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縁カウンセラー朝日奈恋九郎〜愛と運命を導くタロットカード〜《不生不滅の蓮華姫スピンオフ》  作者: 慈孝
《塔(The Tower)/XVI》の章 藤原沙耶

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太陽の予感(前編)「風が恋に変わる瞬間」

 朝の鏡は、昨日より少しだけ輪郭がはっきりしていた。

 化粧は薄く、まつ毛をひと撫で。

 髪は毛先だけアイロンで整え、分け目を1センチだけずらす。

 顔色が変わるほどではないのに、表情の解像度が上がる。


 白いブラウスのボタンを留め、首元に極細のネックレス。

 パンプスの踵は昨日のうちに磨いておいた。


 机からラナンキュラスを一輪、視界の端に入れて 

 「行ってくるね」と小さく声をかける。

 花は答えないが、黄色の輪が灯のように部屋を明るくした。


 出勤の廊下、窓ガラスに映る姿勢がまっすぐだ。

 踵から爪先へ。足音が静かにそろう。


 席についてPCを立ち上げると、深呼吸が自然に入る。

 メールの並び方を一度だけ整え、付箋を二枚減らす。

 指先の動きに迷いがない。


 昼休み、給湯室の鏡の前で髪を耳にかけたとき、

 同僚がふと振り向いた。


「藤原さん、なんか、雰囲気変わった?」


「そう?」


「うん、顔が“起きてる”感じ」


 私は笑って肩をすくめる。「早起きのスープが効いたのかも」

 返ってきた「いいなぁ」の声が、いつもより近く感じられた。


     *


 その日の夕方、Kokū Counseling。

 ドアベルの音と同時に、沈香が柔らかく迎える。

 恋九郎はいつものように窓を少し開けかけて、ふと手を止めた。


「……今日は、開けなくてもいいかもしれません」


「え?」


「もう、風が入ってます。藤原さんのほうから」


 その一言に、胸の奥の糸が静かに震える。

 彼の声が、空気ではなく心臓に直接触れたように感じた。


 彼は目尻をやわらかく下げ、まっすぐこちらを見た。

 けれど“見すぎない”。その絶妙な距離が、かえって近い。

 呼吸が、同じリズムを刻みはじめる。


 席に着き、湯呑が置かれる。

 口をつける前に、私は無意識に髪を耳にかけた。

 指の第二関節が頬をかすめる。


 その一瞬、恋九郎の視線が動き、そこに触れて、すぐに戻る。

 ほんの数秒。けれど、その沈黙にすべてがあった。


「まずは近況から」


「スープを作ってます。窓を拭いて、靴も磨いて。

 ……あと、プロジェクト、二段階めの承認が出ました」


「素晴らしい。話し方が、芯から落ち着いてきましたね」


(この人の言葉は、褒め言葉なのに祈りみたいに聞こえる)


 “芯から”。

 その言い方が嬉しくて、笑みが自然にほどけた。


 恋九郎は、その笑みのときだけ私の目を真正面から見た。

 氷を陽にかざすみたいに、一瞬で光を捕まえる視線だった。

 視線が合った瞬間、時間が細く伸びる。

 湯気も香も、すべての音が遠のく。


(見られている)


 胸の内側が、透明な熱で満ちていく。

 湯気ではなく、光に温められる感じ。


 カードが卓に置かれる。今日の展開は三枚。

 一枚目、《女帝 The Empress》――正位置。


「“育てる力”。自分にも、他人にも。

  藤原さんの机の上、花が増えましたね?」


「……見えました?」


「見えません。でも、分かります」


 彼の口角が、やわらかく上がる。

 その笑みの奥にある感情を、互いに気づきながら、触れない。


 二枚目、《節制 Temperance》――正位置。


「バランス。呼吸と歩幅。七割の法則、続いていますか」


「はい。七割で渡りきる、やってます」


 三枚目、《太陽 The Sun》――正位置。


 黄色が、今日はいっそう鮮やかだった。


「今日の“太陽”は、藤原さんの表情に出てます」


 真正面から言われて、喉がひとつ跳ねる。

 頬の内側に熱が差す。


「……そうですか?」


「ええ。声が少し明るい。語尾の重さが減りました」


 会話の合間、彼は気づかれないように呼吸を整えていた。


 (抑えている)


 仕事の線を、自分のほうに引き直す仕草。

 その禁欲が、かえって脈を速める。

 あかりが湯呑を替えながら、私と彼の間を穏やかに見ていた。


「宿題を増やしても大丈夫そうですね」


「……様子を見ながら」恋九郎が小さく笑う。


「今日は、“褒めの先出し”をもう一段強く。

 新人さんの良い点を、会議の前に言葉にして渡してください。

 公の場で“一度先に認められる”と、

 人は自分の居場所を見つけて力が出ます」


 頷きながら、私は恋九郎の手元を見ていた。

 カードを揃える指が、思っていたより骨張っている。

 ペンを握るとき、人差し指の第二関節に小さなペンだこ。


(きれいな手じゃないけど、丁寧な手だ)


 そう思った瞬間、胸の奥が「あ」と鳴って、

 視線を慌てて花の絵に逃がした。


 恋九郎もまた、沈香の煙の向こうで小さく息をのんでいた。

 指先がカードを少しだけ滑らせる。

 それが、心の揺れの証拠だった。


     *


 帰り道、海へ抜ける小さな横道で、私は歩幅を半歩だけ広げてみた。

 薄い風。夕焼けの手前の光が街路樹の縁にたまっている。


 歩きながら、ふいに恋九郎の声を思い出す。

 ――塔が崩れたあと、風が通る。そこから見える景色が、ほんとう。

 ほんとうの景色を誰かと共有したい、と思った。

 最初に浮かんだのが彼の横顔だったことに、自分で驚く。


(次のセッション、楽しみだな)


 心の中の声に、言い訳が追いつかない。


 私は笑って、ラナンキュラスの茎みたいに、

 胸の中をまっすぐ立て直した。

     *

 翌日。朝礼前の会議室。

 資料を準備しているとき、悠がコピー機の前で立ち止まった。

 前の人が印刷を終えるのを、黙って待っている。


 「急いでいいですよ」と声をかけられても、 

 「大丈夫です、順番ですから」と笑う。


 その一瞬、彼の笑顔には「効率」ではなく「礼儀」があった。


 ――こういうところ、誰も見ていないのに。

 沙耶は、胸の奥で小さく何かが鳴るのを感じた。

 (この人、ちゃんとした人だ)


「会議の前に言っておきたいんだけど」


 私は、悠に向かって言葉を選んだ。


「あなたの“根拠の置き方”、助かってる。

 あと、仮説が速いのと、人の時間を奪わないところ。 

 今日もそのままでお願い」


 悠は目を丸くして、次の瞬間、まっすぐに頷いた。


「了解です」


 その返事が、会議室の空気を一段軽くする。


「――この新人、風の読める人だ。」


 プレゼンは滑らかに進み、部長の「いいね」の声は昨日より低く深かった。

 終わったあと、廊下で元婚約者とすれ違う。

 彼は私の横を通り過ぎざま、わざとらしく手首の時計を見て、鼻で笑った。


 私は立ち止まらない。青で渡りきる。

 肩で風を切るのではなく、胸の中心に風を通す。

 視界が揺れない。

     *

 その夜、Kokū Counseling からメッセージが届いた。

〈“褒めの先出し”拝見しました。明日の風も、必要なところへ〉

 “拝見しました”の丁寧すぎる文面に、彼の顔が浮かぶ。


(見られている)


 ラナンキュラスの花びらが、部屋の空気を震わせた気がした。

 スマホを置き、私はネックレスの留め具を外す。

 鏡の前で髪をほどく。


 ふと、指先の動きが去年よりやさしいことに気づく。

 自分に触れる手が、他人に触れる手と同じくらい丁寧になっていく。

 そのことが、少しだけ誇らしい。

     *

 次のセッションの日。

 部屋に入るやいなや、恋九郎が目を見開いた。

 私は特に化粧を変えていない。


 ただ、ブラウスが象牙色、口紅が少し薄い珊瑚に寄っている。

 彼は言葉を探す時間を一拍だけ取り、結局なにも言わずに笑った。

 笑われたのに、なぜか胸が温かい。


「今日は一枚だけ、カードを引きましょう」


 彼はそう言って、黒い箱から一枚抜き、置いた。


《恋人 The Lovers》――正位置。


 空気が、ほんのわずかに甘くなる。

 彼はカードからすぐに目を離し、私を見ずに窓の外を見た。


「……仕事の場では、“選択の一致”という意味もあります。

   言葉の扱いに気をつけて、でも、遠慮しすぎないこと」


 言葉の端が揺れている。

 彼は自分の中の温度を、プロの枠で包み込んだ。

 けれど、その枠の内側で、もう何かが確かに燃えていた。

 私は頷き、カードを見つめる。

 黄色い背景が、ラナンキュラスと同じ温度に見える。


(わかってる。もう、お互いに)


 帰り際、あかりがドアを開ける手を少し止め、横顔のまま言った。


「藤原さん。先生は優しいですけど、仕事はきっちりしてますから」


「……知ってます」


「それなら、大丈夫」


 彼女の声は、春の海の縁に似ている。

 寄せては返し、境界を曖昧にしていく。


 外に出ると、風が頬を撫でた。

 私は髪を耳にかけ、歩き出す。

 足取りは、昨日より半歩だけ広い。


 胸の中の太陽は、まだ小さい。

 けれど確かに、彼と同じ場所で昇っていた。


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