常な反応を示す睦美を見て咄嗟に近づいた小陽を、睦美は全身で捕まえた。じゃぶんと大きな水飛沫と共に小陽の身体は浴槽へと戻され、その胸に睦美が縋りつく。
「むっ、睦美……?」
「どうしようっ……どうしよう、ハル君……ボク、ボク……本当に女の子になっちゃったんだ……!」
その言葉の意味を小陽はすぐには理解できなかった。ヘルメットによる洗脳が睦美の精神にどのような影響を与えているかなんて、外からではわかるわけが無い……わかるわけが無いと、決めつけてしまっていた。
それ故に小陽は気づけなかったし、わかろうともしなかった。睦美が涙をボロボロと流し、嗚咽を漏らすまで。
「ハル君は、友達だったのにっ……! ずっと、ずっとずっとずっと、友達だったはずなのにっ……ボク、好きになっちゃったぁっ! 自分が女の子だってわかった途端にっ……ハル君のこと、好きになっちゃったよぉっ!」
それは、告白と呼ぶには悲哀に満ち過ぎていた。甘酸っぱさなんて欠片も無い。取り返しのつかない過ちを吐き出すように、睦美は小陽に想いを告げていた。
「おっ、落ち着いて睦美。それはっ……きっと、自然なことだよ。だって、僕と睦美はずっと一緒で、一番仲が良いから。でも、僕たちは男の子同士だからそういう感情とはずっと無縁だっただけで……急に女の子にされちゃったら、睦美がそうなっちゃうのも無理無いよ」
最初から異性だったのなら、ふたりの距離はこんなに近くはならなかった。同じ男の子だったから、ふたりはある意味恋仲よりも親密な関係を築けた。ずっと友達だと思っていた同性への認識を一瞬で異性に変えられてしまったら、混乱して当然だろう。
小陽は睦美をなだめようと背中をさすりながら声をかけたが、睦美の感情はエスカレートしていくばかりで、溢れて止まらなかった。
「違うっ、違うのっ! ボクは、ハル君のことを好きになっちゃいけないのっ……! 絶対にそうはならないと思ってた……それなのに、女の子になったらっ……好きになっちゃったぁ……。どうしよぉっ……だめだったのにっ……それだけはダメだったのにっ……ボクは、ずっと、このままっ……この想いを、抱えていくなんて……。どうしよぉ、ハル君……そんなの無理だよぉ……嫌だよぉ……っ」
涙をぼたぼたと湯舟へと落とし、わんわんと泣き声を挙げて、小陽が見たことも無い程に激しく、睦美は泣き出してしまった。
「待ってよ睦美、どうしてダメなの? 僕は、睦美に好かれても気持ち悪いなんて思わないよ。だから安心して……僕は、睦美を嫌ったり遠ざけたり、避けたりもしないから……ね?」
「そうじゃない……そうじゃないんだよ、ハル君……だってボク、男の子なんだもん……!」
「え……睦美、何を……?」
小陽は睦美の洗脳が解けたのかと思ったが、そうではなかった。そんな都合の良いことが起きるはずも無く、現実はもっとずっと残酷だった。
「ボクは女の子なのに、身体は男の子だからっ……赤ちゃん作れないからっ……っ! だから、ハル君を好きになっちゃいけなかったのにっ……ハル君との赤ちゃんが欲しいだなんて、絶対に思ってもいけなかったのにっ……欲しくなっちゃったっ、欲しくなっちゃったよぉっ……!」
睦美の切望をぶつけられた小陽の瞳から、涙が零れ落ちた。その一粒をきっかけに、堰を切ったように溢れ出した。
それは、睦美だけの特別な悩みでは無い。生殖機能に異常をきたしてしまった人間も、同性愛者も、少なくない人が抱える悩みである……しかし――
(でも、睦美はっ……そんな悩みとは、無縁だったはずなのにっ。少なくとも今はっ……僕相手には、苦しまなくても良かったはずなのにっ……)
えるは間違っている。この合宿は間違っている。勝手に性別を押し付けて、抱かなくても良かったはずの悩みで苦しめるなんて、正しい筈がない。
洗脳で強制的に歪められた性自認は、友人だった人を想い人として塗りつぶした。好きな人の赤ちゃんが欲しいと嘆く睦美の姿は、痛々しい程に女の子だった。
「欲しいよぉっ……ボク、赤ちゃんできないのにっ……ハル君の赤ちゃんがほしぃ……欲しくてっ……ごめんっ、ごめんねぇっ……!」
小陽には何も言えなかった。否定も、肯定も、慰めも、励ましも何も言えなくて――
――ただ、睦美を抱きしめることしかできなかった。




