ふたりきり、そして、ふたりきり
母への寂寥の想いと幼い後悔を吐き出して、弥生は話を締めた。
母から女の子として洗脳された過去を、弥生は今でも過去として割り切れていない。最愛の親からかけられた呪いは、今も弥生の身を蝕んでいた。
「だから、自分は女の子だってのか?」
「少なくとも、自信を持って男の子だとは言えないですね。女の子だとは思っていませんが、そもそも心の性別の定義なんて曖昧で私にはよくわかりませんから。いつまでも母を忘れられない私では、自身を男の子だと信じている人に真っ向から立ち向かえないというだけです。皆と比べて相対的に女の子、というのが適切な表現だと思います」
弥生は腰を上げると、浴槽の縁に腰かけて足だけを湯舟につけた。
「すみません、長い話に付き合わせてしまって。のぼせてしまいますよね」
手うちわで自らの顔を扇ぐ弥生。それに付き合うように、久野絵も浴槽の縁に腰かけた。
「……オレは、お前の考えなんて知ったこっちゃねえ。母親も知らねえし、お前の性別なんて以ての外だ。興味もねえし、知りたいとも思わねえし、はっきりもさせたくねえ。だけどな……オレは男が嫌いなんだ」
その告白はあまりにも唐突で、意味不明で、ぶっきらぼうで、不器用だった。
久野絵の言葉の意図がわからず、弥生は首を傾げた。
「何の話ですか? すみません、話が理解できなくて……織田君が男性嫌いなことと、私の性別に何の関係が……?」
「別に……ただ、如月のことも嫌いってだけだ。他の男どもと同じようにな」
「……もしかしてそれ、励ましてくれているのですか? 織田君にとっては私も立派な男の子だと言ってくれているつもりなのですか?」
「っ……うるせえ、死ね!」
久野絵の遠まわし過ぎる優しさを察した弥生は吹き出すように笑い、久野絵は舌打ちをして顔を逸らした。
「笑うんじゃねえ! オレだって親には苦労させられてる身なんだよ! だから、親の事情が理由でてめえが女の子になっちまったら、オレまで同じ理由で女にされちまうかもしれねえだろうが!! それが困るってだけの話だ……何かおかしいかよ!?」
「いいえ……いいえ、そうですね申し訳ありません。そうですか、私が女の子になってしまうと織田君も道連れになってしまいますか……それは困りましたね?」
「ああ、そうだよ! 何か文句あんのかよ?」
「ありませんよ。ただ、織田君のご期待に添うことができるかはわかりません。先ほども言ったように私に自信はありませんし、特に朝比奈君には敵う気がしません。私が織田君の男の子まで背負うなんて、荷が勝ち過ぎだとは思います」
「別に、そこまでは求めてねえ……ただ、自分から認めんなって言ってんだ。女の子になるにしても、せめて抵抗する意思は見せろ……オレが言いたいのはそれだけだよ」
「それくらいなら、善処するくらいは約束できそうですね」
そうして、久野絵と弥生は秘密の約束を交わし合った。互いが今どんな表情を浮かべているのかも知らないままに。
『……』
どちらが喋り出すことも無く、どちらが立ち去ることも無く。ふたりは湯舟に足だけを浸し続けていた。
弥生は手持ち無沙汰を紛らわせる子供のように湯舟の中で脚を泳がせ、久野絵は弥生の起こす波を目で追いかける。
何をするでもなく、何を話すでもなく。ただ同じ空間に居たいだけとでも言いたげなふたり……その静寂も長くは続かなかった。
「上級生のおふたりがお風呂で逢引きだなんて、なんだか背徳的ですね……よろしければ、わたくしも混ざてはいただけませんか?」
弥生と久野絵のふたりきりだった浴場に、イヨが入ってきた。普段は後ろで纏めている髪をほどき、小さな浴用タオルを縦に広げて身体の前面を覆い、よく見なければ女の子と間違えてしまいそうな出で立ちだった。
「藤原……てめえ、何だその恰好……女子かよ、キモイな」
率直な暴言を吐く久野絵に対し、イヨはわざとらしい程にしおれて見せた。
「久野絵さんはなんて酷いことを仰られるのでしょうか。裸体を見られることへの羞恥心に性別は関係ありませんのに、言うに事欠いて気持ち悪いだなんて……わたくし、傷ついてしまいます。ねえ、ヤヨイさん? クノエさんのわたくしへの態度、酷いとお思いになりませんか?」
「そうですね。心の中でどう思うかは個人の自由ですが、乱暴な言い方をするのは良く無いと思いますよ織田君」
弥生が同調すると、イヨは満足したように微笑んでから洗い場へと向かった……久野絵に対し、挑発的な流し目を向けながら。
「ちっ……うぜえな……」
久野絵はじゃぶじゃぶと音を立てながら立ち上がると、シャワーを浴びるイヨの後ろを通り過ぎて脱衣所へと向かった。その背に対して視線を向けることもなく、イヨは久野絵に声をかけた。
「もう出てしまわれるのですか? せっかくクノエさんとじっくりお話ができると思っていたのですが、残念です。クノエさんが居なくなると……わたくしとヤヨイさんのふたりきりになってしまいますね?」
シャンプーを右手に取り、その白くとろとろとした液体を左手へと垂らしながら、イヨは背中越しに久野絵に微笑みかけていた。
「……勝手にしてろ」
乱雑にシャワーを浴びてから、久野絵は出て行ってしまった。
シャンプーを終えて、全身を清め終わったイヨは浴槽に腰かけたままの弥生の元へと向かった。
「わたくしを待っていてくださるなんて、やはりヤヨイさんはお優しいのですね」
「正直に言うとのぼせぎみではあるのですが、藤原君は私に用があるのでしょう? 私にはお話を聞くくらいしかできませんが、少しで良ければ付き合いますよ」
「そう言っていただけて、とても嬉しいです……では、お隣に失礼いたしますね?」
久野絵の座っていた位置の人一人分隣に、イヨは腰かけた。
濡れた肌と肌が微かに触れ合う距離。弥生の火照った体温がイヨの身体へと直接伝わってくる距離。近すぎて焦点が合わず、ぼやけてしまうような距離――
――それは、肉食獣が獲物に牙を立てて捕食する距離でもあった。
「実はヤヨイさんにしかできないお願いがあるんです。わたくしにはヤヨイさんしか頼れる人が居なくて……どうか、聞いていただけますか?」
肩に頭を預けながら、イヨは上目遣いで弥生の顔を覗き込んだ……弥生の瞳に写る己の瞳を、見つめ返すかのように。




