女の子にしてあげる
「それでは、無事に女の子になる準備ができた睦美君に、もう1つのプレゼントを贈るね。榎戸先生、渡してあげて!」
「……これ、ヘルメットかな? えと……ありがとう、ございます……?」
それはバイク乗りが被るようなフルフェイスのヘルメットに見えたが、よく見ると視界を確保する為の隙間が空いていなかった。そのヘルメットを被ってしまうと何も見えず、バイクに乗るどころか真っすぐ歩くのも難しいだろう。
意味のわからない贈り物に睦美だけでなく周囲の生徒も困惑する中、えるの言葉は更なる困惑をもたらした。
「それはね、素直になれる教材動画を再生するための専用機器だよ。これから女の子として生きていく人の為にえるが用意したんだ。被れば視界いっぱいに映像が広がって、360度から音を流せる特注品のAV機器なの! すごいでしょ? 被れば自動で動画が再生されるから、ご視聴のほどお願いいたしますね、睦美くん!」
「動画……? これを被るって……何でそんなことしないといけないのかな……? ちょっと変かなって……こんな物を作らなくても、動画なんて配布されたスマホとか、今えるが映ってるディスプレイで流せば良くないかな……?」
「だって、特別な動画なんだもん! えるが皆の為にたくさん、たーーーーっっくさん計算して、演算して、生成したんだよ? だから、今すぐにそれを被って、見て欲しいな?」
「っ……いっ、嫌、かな……」
睦美は手に持ったそれに対し、明らかな嫌悪感を抱いていた。人柱もセーラー服も受け入れていた睦美が、それを被ることだけは明確に拒絶していた。
その反応は睦美だけではなかった。小陽自身もそのAV機器らしい真っ黒なヘルメットからは不穏な気配を感じ取っており、周囲の生徒たちも警戒心を露わにしていた。
そんな小陽たちからの不信を検知しているのかいないのか。えるは相変わらず無邪気な笑顔を浮かべたままで――
「もう、睦美くんってばわがまま言っちゃめっ、だぞ。皆は自分の心に素直にならないといけないのに……だから、ねえ睦美くん……『それを被って?』」
――睦美を見上げるようにしながら、そうおねだりした。
「えっ……あっ、えっ……? な、なんで? えっ!?」
それはどんな心変わりだったのだろうか。あんなにも嫌がっていた睦美は、えるからおねだりされるや否やヘルメットを自ら被り始めた。小声で何やら呟きながら、両の指で入口をしっかり持って頭にあてがって、睦美の頭が真っ黒な球体に吸い込まれるその刹那――
「ハル君――」
――小陽は睦美と確かに目が合って、名前を呼ばれたような気がした。
9つの机によって象られた欠けた円の中央にて、フルフェイスのヘルメットを被ったセーラー服姿の睦美が立ち尽くしている。既にえる謹製の教材動画の再生が始まっているのか、睦美は棒立ちのまま動く気配が無かった。
傍から見ればどこかシュールな光景の中、小陽の視界には最後の睦美の瞳がずっと残り続けていた。ヘルメットを被り切るその刹那、小陽を見た睦美の目は見開かれていて、揺れていて、潤んでいて。まるで何かに驚き動揺しながらも、小陽に助けを求めているかのようだったから。
しかしそれは小陽の勘違いだ。睦美は自らヘルメットを被る従順な態度を見せていたのに、本当は助けを求めていたなんて、それでは矛盾してしまう。睦美の身体と心が乖離でもしていないと説明がつかない。例えば、睦美の意思とは無関係に、その身体が操られでもしていない限りは――
(まさか、そんなの……ありえるはずが――)
――小陽の脳裏に過ったのは、えるがおねだりをした姿。頭の中で何かは弾けたような感覚と共に、何かを掴みかけたその瞬間、睦美の絶叫によって思考は遮られた。
「むっ、睦美?」
教室に睦美のくぐもった叫び声が響き渡る。それは天敵を前にして威嚇する小動物のような、母親に助けを求める赤ん坊のような、とにかく必死さがありありと伝わってくる叫び声であり、生徒たちは突然のことに呆気に取られていた……ただ一人、小陽を除いて。
「睦美! 睦美、どうしたの!? 大丈夫なの? ねえ、睦美!」
小陽は机を飛び越えて睦美へと駆け寄ると、その両肩を掴んで揺すった。しかし睦美はヘルメット越しに頭を抱えて苦しむように叫ぶばかりであり、小陽が近くに居ることにも気づいていない様子だった。
「ちがっ、う……違う、違う違うっ! ボクの願いはそんなことじゃないっ……ボクは、そんなこと望んでないよっ……ボクがっ、ボクが想ったことは、そんなっ……止めてっ、止めてぇっ! お願いだからっ、もう止めてぇっ!」
ヘルメットから微かに漏れ出る教材動画と思しき音声に混じって、睦美の懇願が小陽の耳に届いた。睦美の身に何が起きているのかは定かでは無いが、ヘルメットが原因なのは明らかだった。
「睦美! 睦美ってば! もう止めよう! ヘルメットを脱いで!! 睦美、手を退けてよ!!」
強引にヘルメットを脱がせようとする小陽の手は、他ならない睦美の手によって阻まれていた。錯乱しているせいか、睦美は自身の両腕でヘルメットをがっちりと抑えてしまっていた。
「手伝います。私が北条君の腕を抑えますので、朝比奈君はヘルメットを脱がせてください」
「俺も片腕を抑える。どう考えても普通じゃないだろ、これ」
助力に来た弥生と桃莉が睦美の両腕を抑えることによって、ようやく小陽が睦美の頭からヘルメットを外せるようになる……はずだった。
「おいっ、どうなってんだよ、この力はっ……俺も力自慢ってわけじゃないが、こいつは片腕だろっ?」
「くっ……これは、難しいですねっ……あまり力を入れすぎて怪我をさせるわけにもいきませんしっ……」
小陽の知っている睦美は、その線の細い見た目通りの腕力しかない。そのはずなのに、三年生2人がかりでも睦美の腕力に対抗できていなかった。
それでも人数を増やせば睦美の腕を抑えられるはず、そう思い振り返った小陽の視界に走り込んでくる久野絵の姿が映った。
「どけお前ら!!」
「久野絵くん!? やっ、止めっ――」
小陽が止めるのも間に合わず、久野絵は足を振り上げるとつま先をめり込ませるように睦美のお腹を蹴り上げた。
「織田! お前、何やってんだ!?」
「緊急事態だろうがっ……こうでもすれば、蹲って腹抑えんだろ。その内に外してやれば……ちっ、何だっつうんだよ、これは!!」
久野絵の言う通り、腹を蹴られれば腕で抑えるのが正常な反応だろう。しかし、今の睦美は明らかに異常だった。
ヘルメットから漏れる苦悶の声に混じる荒い息は明らかに痛みを訴えていた。その身を捩る仕草は明らかに蹴られたことを嫌がっていた。それなのに両腕だけは、溶接でもされたかのようにヘルメットに張り付いていた。
「関係ねえっ……耐えられなくなるか気絶するまで続ければいいだけの話だ!」
「やっ、止めて! もう睦美を蹴らないで! 痛いことはしないで上げて!」
「だったらどうするんだ!? このまま見てるわけにもいかねえだろ!」
「っ……でっ、でもっ……っ……える……えるはどこ!? ねえ、えるっどこに行ったの!? もう止めて上げてよ! 睦美は嫌がってる! 今すぐに再生を止めてよ!」
いつからだろうか。えるの姿はディスプレイから消えていた。スマホを取り出して呼びかけて見ても、液晶には『不在』と書かれた看板が映っているだけだった。
無理矢理にヘルメットを外せないのであれば、正規の方法で止めるしかない。そしてその方法を握っているであろう人物は、えるを除けば一人しかいない。
生徒たちが慌てふためいている中、榎戸はやはりスマホを眺めていた。涼し気な顔で、一人だけ別世界にでも居るかのようだった。
「先生、睦美からヘルメットを外してあげてください! こんなの絶対おかしいです!!」
小陽の必死の呼びかけを受けた榎戸は、視線をスマホに落としたまま話し始めた。
「何もおかしなことなんてあらへんから、黙って見守っとき。えるの作った動画はちょっとショッキングでな、北条はびっくりしてるだけや」
「そんなわけないじゃないですか! このままじゃ、睦美が壊れちゃいますよ!!」
「何を根拠に壊れるなんて言うとるんや……むしろ、その逆やで。こないな中途半端な所で止めたら、それこそどうなるかわからへん……それでもええんか?」
「そんなっ! そんなのおかしいじゃないですか! 普通じゃないですっ……睦美に何を見せてるって言うんですか!?」
「言うてるやん、えるの作った教材動画や。これから女の子として生きていく北条の為のな。ああそうや、朝比奈は北条と仲良かったんやったなぁ……ほんなら、決めてもええで?」
「え……?」
それは一滴の毒だった。睦美を救いたいという思いでいっぱいだった小陽の心に、榎戸は責任という一滴の劇毒を垂らした。
「このまま最後まで北条に動画見せるか……それとも中途半端な所で無理矢理停止するか。仮にそれで北条がおかしなってもうても、友達の朝比奈のせいだったら北条も許してくれるやろ。ほな、朝比奈……選びや?」
「そっ、そんなっ……そんなのっ……っ」
先ほどまでは必死に願っていた。誰でもいいから、とにかく動画の再生を止めて欲しいと望んでいた。
しかし、もしもそのせいで――小陽が動画を止めたせいで睦美が取り返しのつかないことになってしまったら――そう考えると、喉がカラカラに乾いて張り付いてしまって、震わせることもできなくなってしまった。
「でっ、でもっ……睦美っ……」
睦美は今も呻いている。自ら抑えつけているヘルメットのせいで苦しんでいる。それを止めてあげたい、今すぐにでも助けてあげたい――でも――声が出ない。
溺れているかのように息が苦しい。血流を止められてしまったかのように視界が暗い。何も考えられず、何も感じられず、鼓動がどんどんと弱まって、息をたくさん吸っているのに酸素だけが取り込めていないかのようで……指先から徐々に熱が奪われて、心臓まで凍ってしまったかのようだった。
(あぁ、もう……どうすればいいのか……わかんないよ……)
気を失うように闇に堕ちていく小陽の意識。瞼が勝手に落ちようとしたその時、繋ぎとめてくれたのは弥生の手だった。
「止めましょう、朝比奈くん」
「で、でもっ……もしかしたらっ、止めたせいでっ、ボクのせいで睦美がっ――」
「俺も如月に同意だ、朝比奈。放っとく方が不味い気がする」
「そもそも、オレが蹴った時点で邪魔しちまってるわけだしな。最初から大人しく見てたならまだしも、この状況で中途半端とか気にする必要ねえだろ」
それは三年生たちだけではなく、この場に居る生徒たち全員の総意だった。小陽の心に垂らされた責任という毒を、皆が薄めてくれた。
恐怖が完全に消え去ったわけでは無いけれども、止めずに後悔するよりも止めて後悔した方がいい。もしも睦美の心が壊れてしまったら、一生をかけて償おう。
「先生、動画の再生を止めて――」
「盛り上がってるところ水差すようで悪いけど、もう終わったみたいやで?」
小陽の決意は、ほんの少しだけ遅すぎた。あれほど外すのを拒んでいたヘルメットを、睦美は自らの腕で外していた。汗で頬や額に張り付いた髪を鬱陶しそうに首を振って、どこかぼんやりとした瞳で立ち尽くしていた。




