婚約破棄の塔(中編)「再生の縁」
――崩れた塔のあとに残るのは、“歩き出せる道”。
前編では、婚約破棄という急落の中で、藤原沙耶は恋九郎のもとを訪れました。
そして今回は、恋九郎とあかりに伴われて海へ向かう“外出同行セッション”。
塔のカードは崩壊を示すけれど、再生は“行動”から始まる。
靴で砂を踏むこと。
コーヒーを飲むこと。
信号を青で渡りきること。
その一つひとつが、“縁を整える第一歩”になります。
恋九郎自身の心にも、小さな揺らぎが生まれる後編。
やわらかな海風とともに、“丁寧に生きる再生の物語”をどうぞ。
海へ続く小径は、冬を抜けきらない色をしていた。
松の影が細く伸び、砂の白さだけが季節より少し明るい。
潮鳴りが近づくにつれ、胸の奥で固まっていた何かが、ゆっくり表面に浮かんでくる。
苦い泡のように。けれど、波は黙ってそれを攫っていく。
「ここまでで、息苦しさはどうですか」
恋九郎が歩調を合わせて問う。
「……少し、軽い気がします」
「よかった。まずは“身体を外へ連れ出す”ことです。心は、あとからついてくる」
彼はそれ以上、なにも急がせない。
海風が頬を撫でる間合いを、会話より優先させるように黙って歩く。
あかりは一歩うしろで、必要なときだけ距離を詰め、砂に沈む足取りをさりげなく支えた。
浜辺に出ると、子どもが投げたビーチボールが風に流され、彼女の足元へ転がってきた。
「ごめんなさい!」
駆けてきた男の子に、彼女は反射的に微笑んでボールを手渡す。
指先に残るゴムのざらつき。その何気ない触感が、彼女を現実へ引き戻す。
「ありがとう!」
「……どういたしまして」
笑顔を作れた自分に、彼女は驚く。
つい昨日、顔の筋肉が痛むほど泣いたのに。
その笑みを、恋九郎は横目で見た。
潮風にほどけた髪が、光の粒を散らしている。
どこか脆いのに、まっすぐな眼差し――その一瞬に、胸の奥が微かにざわめいた。
(いけない。これは共感ではなく、感情だ)
自分の呼吸が半拍遅れたのを感じて、そっと目を逸らした。
海沿いのベンチに座ると、すぐそばのカフェから焙煎の香りが漂ってきた。
「温かいもの、飲みましょう」
恋九郎が店に入り、三人ぶんのマグカップが運ばれてくる。
湯気が白い線を描く。
「砂糖は?」
「いりません」
「では、ゆっくり」
最初の一口で、胸の真ん中に熱が落ちる。
彼女はマグを両手で包んだ。
小さな掌。震えの跡がまだ消えない指先。
恋九郎は無意識に、その手を庇いたい衝動にかられた。
(距離を置け、朝比奈。これは“支援”だ)
心の中で小さく言い聞かせる。
しばらくして、恋九郎が口を開く。
「カードの“塔”は、崩れる絵でしたが……崩れたあと、なにを積むかは選べます。
藤原さん、いま“やめたくないもの”はありますか」
「……仕事は、続けたい。怖いし、今は何も手につかないけど、逃げたくないです」
「それで十分です。ではひとつ、今日の宿題を」
彼は鞄から小さなメモ帳を取り出し、ページの上に〈丁寧に生きる〉と縦書きした。
「明日の朝、出勤前に十五分だけ“丁寧”をやってみてください。
例を三つ挙げます――靴を磨く、窓を拭く、机の上に花を一輪。できるのはひとつでいい。
手を使って、目に見える世界を少しだけ整える。
それが、縁を整える一番早い方法です」
彼女は頷く。
「……できそうです」
「もうひとつ」
あかりが静かに言う。
「帰り道、信号をひとつだけ“青で渡りきる”。立ち止まらずに、迷わず。足の裏で地面を感じながら。これ、効きます」
彼女は笑った。
「信号まで宿題にされるのは初めてです」
「縁は小さな行動から動きますから」
恋九郎が肩をすくめる。
「派手なことは要りません。日々の“丁寧”が積もると、ある日いきなり風向きが変わる。
そういうものです」
マグの底が見え始めたころ、彼女はふと視線を落とす。
握ったままの指先には、婚約指輪の跡が薄く残っていた。
皮膚の浅い窪みは、いまの自分そのもののようだ。
無意識にそこを撫でる。
恋九郎は、それを見ても何も言わない。
ただ、海のほうを見て、潮の満ち引きのリズムに合わせるように呼吸を整えた。
――その沈黙のあいだ、彼は気づかないふりをして、自分の胸の鼓動を落ち着けようとしていた。
(この人は、立ち上がろうとしている。痛みの底から)
その姿が、美しかった。
「藤原さん」
「はい」
「彼の言葉――“将来が見えなくなる”って、ひどい言葉です。
けれど、あなたの将来は、あなたの手の中にあります。
誰かの肩書や家柄の中には、ありません」
「……はい」
涙の気配と、涙ではない何かが胸で交差する。
彼女は深呼吸した。肺の奥に冷たい塩の匂いが満ちる。
「もうひとつ質問してもいいですか」
「どうぞ」
「彼の隣で、ほんとうに笑っていましたか」
問いは鋭かったが、声はやわらかかった。
彼女は少しの沈黙のあと、首を横に振った。
「笑えてるふりを、してた気がします」
「それなら、塔が崩れたのは、あなたのせいじゃない。
素材が合わなかっただけです。崩れたあとに残ったのは、あなた自身です」
それは、責めるでも慰めるでもない言葉だった。
彼女の中にある答えを、そっと指でなぞって見える場所に置くような。
風の音が、さっきよりも柔らかく聞こえる。
「――さて、外出同行セッション、最初のメニューです」
あかりが立ち上がると、マグを片づけ、手のひらを差し出した。
「海、歩きましょう。靴が砂で汚れても、今日だけは良い日です」
「良い日?」
「“汚れを気にしない”練習です。
丁寧に生きると、逆に『完璧』を目指してしまう人がいます。
そうなると、心が折れやすい。七割でいいって、からだに覚えさせておくと、再生が早い」
彼女は思わず吹き出した。
「七割……助かります」
「残り三割は、風と他人に任せるんです。先生の口癖」
横で恋九郎が小さく咳払いをした。
「ぼくはそんなに器用に言った覚えはないけど」
「いつも言ってますよ、“外へ出ましょう。風が変わるかもしれません”」
「それは言ってます」
三人で砂浜を歩く。
靴底に砂が入る感覚は不快だけれど、思ったほど嫌ではなかった。
むしろ、地面との接触を確かめる余白のようだ。
打ち上げられた小さな貝殻を拾ってポケットに入れる。
これは、なにかの終わりの欠片に見えて、なにかのはじまりの欠片にも見えた。
「それ、机の上に置くといいですよ」
恋九郎が言う。
「“ここまで歩いた”印になります。毎日見るたび、今日の自分の位置が変わる」
「印……」
彼女はポケットのふくらみを指で確かめる。
微かな重さが心地よい。
堤防のあたりで、サーファーたちが海を見つめていた。
波を読む姿勢は、なぜか祈りに似ている。
「藤原さん」
「はい」
「お願いがひとつ。
今日、帰ったら、食べるをやってください。
温かいスープでも、おにぎりでも、簡単でいい。からだに“生きたい”を渡す」
「わかりました。……作って食べます」
「作れなければ、買って食べるで充分です。結果より、行為が大事」
彼女はうなずきながら、心の中に“食べる”という太字を置く。
すると、不意に、胸の中でカチリと音がしたような気がした。
歯車が、ほんの少し噛み合う音。
堤防からの帰り道、海沿いの歩道に、風でめくれたチラシが貼りついていた。
〈社内新規プロジェクト募集 若手育成枠あり〉
会社のロゴ。見覚えのある総務のメールと同じ題字。
彼女は思わず足を止める。
「……募集、来てたんだ」
声に出すと、現実になる。
恋九郎が視線だけでチラシを見て、彼女の顔に戻した。
問いは発しない。ただ、待つ。
「出してみようかな。怖いけど」
(この人は、もう自分の足で歩こうとしている。その背中を押したい――ただ、それだけのはずなのに)
「出しましょう」
返事は短く、迷いがなかった。
「“怖いけど”は、縁の入口です。
怖いのは、未知だから。未知は、あなたを広げる可能性です」
信号が赤から青に変わる。
あかりが、軽く肘で合図をする。
「青で、渡りきる練習」
「はい」
三人が横断歩道に踏み出す。
途中で立ち止まらない。人波に押されても、歩幅は崩さない。
向こう岸に着いたところで、あかりが小さく拍手をした。
「合格」
「ありがとうございます」
ふたりのやり取りを見て、恋九郎が少し照れくさそうに目を細める。
その表情が、彼女の胸を不意に温めた。
温度に気づいて、慌てて目をそらす。
(先生なのに――不思議な人)
一瞬だけ目が合った。
春の光の中で、灰色の瞳が淡く揺れていた。
事務所へ戻る途中、小さな花屋があった。
店先に、白い小瓶が並んでいる。
「一輪だけ、買いませんか」
恋九郎が提案する。
「机に置く花。今日の“丁寧”の証明」
彼女は店に入り、迷って、薄い黄色のラナンキュラスを選んだ。
「どうしてそれを?」
「太陽に似てるから」
自分で言って、頬が熱くなる。
「いい選択です」
恋九郎は微笑んだ。
「カードとも、よく合う」
その笑みが、また胸の奥を波立たせる。
――いけない。まただ。
会計を済ませると、花屋のおばさんが小さなメッセージカードを一枚くれた。
〈お花の名前を書くと、長持ちします〉
彼女は〈ラナンキュラス〉と書いてから、少し考えて、横に小さく〈太陽〉と添えた。
オフィスに戻ると、あかりがポットから白湯を注いでくれた。
「今日はここまで。次の予約は、三日後の同じ時間にしましょう」
「三日後……はい」
花と貝殻と、宿題のメモをカバンに収める。
帰り際、彼女は振り返った。
「先生――朝比奈さん」
「はい」
「来て、よかったです」
恋九郎は、頭を下げるかわりに、窓を少しだけ開けた。
春の風が、朝と同じように部屋を撫でる。
けれど、匂いは少し違って感じられた。
「また、風を入れましょう」
「はい」
ドアベルが鳴って、外の光が差し込んだ。
階段を降りる足取りは、来たときより確かだ。
角を曲がるとすぐに信号がある。青だった。
彼女は迷わず歩き出し、渡りきると、思わず空を仰いだ。
雲が切れて、薄く光が落ちていた。
ポケットの中の貝殻を指先でなぞる。
凹凸のひとつひとつが、いまの自分を受け止める地図みたいだと思う。
家に帰ったら、スープを作ろう。
靴を磨こう。
机に花を置こう。
“やめたくないもの”の、最初のひとつずつ。
背後で波が崩れる音がして、同時に、どこか遠くで鐘が一度だけ鳴った気がした。
幻聴かもしれない。
けれど、その一音は、崩れた塔の瓦礫の奥で、静かに根を張る芽の音のようにも思えた。
◇ ◇ ◇
沙耶が去った後のオフィス。
沙耶が去ったあと、オフィスに春の風が残っていた。
恋九郎は、しばらく窓の外を見たまま、ぼんやり立ち尽くしている。
「先生、もしかして……またですか?」
あかりの声に、はっと我に返る。
「またとは何ですか」
「“縁に引きずられる”癖です」
「そんなことはありません。ただ――」
彼は少し照れたように笑う。
「沙耶さんは、心の美しい人でした」
あかりは、呆れるしかなかった。
「……だから“風を入れすぎる”んですよ、先生」
恋九郎は、ただ小さく笑って、窓の外を見た。
海の光が、彼の灰色の瞳に反射していた。
窓の外で、潮風がカーテンを揺らした。
香の煙が細くのびて、空気の層をひとつ変えていく。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
塔のカードは「破壊」ではなく――
“偽りを崩したあとに残る本物”を示すカード です。
今回の後編は、
・外へ出る
・風を吸う
・温かいものを飲む
・信号を青で渡る
・花を一輪選ぶ
そんな“ごく小さな行動”が積み重なることで、心が確かに変わる章でした。
恋九郎の揺らぎ、
あかりの支え、
そして沙耶の第一歩。
読者の皆さまの中にも、
「今日の“丁寧”をひとつだけやってみようかな」
と思う方がいれば、それだけでこの回は成功です。
次回からは、
また別のタロットが新たな縁を開きます。
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恋九郎と沙耶、そしてこの物語の“風”がまたひとつ動きます。
――また鎌倉でお会いしましょう。




