第8話 滅びの炎の果てに黎明がある
この二、三か月にわたる学習の末、私はようやく、あの紅玉の鉄の箱の中にあった手紙の内容を大まかに読み解くことができた。
「親愛なるシャリンへ。
あなたが帝国皇太子と結婚して以来、私は日々胸を引き裂かれる思いで過ごしている。もう一度、あなたの愛らしい顔を見て、柔らかな髪に触れたい。あなたが私を忘れてくれることを願いながら、同時に、永遠に私を覚えていてほしいとも願っている。私はいつまでも、あなたの最も忠実な僕だ。――ロット」
「親愛なるシャリンへ。
あなたはきっと狂ってしまったのだろう。私はどれほどあなたの情熱に応えたいと思ったことか。だが、あなたを危険に晒したくない。帝国の皇室が、あなたたちの婚約を解消すると思うか?いや、ありえない。あの者たちはみな、北方の領地を狙う狡猾な連中だ。彼らがどれほどずる賢いか、あなたも私もよく知っている。私は恐れている。私の存在が、あなたに災いをもたらすのではないかと。……信じてくれ。いつの日か、私たちはこの運命から逃れられる方法を見つけ出すだろう。永遠にあなたを想う、愛する人より。――ロット」
「親愛なるシャリンへ。
私はあなたに会いたくてたまらない。私の愛する人、私の主、美の女神に祝福された寵児よ。あなたへの想いを抑えきれず、私は日々、あの若き日の甘い時間を思い返し、夜も眠れぬ。あなたはきっと、この私の行動を止めるだろうが……私は御花園の迷宮の近くであなたを待つ。どうやって入り込んだのか、聞かないでくれ。あなたのもとへ行くためなら、もはや手段を選ばないほどに、私は理性を失っている。――ロット」
――御花園……!?
書庫のランプの下でこの一文を読んだ瞬間、私は驚きのあまり口を押さえた。
叫び声を上げてしまいそうだったからだ。
ということは――
この鉄の箱は、やはり亡き女公爵の持ち物だったのだ。
そしてそれがあの場所にあったのは、まさに彼女が情人と密会していた場所だったから。
もしこの品が誰かの手に渡れば、帝国皇室にとって隠しきれぬ大醜聞となるだろう。どうしてそんな重要な物が、御花園の温室の中などに放置されていたのか――
それも、これほどの年月が経っても処分されていなかったのか。
……これこそが「大隠は朝市に隠る」ということかもしれない。
最も危険な場所こそ、最も安全なのだ。
「親愛なるシャリンへ。
あなたが身ごもったと聞いたとき、私は言葉にできないほどの喜びを感じた。すぐにでもあなたのそばへ飛んで行き、この最高の幸福を共に分かち合いたかった。私にも朗報がある!一か月後、私たちの仲間が動き出す。帝国の圧政に抗い、そしてあなたのために。私たちの願いはもうすぐ叶う! ――ロット」
……身ごもった?それに――反乱?
手が小刻みに震えた。
私は嫁ぐ前に、帝国の近年の政治についても学んだ。だが、北部公国の領地で反乱が起きたという話など、一度も聞いたことがなかった。
手紙の内容からすれば、当時女公爵が身ごもっていたのは、間違いなく彼女の情人の子である。
だが、女公爵はすでにこの世を去っている。
――その子は一体どこへ行ったのだろう?
あるいは、その子は本当に生まれたのだろうか?
考えれば考えるほど、胸の奥が重く沈んでいく。
これらの秘められた出来事の処理を担ったのは、殿下――エドワルドだったのかもしれない。
そう思うと、心はますます複雑なものになっていった。
五通目の手紙を整理していると、ふと筆跡の違いに気がついた。紙の形も他とは異なり、どこか破り取られたような、不揃いな縁をしている。
それまでの文字は、ロットという名で署名された男性の筆跡だった。
だがこの奇妙な一通は、それよりも整っていて、誤字も少ない。
私は慎重にその紙片を広げた――
そして、そこに書かれていた内容は、前のどの手紙よりも衝撃的なものだった。
「忌まわしきアイシュガード皇子へ。
この私、シャリン・アスカーナは、お前が病に苦しみ、孤独のうちに死ぬことを呪う。お前のような冷酷な悪魔は、人としてこの世に生きる資格などない!お前は必ず、その罪のすべての代償を支払うのだ!――シャリン・アスカーナ」
この手紙だけは、帝国の公用語で書かれていた。
明らかにこれは、皇太子の亡き妻が彼に――エドワルドに宛てた、怒りと憎しみに満ちた告発状だった。
さらに、私は手紙の端に黒い煤のような痕跡を見つけた。おそらくこれは、どこかで火に包まれていた際に、焼け残った部分なのだろう。
そうして偶然、この世に再び姿を現したのだ。
私はこれらの手紙を元のまま鉄の箱に戻し、落ち着かない心を抱えたまま王宮へ帰った。それから使用されていない空き部屋を見つけ、ひとり静かに座り込んだ。
考えがまとまらない。
あの手紙の内容が、頭の中で何度もよみがえる。
――こんなこと、殿下に知られたらどうなるのだろう?
シャリン女公爵の最期は、まさか……殿下の手によるものだったのか?
私は深呼吸をして頭を振った。
駄目だ、これ以上考えては。
今はとにかく、この件から距離を置くべきだ。
しばらくのあいだ、書庫へは行かないでおこう。
行かなければ、あの手紙のことも忘れられるかもしれない。
鉄の箱は人の寄りつかない書棚の奥にある。
――安全なはずだ。
だが、胸の奥に重く沈んでいるのは、
まるで自分が見てはならぬ秘密を覗いてしまった罪悪感だった。この真実の断片は、私にはあまりに重い。もう以前のように、無邪気な気持ちで殿下と顔を合わせることができない。
あの手紙の言葉が、どうしても頭を離れない。
ジャンヌ夫人やフォスタスが言っていたとおりだった。私は、知ろうとするべきではなかったのだ。神がわたくしにあの箱を拾わせたのは、もしかすると――亡き女公爵のために、何かを為せという啓示だったのかもしれない。
けれども、殿下とともに眠る夜を重ねても、私は彼のことを何ひとつ知らないのだと、改めて思い知らされた。
日が経つにつれ、私はあの手紙のことを少しずつ心の隅へ押しやるようになった。
今さら恐れても、もう遅い。
私は皇太子妃――殿下の妻。
後悔しても、逃げることはできない。
それに……信じたい。殿下が、あのような冷酷な人間であるはずがないと。
きっと殿下にも、何か事情があったのだ。愛する妻の裏切りを知った夫が、どうして冷静でいられよう。
そう自分に言い聞かせるたび、少しだけ気が楽になった。
しかし、もしそれだけの理由なら、なぜ殿下は私に真実を隠すのだろう。
いっそ正直に話してくれれば、私は彼を責めることなどしないのに。
……駄目、考えるのはやめよう。
過去はもう変えられない。
けれど未来なら、私の手で変えられるかもしれない。
「皇太子殿下よりお伝えいたします。今夜もお帰りが遅くなりそうなので、皇太子妃様にはお早めにお休みくださるように、とのことです。」
年老いた侍従が、かすれた声でそう言った。皺だらけの顔が、幾重にも皺が寄って見えた。
この言葉を聞くのも、もう何夜目だろう。同じ言葉を繰り返されるうちに、私は次第に、殿下が私を避けているのでは――と疑うようになった。
……まさか、もう興味を失われたのでは?
そんな考えが頭をよぎるたび、心のどこかがきゅっと痛んだ。
いや、確かにその可能性もある。
けれど、あまりにも唐突すぎる。
特に喧嘩をしたわけでもないし、まだ新婚と呼べる時期なのに。
――殿下がわたくしに飽きた?
……違う、きっと違う。
殿下は疲れているだけ。ここ数か月、昼夜問わず政務に追われていたのだ。身体の弱い殿下のことだ、少しでも静かな時間を望むのは当然かもしれない。
そう自分に言い聞かせ、寝支度を整えたそのときだった。
遠くから、突然の轟音が響いた。
まるで地鳴りのような爆発音。
次の瞬間、宮殿全体が大きく揺れた。
着替えを手伝っていた侍女たちは、悲鳴を上げて取り乱した。扉の外では、衛兵たちが走り回り、怒号が飛び交っている。
私は音のした方向へ駆け寄り、窓を開けた。
闇夜の中で、金色の火が激しく燃え上がっていた。その光は、目を刺すほど眩しかった。
「……わたくしは平気よ! それより早く、あちらの様子を確かめて!」
私は怯えを押し殺し、できる限り落ち着いた声で命じた。
「地窖には砂と水が大量に備蓄されているはず。すぐに消火に向かいなさい!」
命令を受けた衛兵たちは、火の方角へ走っていった。残った侍女たちは、恐怖よりも好奇心を勝り、顔を寄せ合っては騒ぎの原因を推測し始めていた。
「もしかして……この前運び出された古書が原因じゃありません?ほら、油がついてた本に蝋燭の火が燃え移ったとか――」
「でも、古書は全部、宮殿の中に運ばれたはずでしょ?外側で燃えるなんておかしいわ。」
私は息をのんだ。
「……古書?何の話?」
「少し前、たくさんの侍従たちが古い本を運び出してました。聞いたところによると、殿下が書庫の改修と整理を命じられたそうです。」
――エドワルド様が?
私の心に冷たい予感が走った。
殿下は、私が書庫へ通っていた理由を察していたのだ。
あの箱を探し出すために、本を運び出させた――?
けれど、ではなぜ今、火が?
もしあの箱の存在が第三者に知られたのだとしたら……!
駄目、じっとしていられない。直接確かめなければ。
私は勢いよく声を張り上げた。
「衛兵!殿下が……殿下が、今夜は書庫近くで客人と密談をなさると仰っていたわ!放ってはおけません、急いで確かめに行きます!」
そう言い終えるや否や、スカートの裾をつかんで、廊下を駆け出した。
「皇太子妃様!危険です、どうかお下がりを!」
背後から衛兵の声が追いかけてきた。
「いいから、黙ってついていらっしゃい!」
我ながら、こんな命令口調を取るのは初めてだった。きっと、衛兵も驚いたに違いない。普段は温和な皇太子妃が、急にこんな態度を見せるのだから。
だが、あの箱の中身が露見することのほうが恐ろしかった。
……でも、あの鉄の箱なら、きっと火には強いはず。
そういえば、最初に見つけたときから思っていた。あの黒ずんだ金属の色は、まるで炎の中を転がったみたいだった――。
走りながらそんなことを考えるのはあまりに難しく、思考は次第に途切れがちになり、私はただ本能に突き動かされるまま、息を切らして走り続けた。
火の手の上がる方向――行宮の端にある書庫へたどり着くと、炎はすでにほとんど鎮まりつつあった。黒く焼け焦げた壁面からはまだ煙が立ち上り、焦げ臭い匂いが鼻を刺す。
夜空と焼けた建物が溶け合い、視界のすべてが黒く染まっていた。
私は袖で口元を覆い、咳をこらえながら足を止めた。
そのとき、暗闇の中から聞こえてきた。
「――やはり、君は来ると思っていたよ。」
声の主は、他でもないエドワルドだった。
エドワルドはただ一人、暗闇の中から歩み出てきた。黒い礼服はほとんど埃ひとつ見当たらない。彼はあの煙と無関係な人のように見えた……
あるいは、彼自身こそ炎と煙を操る魔物なのだろうか。
「え、殿下? ご無事で本当によかった……?」
私は素早く周囲を見回し、ここには衛兵が一人もいないことに気づいた。先ほど私と一緒に走ってきた衛兵も、さっきの煙とともに気配もなく去ってしまったらしい。
どうやら、今夜ここで皇太子が「何をするのか」を、皆が知っていたようだ。
「殿下、わたくし……」
「これが、君が頻繁に書庫で本を借りていた理由か?」
エドワルドは手にしていたあの箱を軽く掲げ、私に渡そうとした。だが私は手を伸ばす勇気がなかった。威圧を帯びた冷たい視線が私に落ち、千斤の重みのようにのしかかった。
「君を何と評すべきかな?この箱の持ち主と同じく、灰も残らぬほど焼かれたいわけじゃないよな?」
どこから説明すべきだろう。
脳裏をよぎった数々の推測の破片がひとつにまとまっていく。落ち着くために私は自分の指でそっとつねり、勇気を出してエドワルドの視線を受け止めた。
「殿下、わたくしは殿下のお力になりに参りました。この箱の中身は、頃合いを見てわたくしが自ら処分するつもりでした。」
「つまり、中身をすべて読んだと認めるのだな。」
エドワルドは箱を開け、黄ばんだ数通の手紙を取り出した。
「『忌まわしきアイシュガード皇子へ』か……だが、彼女を徹底的に追い詰めた相手なのだから、そう言われても無理はない。」
彼はその手紙を背後の炎へと無造作に放り投げた。炎は紙を食ってさらに勢いを増し、熱気に揺らめいて、今にも私のスカートの裾へ燃え移りそうに見えた。鉄の箱も地面に転がり、嵌め込まれていた紅玉は傍らに外れて、すっかり輝きを失っていた。
「よし、やっかいな物は片づいた。あの行宮はあれほど徹底的に燃やしたのに、まだこんな証拠が残っていたとは、まったくしつこいことだ。」
私は反応する間もなく、銀の刺剣が彼の腰の鞘から「シュッ」と抜かれ、私の喉元の数センチ前に突きつけられた。
「殿下……?」
「正直、私は君のことがわりと気に入っていた。できるなら傷つけたくはない。なにせヴァレン卿も手ごわいからな……だが、もし『たまたま書庫の火災で死亡』なら、誰も深くは追及しないだろう。」
目の前の出来事はあまりに速く、ほとんど考える暇も与えなかった。
しかし、わずかに揺らぐその瞳を見て、ふと妙な考えが胸に芽生えた。
――彼は、私を殺さない。
おそらく……満足させる答えを示すのを、期待している。
「それでは――わたくしをお殺しになる前に、遺言を述べるのをお許しください。」
「ほう?言ってみろ。」
エドワルドは眉をひそめ、手にした剣を下ろそうとはしなかった。
私は目を閉じ、無理やり自分を落ち着かせながら、頭の中で散らばった手掛かりをつなぎ合わせていく。
「殿下の策を暴かせてくださいませ。」
「まず、今日の書庫の火事についてです。もし本が燃えたことが原因で火災が起きたのなら、最初に炎を見てから爆発音を聞くはずです。しかし実際には、皆が大きな爆発音を聞いたのと同時に炎を見たのです。それに、火勢も大規模な延焼というより、東西あちこちが点々と燃えておりました……」
「さらに、侍女たちの話によれば、殿下は事前に書物を移しておられたとか。そして火災現場には救援の兵が一人もいなかった。この二点から、わたくしはこの火災が殿下によって意図的に引き起こされたものだと推測いたしました――目的は、わたくしをここへおびき寄せ、この箱を探させるため。殿下のように聡明なお方なら、わたくしが書庫と宮殿を行き来していたのが、何かを隠すためだとすぐにお気づきになったはずです。」
「そして殿下は答えを得られた。最初は、わたくしがヴァレン領の密偵や情夫に手紙を書いていると思われたのでしょう。けれど、手紙の内容をご覧になって事の重大さに気づかれた。しかし、わたくしが実際にその手紙を読んだ証拠がない。だからこそ殿下はこの爆発を仕組まれ、わたくしをおびき出そうとされたのです。」
エドワルドは、私の推理にやや驚いたようで、その瞳にわずかな賞賛の色を宿した。
「大体は当たっている。そこまで聡い君が、なぜわざわざ死にに来た?」
彼はゆっくりと剣を納め、代わりに両腕を組んで、まるで続きを促すようにした。
「ずっと考えておりました。どうやって殿下にこの件をお話しすればいいのか……今回は、殿下が『お呼びになった』のです。わたくしもお話しする気でおりましたから、来ない理由はございません。」
「はは……つまらないな。君は、あの人のように、剣を突きつけられたとき『忌まわしき皇太子め!』とでも叫ぶべきだったのに。これではまるで、私のほうが悪役のようだ。」
「わたくしは殿下の過去の闇を受け入れる覚悟がございます……どうかお心を鎮めてくださいませ。あの鉄の箱について、すべてお話しいたします。」
「残念だが、この怒りが完全に消えるまでは、話を聞くつもりはない。……覚悟しておけ。」
やはり、あの言葉は正しかった。――普段穏やかに笑っている人ほど、怒ると恐ろしい。
それからというもの、私はエドワルドに寝室へ三日三晩閉じ込められていた。この三日間は、まるで三年にも感じられるほど長かった。どんなに衛兵に懇願しても、彼らは決して私を外へ出してはくれなかった。
三日目の夜、ちょうど眠りにつこうとしていたとき、部屋の扉がカチリと音を立てて開いた。
「殿下!ようやくお話を聞いてくださるおつもりなのですか?」
彼はすぐには返事をしなかった。小声で衛兵に何かを命じ、彼らが遠ざかるのを見届けてから、無言のまま背中で部屋の扉を閉じた。
正直に言えば、私は少し怖かった。
彼がこれ以上厳しい罰を与えることはないと信じてはいたが、私は昔から対立や衝突が苦手だった。
こんなふうに殿下と険悪になりたくなかったのに。
「殿下、わたくし――」
「静かに。」
彼はゆっくりと歩み寄り、一息に蝋燭を吹き消した。部屋は瞬く間に闇に包まれ、私は一瞬、視界を失ったような錯覚に陥る。
数秒後、華奢に見えるその身体が容易く私を押し倒した。だが私は、彼の表情をはっきりと見ることができなかった。
「今は何も話したくない。」
私の体温よりも冷たい、骨ばった指先が絹の寝間着をかき分け、太腿の奥へと滑り込んでいく。不意の触感に息が詰まり、後ずさりしそうになる衝動を押し殺し、私は唇を噛んでその挑むような触れ方に黙って耐えた。
――殿下、様子がいつもと違う。
普段の彼なら、まず私の意思を確かめ、羽のように軽い口づけで止めるはずだった。
けれど今のそれは、まるで滑らかな鱗を持つ蛇が私の体を這い回り、いつでも牙を突き立てて毒を注ごうとするようだった。
「どうした?夫婦の間でこんなことをするのは、普通だろう?君はずっと、私にこうしてもらうことを望んでいたんじゃないか……本物の皇太子妃になるために。」
「わ、わたくし……だいじょうぶ、です……」
「実はね、初めて君を見たときから、こうしたかったんだ。まさか、こんな状況になるとは思わなかったが……その狼狽した顔を見ていると、少し気分が晴れる。」
彼は礼服の上着を脱ぎ捨て、薄い白いシャツ姿になった。
「背を向けて。」
衣擦れの音が耳に触れ、これから何が起きるのかを私は悟った。
――皇太子妃として果たすべき義務にすぎない。
そう自分に言い聞かせても、恐怖は消えなかった。
「殿下……お願いです、どうかやめてください……」
室内の空気が一瞬、凍りついた。
「今さら拒む権利があると思うのか?」
背後から彼に強く抱きしめられた。
その腕の力は、まるで刻印のように私の体に焼きつき、息を詰まらせるほどだった。
鋭く冷たい香りが肌の触れ合うところから立ちのぼり、乱れた呼吸が耳朶を這う。かすかに掠れた低い声が、耳の奥で震えた。
「私は君に、十分な時間を与えたはずだ。あの手紙で、君もすでに私がどんな人間か知っている。……もう逃げられない。」
「これが……罰、なのですか?」
「『私のすべてを受け入れる』――当然、身体も含まれるだろう?」
熱く、急くような口づけが肩口に落ちた瞬間、私はようやく理解した。エドワルドは、絵画の中の精霊などではなく、欲望を持つ、ごく普通の男なのだと。
混乱の中、鼻の奥がつんと痛んだ。
言葉にならない思いは涙となり、枕にしみ込んでいった。
「う、うう……」
「まだ何もしていないのに、泣くのか?」
「お願いです、殿下……やめてください……」
彼の手が止まった。
短い沈黙ののち、妥協のようなため息が落ちた。
「……はあ、もういい。君には本当に、強く出られない。」
エドワルドは床に落ちた服を拾い上げた。
月明かりがその髪に差し、銀のように輝いていた。その背中には、どこか寂しさが滲んでいた。
「ヘローナ……」
彼は私の名を噛みしめるように、幻のように静かな声で呼んだ。
そして、扉の閉まる音がした。
静けさを取り戻した寝室の中で、私の鼓動だけが乱れていた。
あの夜、私は眠れなかった。
エドワルドの面影と、触れられたときの熱が、いつまでも頭から離れなかった。
一週間後、エドワルドは私への禁足を解いた。
彼の表情はいつも通りで、私もまた、何事もなかったように振る舞おうと努力した……少なくとも、そうできていたと思う。
驚いたことに、彼はあの夜の件を謝ってくれた。
「……すまなかった。あの夜は、君を怖がらせてしまった。」
「い、いえ……平気です。最後にはわたくしの意思を尊重してくださったのですから、気にしておりません。」
「例の鉄の箱のことだが、そろそろ君と腹を割って話すべきだと思っている。」
「喜んでお聞きいたします。」
話の秘密を保つため、私たちは人目のない夜更けに御苑へ向かった。
私は彼を温室の花園へ案内し、以前セモニエとここで遊んだとき、偶然その箱を拾った経緯をありのままに話した。
「つまり、その箱はここで偶然拾ったということか?」
「はい。殿下が信じてくださるなら、事実はそれだけです。」
私は腰をかがめ、園丁の雑具が置かれた隅をもう一度調べた。そこにある物は、以前とほとんど変わらなかった。
「御苑は外部の客人には開放されておりませんから、この箱が誰にも見つからなかったのはそのせいかもしれません。」
「可能性はあるな。」
エドワルドは傍らで思案深げに立っていた。
「手紙の内容は君も知っている通りだ……私は、女公爵がここで密会していたと聞いて以来、この場所を避けていた。だが、一つどうしても気になる点がある。」
「箱の外見が焼け焦げたように黒く錆びついていたこと、でしょうか?」
「そうだ。本来ここに長く放置されていたのなら、埃まみれか土に埋もれているはずだ。君が言ったような状態になることはない。」
「ということは、誰かが意図的にここへ置いた……ということでしょうか。」
私はスカートを払って立ち上がった。
「まさか、わたくしに拾わせるためではないでしょうね?わたくし以外にも、ジャンヌ様や宮廷のご婦人方がここを訪れますし。」
「いや、むしろ君に拾わせるためだと思う。君と私の間に亀裂が入れば、皇室とヴァレン家の同盟関係は崩れる。」
温室の中に異常がないことを確かめ、私たちは歩みをそろえて外へ出た。夜の御苑はひどく静かで、私たちの声以外に一つの音もなかった。
ちょうどそのとき、月が薄い雲の間から顔をのぞかせ、柔らかな光を落とした。その光は彼の金の髪を照らし、そして私を見つめる瞳にも淡く映っていた。
「……君は、私と女公爵の過去をどう見ている?」
「立場を離れ、ひとりの人間としての意見でよろしいのですね?」
「うん。」
そよ風が茂みを揺らし、さやさやと葉の擦れる音が響く。その香りとともに、青々とした草木の匂いが漂った。
そういえば、殿下の身体からも時折、百合の花のような香りがする。まるで夜と暁の狭間に漂う、人を惑わせる香り。
「国家の皇子として、殿下は間違っておりません。殿下は醜聞を避け、異なる血筋が皇室に混じるのを防ごうとされた。愛する人と結ばれなかった女公爵は確かに哀れですが、婚姻への不満をあのような形で示すべきではありませんでした。彼女は自らと愛する人を共に滅ぼす道を選ばれた。
けれど、わたくしもまた、人を殺めることは正しいとは思いません。善良な者として、わたくしは殿下の罪に悲しみを覚え、神にそのお赦しを願うでしょう。」
「……君がそう言うと思っていたよ。」
エドワルドは肩をすくめ、少しだけ寂しげに笑った。
「まあいい。あれはもう過去のことだ。」
「ご安心くださいませ、殿下。この件を知るのは、殿下とわたくし、二人だけです。」
「正直なところ……君がすべてを見抜いてくれて、ほっとしている。私は長い間、この秘密をひとりで背負ってきた。親しい近衛たちでさえ、この真実を知らない。
最初に女公爵と出会ったとき、特別な感情はなかったけど、嫌いでもなかった。もし彼女が他人の子を宿さず、謀反に加担しなければ……こんな結末にはならなかったはずだ。
もう二度と、あんなことは繰り返したくない。裏切られ、そしてその相手を殺す――そんなことに意味はない。だが、やらねばならなかった……私は、帝国の皇太子だから。」
柔らかな雲のような髪が私の頬をかすめた。そのわずかに湿った金色の髪が、土と草の匂いに溶け合い、まるで霧の中の夢の囁きのように感じられた。
「私は自分のことをよく分かっている。他人をこの闇に巻き込みたくはなかった。だが君は、自ら足を踏み入れた。……ヘローナ。ならばもう、手放すつもりはない。」
「それなら……わたくしも、殿下と共に背負わせてくださいませ。」
――神よ、どうかエドワルド様をお守りください。
殿下の傍らに、もう二度と悲しみが訪れませんように。
彼の闇に触れたはずなのに、私はますます彼を愛おしく感じていた。
浅い青の瞳がわずかに驚いたように揺れたその瞬間、私はつま先立ちになり、唇を重ねた。
温かく、綿菓子のように柔らかな感触が唇に広がり、私はそっと目を閉じた。
それが策略なのか、本心なのか――
どうでもいいわ。
高鳴る鼓動が加速し、指先が絡み合い、二人の影は、夜明けを迎える空の下に溶けていった。
この瞬間、もう他の言葉は要らない。




