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縁カウンセラー朝日奈恋九郎〜愛と運命を導くタロットカード〜《不生不滅の蓮華姫スピンオフ》  作者: 慈孝
《塔(The Tower)/XVI》の章 藤原沙耶

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3/6

婚約破棄の塔(後編)「芽生えの縁」

朝。目覚ましの一回目で起きるのは、いつぶりだろう。

 キッチンの蛇口からコップに水を満たし、一息で飲み干す。

 空になったコップの底に、淡い円ができる。 

 今日の最初の“丁寧”は、そこから始めることにした。


 靴を磨く。薄いクリームを布に取り、円を描くように動かす。

 鏡のような光沢ではなくていい。通勤電車で他人に踏まれても、

 心が曇らない程度の艶でいい。 


 鍋に玉ねぎと人参を放り込み、ブイヨンを落として火にかける。

 沸騰を待つ間に、窓を拭く。曇りガラスの向こうが、少しだけ鮮明になる。


 視界が広がるのと同時に、胸の隅の空気も澄んでいく。

 机の隅に、昨日買ったラナンキュラスを置いた。


〈ラナンキュラス/太陽〉


 メモの文字は拙いが、花の黄色はそれを笑って許してくれる。

 出勤。会社のエレベーターはいつもより混んでいて、

 彼の部署のメンバーが数人、話していた。 


 ひとりが私に気づいて、会釈する。

 もうひとりは、視線を滑らせるように逸らした。

 私は、昨日よりも足裏を感じて歩く。

 踵から爪先へ、きちんと重心を移す。


 席につき、PCの電源を入れ、机の上を一度だけ整える。

 不要な紙をファイルに入れ、ペン立ての中のペンを二本に減らす。


 最初の十秒でできることを、十秒でやる。

 それだけなのに、不思議と呼吸がきれいに入る。

 午前九時、社内メールが届いた。


〈新規プロジェクト選抜:若手育成枠あり〉


 昨日、海沿いの歩道で見たチラシと同じ題字。

 胸が僅かに強張る。添付資料を開き、要件定義を読む。


 製品のUIリニューアルと新規顧客の獲得。

 納期はタイト、予算も渋い。

 (怖いけど、出す)


 午前のタスクを片付け、昼休みにエントリーシートへ向き合った。

 動機を打ち込み、企画案の骨子を書き、最後に指が止まる。

 提出ボタンの前で、心が一瞬だけ海風を求める。

 右手の親指に残る婚約指輪の跡を見て、息を吸う。


 ――青で渡りきる。


 Enterを押す。画面に「応募が完了しました」の文字。

 PCのガラスに反射した自分の顔が、昨日よりも立体に見えた。

 夕方、電話が鳴った。


「藤原さん? 新規の件、一次で通ったよ。

 明日からキックオフ。

 ……育成枠の新人が一名つく。引き受けられる?」


「はい。やらせてください」


 受話器を置く手首が僅かに震えた。

 震えは怖さではなかった。体温が表面に戻ってくる震えだ。


     *


 キックオフの日。会議室の扉を開けると、

 先に部長と、知らない若い男性が座っていた。


「今日から配属の新入です。三条さんじょうゆう

 中途採用枠だけど、インターンの実績は一番。コードも数字も強い」


 男の子は立ち上がり、明るすぎない笑顔で会釈した。

 目がよく動く。観察する目だ。


「三条悠です。よろしくお願いします」


 名札のピンを付け直す手つきが、不器用に見えて、実は確信がある。

 第一印象でわかることと、わからないことがある。


「藤原です。よろしくお願いします」


 席に資料を配り、アジェンダを示す。

 私は自分の声の震えを、議事に埋め込むように淡々と進めた。


 悠が数回、短く質問を入れる。どれも筋が通っている。

 返す言葉が整理されていく。

 会議が済むと、彼は少し照れたようにメモを見せた。


「仕様の順序、ここ変えると、後工程で楽になります」


 彼の指す矢印は、私が心の中で描いた線と重なっていた。


「……いいね。そこ、直そう」


 たぶん、うまくいく。

 根拠はうすいけれど、風の匂いがそう言っていた。


 席に戻る途中、コピー機の前で元婚約者とすれ違った。

 彼は私を見て、口角だけで笑った。


「新人相手にプロジェクト? 面倒はほどほどにな。

 上は、君に期待してるのかい、別の意味で」


 別の意味、の部分で彼はわざと語尾を落とした。

 すぐ隣で、専務令嬢の理沙が柔らかく笑った。


「まあまあ。藤原さん、前はうちの彼の心配ばかりしていたのに、

 今は部下の心配ですか? 人を支えるのが好きなのね」


 その笑い方は、香水と同じく“人を見下ろす香り”がした。

 私は立ち止まらない。青で渡りきる。


「お互い、仕事に集中しましょう」


 それだけ言って通り過ぎた。

 背中に、理沙の声が軽く触れる。


「その“太陽みたいな花”、似合ってるわね」


 机に置いたラナンキュラスのことまで見られていた。

 指先が一瞬だけ固まる。けれど、深呼吸ひとつで戻す。

 ――七割でいい。


     *


 三日後。カウンセリングの部屋は、同じ香りで迎えてくれた。

 窓辺の光。机の上の黒い箱。

 恋九郎は、私の顔を見るなり、安心したように目尻を緩めた。


「表情が変わりましたね。ちゃんと食べて、眠っている顔です」


「スープと、おにぎり。あと、靴を磨いてます」


「素晴らしい」


 あかりが湯呑を置いて、いたずらっぽく笑う。


「信号も渡ってますよね」


「はい」


「合格です」


 合格、という言葉が、なぜこんなに救いになるのだろう。


「仕事のほうは?」


「新規の一次、通りました。

 育成枠の新人が来てくれて、……優秀で、助けられてます」


 恋九郎は「助けられている」という言葉に、

 ほんの少しだけ目を細めた。


「いい関係ですね。“助ける—助けられる”は、縁の往復運動です。

 行って戻る。それが続く相手は、善縁です」


 彼はカードを切り、三枚引いた。


 一枚目、《節制 Temperance》――正位置。

「調和。急ぎすぎず、混ぜすぎず。あなたと新人さんのペースを合わせること」


 二枚目、《正義 Justice》――正位置。

「基準を明確に。判断は“好き嫌い”ではなく“整合性”で。これは職場の縁を守る剣です」


 三枚目、《恋人 The Lovers》――逆位置。

 心臓が、ひと拍、余計に鳴った。

 恋九郎はカードに手を置き、言葉を選ぶ。


「“選択の迷い”。仕事の場では、恋の話ではありません。

 選択に気をつけてください。誰かのために自分を削りすぎない。

 恋については……」


 彼は少し笑って、視線を外した。


「それは、カードの外側にあります」


 何も言っていないのに、言われた気がした。

 胸の奥で、小さな灯が揺れる。火ではない。

 太陽の欠片のような、丸い光。

 その光が恋九郎の灰色の瞳に反射して、わずかに溶け合う。


(この人も、誰かを失ってきた目をしている)


 胸の奥で、共鳴のような痛みがやさしく波打った。


「今日は、もうひとつだけ宿題を」


 恋九郎がメモに書く。〈認める〉


「新人さんの良いところを、具体的に三つ、“声に出して”伝えてください。

 人は“言われて初めて、自分の役割が分かる”ことがあります。

 そして、その代わりに“あなたが苦手なところを一つ、助けを求める”。

 交換ではありません。往復です」


「往復」


「はい。善縁はキャッチボールで育ちます。壁当てでは、長続きしない」


「朝日奈先生、私の縁は上手く整えられているでしょうか?」


「はい、難しく考える必要はありません。あなたは既に実践できています」

「例えば、私がこうしてあなたとお話しできるのも、

 藤原さんが行動で私との縁をつなげてくれたからです」


「私が、行動で?」


「はい。見つけて、会いに来てくださった。

 もし来ない選択をしていたら、私とあなたの縁はなかったでしょう」

「人生は思い通りにはならない。行動した通りになる」


「――師匠の慈孝和尚に教わりました」


 言いながら、彼はわずかに頬を掻いた。

 あかりが湯呑を持ち上げて、にやりと笑う。


(ああ、また)


 彼の優しさが、他人の痛みに同化するほど深いことを、

 あかりだけが知っている。


「この調子で、良い縁を招き入れましょう」


「はい。ありがとうございます」


 帰り際、あかりが玄関まで送ってくれた。


「……大丈夫そうですね」


「はい。少しずつ」


「あの、先生はよく惚れますけど、仕事はきちんとしてますから」


「え?」


「なんでもないです」


 あかりは小さく笑って、ドアを開けた。


「風、変わってきました」


     *


 プロジェクトは、想像より早く走り始めた。

 悠は、仕事の吸収が早かった。


 私が一度見せた手順は、翌日には改良されて戻ってくる。

 私が迷っていると、彼は迷いの理由を言語化してみせた。


「ここが決まらないと、ここが枝分かれして、

 見積もりが膨らむんです」


「ありがとう。じゃあ、先にこの基準を固めよう」


 “正義”のカードが机の端で頷いたような気がした。

 日報の最後に、「三つの良いところ」を書いて渡す。


・数字の根拠を伝えるのがうまい

・指示を待たず、仮説を出せる

・人の時間を奪わない気遣いがある


 悠は、読みながら耳まで赤くなった。


「……ありがとうございます。

 あの、自分は、藤原さんの“決める速さ”がすごいと思います」


「速いだけで、間違いも多いです」


「でも、間違えたらすぐ直すじゃないですか。

 止めないで、直す。あれ、かっこいいです」


 不意に褒められて言葉が詰まる。

 胸の奥に、昨日までと違う体温が入った。


 (往復)


 私は小さく咳払いをして、苦手なことをひとつ告げた。


「数字の説得、弱い。プレゼン資料、手伝ってもらえる?」


「任せてください」


 夜、オフィスに誰もいなくなってから、二人でスライドを整える。

 白い壁に投影したグラフの線が、会議室の天井に淡く揺れる。


 ふと、ガラス越しにエレベーターホールが見えた。

 彼――元婚約者が、誰かと歩いている。専務の令嬢だ。

 二人は笑っていた。彼の笑い方は、私の知らない角度をしていた。


「大変そうだねぇ。エリートの僕が手伝ってあげようか?」


「結構です。お気遣いなく」


 令嬢が彼の腕に手を絡める。


「ねえ、無理しないで。

 あなたの元婚約者さん、昔から無茶するタイプだったんでしょ?」


「そうだな。自分で壊して、自分で立て直すのが得意らしい」


 わざと聞こえるような声。

 私は視線を戻し、次のページのフォントを揃えた。

 青で渡りきる。


 キーボードの音が、波のように一定になっていく。

 悠が、私の手元をちらりと見て、小さく頷いた。

 その仕草に、妙な救いがあった。


     *


 プレゼンは通った。

 帰り道、私は一人で花屋に寄り、白い小瓶をもうひとつ買った。

 二本目のラナンキュラスは、淡い橙だった。

 家に帰り、机の上で花の位置を少し入れ替え、貝殻の隣に置く。

 部屋の空気が変わる。


 スマホが震えた。Kokū Counselingからメッセージ。

〈お疲れさまでした。明日の風も、必要なところへ届きます〉


 送信者は事務的なアドレスだが、文面は恋九郎の声で読めた。

 返信はしない。読んで、胸に収納する。


 スープを温め、食べる。

 湯気が顔に当たって、目を閉じると、

 どこかで鐘が一度だけ鳴ったような気がする。


 ――それからの数日、プロジェクトは加速した。

 レビュー会で、部長が短く言った。「いい。期待以上だ」


 廊下ですれ違ったとき、元婚約者が皮肉を投げる。


「新人の肩に乗ってるだけだろ」


 悠は、聞こえないふりをして歩いた。

 私は足を止めない。七割でいい。

 夜、資料の最後に小さく〈太陽〉と打った。

 誰にも見えない位置に。自分のためだけに。


     *


 次のセッションの日。

 部屋に入ると、恋九郎が窓を開ける仕草を途中で止め、私を見た。


「開けなくても、もう風が入ってますね」


 私は笑って頷いた。


「あの、先生」


「はい」


「ここに来ると、また歩こうって思えるんです」


 恋九郎の表情が、少しだけやわらぐ。


「それは、あなたが歩いたからです」


 彼はカードを一枚だけ引いた。

《太陽 The Sun》。

 その黄色が、私のラナンキュラスと重なって見えた。


「予定にない一枚です。意味は――」


「わかります」


 言いながら、胸の奥の灯が少しだけ大きくなるのを感じる。

 危険な灯ではない。誰かの手を焼く熱ではなく、

 自分の手を温める熱。

 恋九郎は、カードの上から軽く指を滑らせて言った。


「太陽は、“再生”と“共有”の象徴です。

 藤原さんが取り戻した光は、もう他人のためだけじゃない。

 自分のために灯していい光です」


 言葉の余韻が、香の煙に混ざって漂う。

 それを聞く彼の横顔に、ふと柔らかな陰が差した。


(この人も、誰かを照らしながら、自分を焼いてきたんだ)


 そう思った瞬間、胸の奥でなにかが静かに共鳴した。

 あかりが、湯呑を片づけながら小さく笑った。


「先生、今日はカード少なめですね」


「……足りていました」


「そうですね。風の通りが良かったから」


 そんなやり取りを聞きながら、私は立ち上がる。


「ありがとうございました。また来ます」


 恋九郎は、いつものように窓をほんの少しだけ開けた。

 春の風が、部屋の中を撫でていく。


「また、風を入れましょう」


「はい」光が差していた。


 ポケットの貝殻を指でなぞる。

 あの塔の瓦礫の下で、確かに芽吹いたものがある。

 “やめたくないもの”が、ひとつ、またひとつ増えていく。


 ――崩れた塔の跡に、太陽が昇る。

 それは、かつての喪失を照らす光ではなく、

 新しい縁の始まりを告げる光だった。


     *


 その頃、カウンセリングの部屋。

 恋九郎はまだ、開け放たれた窓のほうを見ていた。

 あかりが小声で言う。


「先生、また顔が赤いですよ」


「……そうですか?」


「風、入れすぎたんじゃないですか?」


「いや、たぶん――太陽のせいです」


 あかりは呆れたように息をつく。


「惚れっぽい人ですね」


「心を動かす人に出会えたなら、それも縁です」


 彼はそう言って微笑んだ。

 窓から差し込む光が、黒いカード箱の縁を金色に染めていた。


 塔の崩れた場所に咲く花のように、

 恋九郎の胸の奥にも、静かな陽だまりが生まれていた。


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