38歳で終の棲家
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「え、妊娠? 結婚? カナダ移住!?」
目の前の千尋は、たいして嬉しくもなさそうな顔をしてわたしに報告した。
老後のハッピーライフを提案しようと自宅に呼んだものの、その提案がわたしの口から出ることは……なさそう。
「夏芽には一番に報告しておこうと思って」
「あ、いや、その……お、おめでとう……」
びっくりしすぎた。わたしは、千尋が持ってきた高級そうな箱につめられたお菓子をただ口に運ぶ。味がわからない。黒っぽい色だけど、チョコ味なのか黒糖味なのかわからない、なにがしかの焼き菓子。
ちらりと千尋のお腹に目線をやるけど、大きくなった感じはしない。
いつも通り、タイトな半袖Tシャツに足の細さが際立つスキニージーンズというラフなスタイルで、我が家の縁側に腰かけている。
「びっくりするよね、私もしてる」
他人事のように、千尋が笑う。
わたしの家には、縁側がある。縁側でお茶をしたい、という夢を叶えるために縁側のある家を選んだ。老後もこの縁側で、千尋とのんびりおしゃべりしたいと思ったからなんだけど……。
「び、びっくりしたよ! 結婚とか向いてないって言って、ここ10年くらいは彼氏もいなかったのに」
あー、まぁねと青い空を見上げながら、グラスに注がれた麦茶を口にする。いつもコーヒーしか飲まないのに麦茶をリクエストするなんて珍しいとは思ったけど。まさか妊娠とは。
残暑のせいか、驚いたからか……首から背中にかけてぐっしょりと汗が流れていくのを感じた。
「やっぱ子ども欲しいなって思って今年の頭くらいから婚活したら、あれよあれよと。相手は海外勤務ありのせいででなかなか結婚できなかったタイプなんだけど、私は海外に住んでみたかったからちょうどいいと思って」
「へ、へぇ~」
千尋とちゃんと会うのは半年ぶりくらいだった。わたしも家を買ったりリフォームしたりして忙しかったけど、まさかその間に……。たしかに、海外に住んでみたいということは度々聞いていた。でもまさか実行するなんて思わなかった。
「私は38歳で相手は48歳だから不安は多いけど、まぁなんとかするしかないでしょ」
「ほ、ほぅ~」
相手はアラフィフか……。ちょっとホッとしてしまう自分にげんなりする。
「ところで夏芽、なんか話したいことあるって言ってたけど、なに?」
千尋が、大きな目でわたしを見つめる。圧が強めの美人だった千尋と、地味なわたしが、高校を卒業してから20年も仲良くやっているのが不思議だなって思う。これだけ美人なら、婚活すればあっという間に結婚できるか……そうか……。
「あ、いや。わたしからは、家買ったよーっていう報告を……。す、すごいでしょ! けっこういいでしょ?」
「ね! 私もびっくりした! 夏芽もやるじゃん」
「節約頑張ったよー。もう、余生を考えて行動しないといけないじゃん? 終の棲家ってやつ」
余生、という言葉に千尋は少し首をかしげる。
「38歳で終の棲家って」
また変なことを言い出して……と言わんばかりの様子。そして、あ……と表情を変えた。
「まさか、夏芽どっか悪いとか……?」
本気で心配している表情。慌てて否定した。
「健康だよ! この前の健康診断も何も問題なかったし。でもさ……」
十数年前のことを思い出す。記憶は薄れてきているけれど、生涯でもっともイヤな思い出。
「わたしのお母さん、50歳で亡くなったんだけどさ。もしわたしがお母さんと同じだけ生きたとしたら、残りたったの12年しかないって気づいちゃってさ」
母の死は、わたしの人生を大きく変えた。
健康診断を受けず、身体の不調があっても「家族の面倒をみなくちゃ」って見て見ぬふりをしていたせいで、病気が見つかったときにはもう手遅れだった。
思い出したくない。心がつぶれないよう、わたしはリフォームした清潔で明るい部屋の中を見回す。
古い日本家屋で、まさかの縁側がある家。
縁側の床はまだ使えそうだったから手を入れず、水回り・キッチン・リビングをリフォームし、玄関ドアは防犯性能が高いものに変えた。わたしだけの小さなお城。
「まあわからなくはないけど。でも、お父さんはまだ元気なんでしょ?」
「うん、元気」
年老いて、小さくなったお父さんの姿を思い出す。今はひとり、実家で暮らしている。定年退職後はシルバー雇用で仕事ができるくらいには元気。でもいろいろ心配だから、実家のすぐ近くに家を購入した。
「お父さんと同じだけ生きるとしたら、まだ30年以上あるじゃない。あんま生き急がない方がいいよー」
「それはそうだけど……」
「あんま早く死ぬとか言わないで。私が悲しいから」
「……ごめん。でも後悔したくなくて。だってさ、明日どうなるかもわからないのは誰でも一緒だし」
しばし千尋が口をつぐむ。そして、ふぅと一息ついた。
「私は死なないって信じて生きてるけど……でも、夏芽には夏芽の考えがあるもんね」
無理やり納得してくれたような表情。
昔の千尋だったら「はぁ? わかんないよその考え! 私、これから子ども産むんだけど!」ってはっきり言っていた。でも、社会人になって、妊娠して、これから違う国に引っ越す千尋からはもう、心の奥底の言葉が聞こえなくなってきた。
じゃあ、わたしの表情は、千尋にどう見えているんだろう。出会った頃の、高校生のままの幼いわたしなのかな。
自分だけが、子どものまま死んでいくのかもしれない。でもそれも、運命だと思って受け入れようとしている。唯一、自分の城を持つという夢だけは叶えようとお金は貯めていたけれど。
「もう家は買っちゃったから、他にやりたいことないんだよね、あーヒマな余生だなー!」
わたしは、あえて明るい声で言った。人生の残りの時間は意識するけれど、千尋の言うとおり30年40年生きるかもしれないのは事実だし。そうなると、人生で一番の夢をそうそうに叶えてしまったことは、やはり生き急いでいたとなっちゃうな……。
老後、千尋と仲良く暮らすという計画は口に出す前に頓挫してしまったわけだし。
大きく予定が狂ってしまったなぁ。思った通りにならないのが人生だとは思っていたけれど、まだまだわたしの見通しは甘かった。
「ヒマなら、友だちでも作れば?」
千尋は、いいこと思いついた、と言わんばかりのドヤ顔をしている。
「友だちか……たしかに」
つい5分前のわたしだったら「友だちなんていらない。千尋がいるからいい!」って言っていたな。一寸先は闇すぎる。
「夏芽って私しか友だちいないけどさ。やっぱり、身近に頼れる人がいたほうがいいよ。私、日本に戻るかどうかわからないし」
千尋の言葉に、わたしは喉をつまらせる。会話を繋げるため、どうにか言葉を絞り出す。
「もう、日本に帰ってこないの?」
なんだか、泣きそう。想定してなかった現実が次々押し寄せてきて、暑くて汗をかいているはずなのに、体中の血が冷え切ったみたいに感じる。
「それは、わからないけど……カナダの空気が合っていたら帰らないかもしれない。ビデオ通話はできるけど、画面越しじゃ何かあっても助けてあげられないよ」
はっきりものを言う千尋にとって、日本よりカナダのほうが過ごしやすいかもしれない、というのは理解できる。わたしはカナダどころか海外旅行すらしたことないから、あくまでイメージ上のカナダ像だけど。
千尋がいれば寂しくないなんて、甘い考えだった。千尋には千尋の世界があって、そこにはわたし以外の人や国があったんだ。
知らなかったよ……。
でも、両親はどうするの? 千尋は一人っ子なんだよ? わたしたちの親、もういい年だよ? 放っておいていいの? あんなに仲の良い親子だったのに。孫にも頻繁に合わせてあげられないよ?
嫌味が口から出そうになる。わたしは、実家の近くに家を買って、いつでも会えるようにしているのにズルいじゃないか。
……違う。千尋と千尋の両親の人生に口出すことじゃない。
わたしは、ぐっとお腹に力を入れて、平静を装う。
「友だち作ろうかなぁ。余生といえば、縁側の茶飲み友だちだもんね」
「お、いいじゃん、茶飲み友だち!」
ほんとうは、千尋にその茶飲み友だちになってほしかったんだけど……。
「ね、他の部屋も見せてよ」
「いいよー」
リフォームしたキッチンとお風呂、そしてわたしの部屋を見せる。
「まだ家具を揃えてないんだけどね。お金が尽きたから、少しずつ買おうと思って」
「まだまだ楽しみがあるね」
しゃべりながら、がらんとした空き部屋の扉を開いてしまう。しまった、ここは千尋用にあけてある部屋だった。
「あれ、この部屋には何もないの?」
今は、まだ終わっていない引っ越し用の段ボールがいくつかあるだけ。何か言い訳を考えなくては……。
「そうなの。特に使い道もなくて。あ、日本に帰ってきたら、旅館代わりにここに泊っていいよ」
「え、いいの? 助かるー! カナダに行くのは出産して落ち着いてからを予定しているから、それまではしょっちゅう来ちゃおうかな」
笑顔で振り返る千尋の髪の毛からは、高校時代から変わらないシャンプーの匂いがした。笑顔も匂いもあのときのままで、少し心の重さがとれる。と同時に「親はどうするの」という嫌味な言葉を口にしなくてよかったと心底安堵する。
一度口にしてしまえば、もう取り返しはつかない。
「いつでも来て。日本にいるときも、カナダに行ってからも」
カナダに行ってからも。その言葉でまた、心がずっしり重くなる。
家を買うという夢を叶えたことに対する満足感が身体を満たしていたけれど……今は、枯渇感が身体に充満している。
穏やかに余生を謳歌するのって、実は難しいのかもしれない。




