第7話 皇女の婚約
「そういえば、来週は戦争勝利一周年の記念日ですよね?」
「このところはジャンヌ夫人が宮殿の装飾を取り仕切っておられて、皆忙しくて仕方がないんです!」
「本当に時が経つのは早いものね。来週が記念日だなんて、気づきませんでしたわ。」
最近では私とも打ち解けたせいか、侍女たちはもう気を許して、宮中の出来事を遠慮なく話すようになっていた。そんな彼女たちの世間話を聞くのが唯一の気晴らしとなっていた。
皇太子妃という立場は、突き詰めれば外見だけの名ばかりのもの。
華やかな言葉を並べた宴の招待状を次々と書き上げる――その繰り返しで、私の仕事は終わる。
それ以外の、宴会場の飾りつけなどは数年来ずっと、ヴィリウス皇帝の寵姫ジャンヌ夫人が一手に引き受けており、私は新たな皇太子妃として、その手際をそばで見学し学ぶのが役目だった。義務的な用事を片づけたあとは、虚しさが押し寄せてくる。
だから、侍女たちの貴族社会の噂話に耳を傾け、少しでも退屈を紛らわせるのだった。
すべては平穏に進んでいるように見えた――
ただひとつ、この祝宴の主役を除いて。
その祝賀の宴は、ランスヴィル将軍の功績を讃えるためのものだった。
このことはすでに皇都の貴族たちの間でも広まっており、あとは彼に与えられるのが領地なのか、爵位なのか、皆が注目していた。
かつての暗殺未遂の折、私はその将軍の勇姿を目にしている。彼が並の貴族では太刀打ちできない人物であることは明らかだった。むしろ平民の出だからこそ、家の利害にとらわれず、全身全霊で皇太子に仕えることができるのだろう、とも思えた。
だが、彼を称えるはずの宴だというのに、近ごろその姿を見た者はいない。
――もしあの傲慢な将軍が突然「出席しない」と言い出したら、エドワルドはどんな顔をするだろうと。
この宴のために、彼は夜寝る前でさえ、こっそりと演説稿を取り出して何度も読み返していた。
私が寝たふりをしながら笑っていると、彼は半ば冗談めかして言うのだった。
「そんなに笑うなら、次は君が演説しろよ。」
そういえば、殿下から聞いた話では、今回の宴にはセモニエ皇女も参列するらしい。
本来なら直接お見舞いに伺うべきだったが、日に日に暑くなり、外出する気になれなかった。
そこで、彼女の体調を尋ねる手紙を書き、流行の衣服や宝飾をいくつか贈って済ませた。
時折、定期的に診察に来るフォスタスに彼女の様子を尋ねることもあったが、
彼はいつも歯切れの悪い答え方をした。――
皇女殿下はどうやら悩み事を抱えておられ、体調もすぐれないようですが、命に関わるものではありません、と。
私は特に気にも留めていなかった。
――あの夕暮れまでは。
祝宴の前日の晩、私は嬉々として自作の菓子を皿に盛り、書斎へ届けようとしていた。
そして偶然、耳にしてしまったのだ――あの会話を。
「俺のこと、あいつは心底嫌ってんだろ?こんな真似してみろよ、貴族どもの前で晒し者にするようなもんじゃねぇか。」
「この件については、私がすでに彼女と個人的に話をつけてある。今、皇族の血を引き、なおかつ未婚である者は彼女だけだ。あの古臭い貴族たちの口を封じるには、これしか手がないのだよ。」
「……あいつは納得したのか?」
「少なくとも、表面上はそう見える。だが――」
これ以上聞いてはいけない気がして、私は思い切って扉をノックした。言葉を発せず、手にした皿を机に置くと、そのまま踵を返して部屋を出た。
中にいた二人は私の背中が完全に見えなくなるまで、疑わしげな視線を向け続けていた。
胸の内で、ひとつの推測が形を取っていく。
たとえ断片的な会話でも、得られた情報は十分だった。
翌朝、私は侍女たちに捕まって、早くも着飾りの準備を始めさせられた。
次々に豪奢すぎるドレスを着せ替えられ、とうとう息が上がるほど疲れてしまい、
思わず悲鳴を上げる。
しかし侍女たちは、決意に満ちた顔で言い張るのだった。
「それはいけません、皇太子妃様。皇太子殿下が昨夜、特別に仰せつけになったのです。皇太子妃にふさわしい姿に仕上げろ、と!もう少しお試しくださいませ、きっと殿下にぴったりの礼服が見つかりますから!」
昼食のころになってようやく、青いベルベットの礼装に身を包み、髪に宝石をびっしりと挿した私の姿を見て、女たちは満足そうにうなずき、部屋を出て行った。
この過剰なほど豪華な衣装は本当に息苦しく、昼食も夕食もほとんど喉を通らない気がした。それに、来賓たちへの絶え間ない挨拶や応対で、頭がくらくらしてくる。だが、宮廷の料理長たちはさすがで、涼やかで目を覚ますような氷の飲み物を多く用意してくれていた。疲れたときにそれを一口飲めば、いくらか気分も回復するのだった。
夜が訪れ、壁の燭台に火がともり、宮殿中が光に包まれた。門をくぐる貴族たちの列は絶えず、宴会場にはすでに人の波が押し寄せていた。私は早めに、ジャンヌ夫人の隣に腰を下ろし、皇帝陛下と皇太子殿下が到着して宴を始めるのを待った。
皇帝の寵姫と並んで座っているとはいえ、多くの貴族が私に挨拶をしながらも、ジャンヌ夫人には冷淡な態度を取っていた。軽く会釈するだけで、ほとんど誰も彼女に話しかけようとしない。
私はそっと視線を向けた。
夫人は扇をゆるやかにあおぎながら、相手に軽くうなずき返している。
――きっと、この種の軽蔑にはもう慣れておられるのだろう。
しばらくして、セモニエ皇女が宴の間へ姿を現した。
長い淡金色の巻き髪は丁寧にまとめ上げられ、真紅の炎のような豪奢なドレスが、彼女の冷ややかな表情と強い対比をなしていた。
不思議なことに、彼女がこんな色を好むとは思えなかった。私の知るセモニエは、もっと静かで控えめな色を選ぶはずだ。
侍女が彼女の耳に何か囁き、周囲を見回したあと、彼女を私の隣の空席へと導いた。
声をかけようとしたが、彼女は一点を見つめ、まるで私の存在に気づいていないようだった。
――今は話しかけるべき時ではない。
そう思い直した私は、彼女の視線の先を追った。
そこに見えたのは、宮廷の礼装とはまるでそぐわぬ軍服姿だった。
その藁のような暗い黄色のポニーテール、そして黒い片眼の眼帯――
あれがランスヴィル。
よく見ると、彼の向かいで談笑しているのはルドヴィクスだった。またあの長けた社交術を駆使して、この日増しに勢力を拡大する将軍を懐柔しようとしているのだろう。
――あの神官の姿は見えない。だが、そもそも俗世の宴会に聖職者が出席していたら、そのほうがよほど奇妙だ。
宴の間では音楽が止まり、空気が一気に静まり返った。
人々の視線がいっせいに階段の上へと向かう。
そこから皇太子殿下が、皇帝陛下に続いて一歩一歩と降りてきたのだ。
貴族たちは一斉に彼らの方へ頭を下げ、皇帝は片手を上げて、皇太子に全体の進行を任せる合図をした。エドワルドは客人たちに一礼し、例によって定型の演説を始めた。
その内容は、聞き慣れたものだった。帝国がまだ封建諸侯に分かれていた時代、
統治がどれほど困難であったかを語り、続いて、三年前のキャストレイ王国との戦争がいかに帝国を窮地に追いやったかを訴える。そして声の調子を変え、今の平和がいかに尊いかを語る。
次に、彼は帝国に功績のあった家々や人物の名を挙げ、彼らの献身に感謝を述べた。中でもとりわけ、財政支援を行ったヴァレン公爵と、勇猛果敢で戦略に優れた護国卿ランスヴィルを強調した。この感謝の辞が終わると、彼は数秒間沈黙し、拍手がやむのを待ってから、再び話を続けた。
「――そして、本日もう一つ発表すべきことがある。」
視線が彼に集中する中、彼はまっすぐにセモニエ皇女の前へと進み、彼女の手を取った。
二人はあらかじめ打ち合わせたかのように、見事な呼吸で立ち上がる。
「我が愛しき妹、セモニエ皇女は、このたび十七歳となり、来年には婚姻可能な年齢を迎える。」
案の定、場内のあちこちから貴族たちのささやき声が上がる。
エドワルドが軽く視線を走らせると、そのざわめきは瞬く間に消えた。
「多くの諸卿が皇女への求婚を申し出てくださっている。だが――」
彼はわざと意味ありげにため息をつき、複雑な表情を見せた。
「諸卿も知ってのとおり、セモニエは父上が民間で失踪していた頃にもうけられた娘であり、昨年ようやく再会を果たした。そんな哀れな身の上の妹の生涯に関わることについて、私は彼女自身の意志を尊重したい。」
彼はさらに一歩近づき、恭しく身をかがめて呼びかけた。
「皇妹。」
その声は朝霧のようにやわらかく、掴みどころのない響きを持っていた。
「皆の前で、君が選んだ夫を教えてくれ。」
セモニエは表情を失ったまま頷き、先ほどと同じく鋭い視線で一点を見つめた。
人々はその視線を追い、誰が選ばれるのかと、またざわめき始めた。
「以前から護国卿閣下のご威名はかねがね伺っております。本日お目にかかり、まことに見事なお方だと存じました。」
その言葉が放たれた瞬間、皇女との縁談を望んでいた貴族たちは悟った。
――もう勝ち目はない。
皇室もランスヴィルも、どちらも手強い相手だ。文句を言ったところで、身の破滅を招くだけ。彼らは空気を読み、沈黙した。
ランスヴィルは遠くから細めた目でその少女を見返し、興味深げに笑みを浮かべながらも、一歩も近づこうとしなかった。
セモニエは、そんな彼の態度に挑発されたようだった。
私の席から近かったおかげで、彼女の指先がドレスのレースを握りつぶすほど怒りに震えているのが見えた。
エドワルドは腕を組み、黙ってそれを見ていた。
深い息を整えたのち、セモニエは高いヒールの音を響かせながら、ランスヴィルのもとへと大股で歩み寄った。
「この方です、皇兄様。」
彼女は自分よりはるかに背の高い男の腕をぐいと引き寄せ、貴族たちに向けて微笑んだ。
だがそれは明らかに作り笑いだった。
ランスヴィルももう、とぼけるのをやめた。翡翠のような瞳に愉快そうな色を宿し、皇女の腕に添えられた手を軽く包み込むと、恋人をいたわるような仕草をしてみせた。
「ご覧のとおりです、殿下。」
ランスヴィルはエドワルドに向かって声を上げた。
「この身に、妹君をお任せください。」
「よろしい。では皇女の意志に従い、本日をもって、皇女セモニエと護国卿ランスヴィル卿の婚約の日とする。諸卿も皆、この美しい瞬間を共に見届けよ!」
エドワルドは落ち着き払った顔で先に拍手をし、他の貴族たちもそれに倣って歓声を上げた。祝福の声が宴の間に響き渡っている。
すべてが噛み合っていないように思えた。
けれど、この三人が納得しているのなら、外野が口を出すことなどできはしない。
セモニエの瞳には明らかな憤りが宿っていた。
まだ若く、感情を隠すことを知らない。
それは、私だけでなく誰の目にも明らかだった。
――それなのに、なぜ彼女は自分から彼を選んだの?
それはまるで、自ら苦しみに飛び込むようなものではないか。
皇太子と護国卿の狙いは、最初からこれだったのだろう。
あの夜、書斎で聞いた会話――
二人の計画は、まさにこの劇を演じるためのものだったのだ。
だが、彼らは一体どうやって皇女を説得したのだろう?
どうすれば、あの誇り高い少女を、この舞台に立たせられるというのだろう?
私は思索に沈み、時間の流れを忘れていた。
気づけば、エドワルドが私の前に来て、手を差し伸べていた。
「今宵の最初の舞を――どうか私と踊ってくれ、愛らしくも美しいヘローナ。」
婚約が定まった男女が最初の曲を踊るのが習わしである。
当然、注目を集めるその一曲のあと、皇女と護国卿の番が来るのだ。
皇室の儀礼を間違えぬよう、私とエドワルドは何度も練習を重ねてきた。
幼いころから舞踏を学んでいたおかげで、私たちは見事に息を合わせていた。
私が時折、皇女のほうを気にして目をやるのを見て、エドワルドは回転の合間に、低くささやいた。
「見てごらん、皇妹がランスヴィル卿の足を踏んだ。」
「えっ……?」
「ふふっ。面白いだろう? あの二人。」
動きの合間に目をやると、金髪の少女の小さな反撃は失敗に終わり、危うく転びそうになっていた。長身の青年はすぐに彼女の腰を支え、より強く引き寄せる。返ってきたのは、間近で放たれる白い視線――冷ややかな睨みだった。
曲が終わると、エドワルドは私の手を取り、優雅に口づけを落とした。
私は彼に今後の予定を尋ねる。彼は微笑みながら、「もう特別な用事はない。あとは客人たちをもてなすだけだ」と答えた。
そのとき、聞き覚えのある声が会話を遮った。
「お邪魔しますよ、殿下。義妹を、少しの間お借りしてもよろしいですか?」
差し出された手の主はルドヴィクスだった。いつものように、拒む隙を与えぬ尊大な態度である。
久々に彼と踊ると思うと、胸の奥が少しざわつく。
「かまわない。もう彼女とは最初の舞を踊り終えたからな。」
エドワルドは不満げにルドヴィクスを一瞥した。その眼差しの奥に、わずかな嫉妬の色が見えた気がした。彼は小声で「酒を飲みすぎるなよ」とだけ言い残し、すぐに年配の貴婦人たちに囲まれていった。
私はルドヴィクスの手を取り、約六年前、彼が成人を迎えた祝いの夜に共に踊ったことを思い出していた。
ルドヴィクスが成人したとき、ヴァレン家は盛大な宴を開いた。西部の貴族だけでなく、皇都や他領の縁者までもが押し寄せた。あのとき彼は初めて私を隣に立たせた――だがそれは、彼が自分と私を「より高値で売り込む」ためだった。
最初の曲を踊る相手は、私だった。
軽やかなステップの裏で、かかとの裏には日々の練習でできた硬いマメが痛んでいた。彼は私よりもはるかに舞踏の才があり、短期間で完璧に踊りこなしていた。その上、私を導く手つきも見事で、私はただ従うしかなかった。
多くの人々が見ていると思うと緊張して足がこわばり、ただ体の記憶に頼って必死に彼のリードに合わせた。
私の硬さに気づいたのか、彼はそっと腰を引き寄せ、頬を私の耳元に寄せた。
「顔を上げろ。……君は、よくやっている。」
認められた喜びと誇らしさが、頬の熱となって溢れ出た。
「う、うん……!」
私は全身の力を振り絞って、その期待に満ちた緑の瞳を見返した。
普段、私たちは互いに距離を取って、血のつながらぬ「兄妹」として、節度を守ってきた。
けれどもこのときだけは違った。
目も、呼吸も、すべてがひとつに溶け合って、思考は遠のき、心は宙に舞っていた。
曲が終わると、彼は絹の手袋越しに、私の手の甲へ口づけを落とした。
その瞬間、私は自分が焼けつくように熱くなっていくのを感じた。
宴のあと、彼はひとりでバラの咲く庭へ行き、赤いワインを飲んでいた。私が見つけたときには、すでに花びらの海に倒れていた。
「滑稽だな……君の髪の色は、こぼれたワインの染みみたいだ。」
彼は酔った声で、私の左耳にささやいた。
「……はあ? 兄上の髪こそ、烏みたいに真っ黒で気味が悪いですわ。」
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、酔っぱらい相手に言い争っても仕方がないので、私は使用人を呼び、彼を部屋まで運ばせた。
だがその後、吐き気で苦しむのではと心配になり、私は勝手に彼の部屋までついて行った。ひとしきり介抱を終えて、ようやく彼は寝台に放り出された。使用人たちは去り、部屋には私ひとりが残った。
濡れタオルで彼の頬を拭き終え、蝋燭を吹き消して帰ろうとした、その時――
背後から、彼の腕が私を抱きしめた。
もし正気なら、彼は決してそんなことをしなかっただろう。
だがこれは、あってはならないことだ。
夢は、いずれ覚めなければならない。
「兄上、酔っておられますわ。」
「ヘローナ……」
彼はため息をつきながらも、腕を緩めなかった。
「誰よりも君を大切に思っている。だが、君はいずれ、私のもとを離れてしまうんだろうな。」
「兄上が望まれるなら、私はずっと傍におります。どこへも行きません。」
――だって、私の初恋だったのだから。
涙が無音のまま毛布に落ち、濃い色の染みをいくつも作った。
ルドヴィクスはしばらく沈黙し、私の泣き声で少しだけ酔いが覚めたのか、やがて腕を離した。
「これきり、そんな我が儘を言うんじゃない……君も分かっているだろう、最初から決まっていたことだ。」
私は首を横に振り、逃げ出すように扉を開けて部屋を飛び出した。
その後、私たちは二度とこの件に触れなかった。
彼が本当に忘れたのかどうかはわからない。
だが、今さら掘り返しても意味はない。
私は意識的に、その夜の記憶を心の奥底に封じ込めた。
もしかしたら、私が変わったのだろう。
あの頃と違って、もう胸が高鳴ることはない。
「おい、踊ってる最中にぼんやりすんな。前にも教えただろ。」
ルドヴィクスが小声で私の足取りを正した。私は慌てて意識を戻し、彼のリードに合わせた。
「ごめんなさい。さっきの皇女の婚約の件を考えていたの。」
「ふん……てっきり、皇太子と踊った余韻にでも浸ってるのかと思った。」
シャンデリアの光が彼の耳飾りのエメラルドに反射し、踊るたびに緑の煌めきが揺れた。彼は昔と変わらず派手な毛皮のマントを羽織っていたが、その肩幅は以前よりずっと広く見えた。
「殿下とは毎日顔を合わせておりますもの、余韻なんてありませんわ。」
「へぇ……もし私が、あの皇帝の愛妾なんか娶ってなかったら、皇女との縁談はヴァレン家がもらってたかもしれないな。――ま、少し本末転倒な話か。」
「それより、ジャンヌ夫人にご挨拶なさいました?」
「あの女に挨拶だと?そんなことしたら、この宴にいる貴族ども全員に――
“ヴァレン家の当主は、喜んで陛下に妻を差し出した間抜けだ”って思われるだけだろうが。」
「えっ?そういう理屈になるの?」
「まったく、皇太子妃になって何月も経つのに、人付き合いの勘は鈍いままだな、ヘローナ。」
音楽が緩やかに終わり、握り合った手が離れ、温もりが指先から消えた。
私は席に戻り、彼は人混みの中に溶け、見知らぬ貴族たちと談笑し始めた。
ジャンヌ夫人は皇帝の世話を焼いていた。彼女は自ら肉や果物を切り分け、一口ずつ彼に食べさせていた。仲睦まじい様子に、私はそっと視線を外した。
周囲の令嬢たちが私に話しかける内容といえば、以前の茶会と同じような退屈な話ばかり。一、二時間も聞けば、もううんざりしてしまった。
やがて夜が更け、貴族たちは次々と自分の屋敷へ帰っていった。
宴も終わりに近いと見て、私は体調が優れないと口実を作り、脇の回廊を通って抜け出した。
できるだけ早く自室に戻りたかったが、重い礼装と高いヒールのせいで、足が思うように動かない。
――そういえば、舞踏会が終わってから皇女殿下の姿を見ていない。
いったいどこへ?
もっとも、今会ったところで、うまく慰めの言葉などかけられる自信もない。
私たちは友人と呼べるのだろうか。
だが、彼女が自分の出自や将軍への憎しみを語らない以上、私のほうからその話を持ち出すつもりもなかった。
通りかかったその回廊は開放式で、庭園とつながっていた。草の香りがほのかに漂い、心を落ち着かせる。宴会場の中の煙草や酒、油っぽい食事の匂いよりも、やはり自然の匂いのほうがずっと心地よかった。
「パシン!」
鋭い音が、誰もいない回廊に響き渡った。
私は驚いて足を止め、あたりを見回した。
――誰がこんな夜更けに口論しているのだろう。
まさか、どこかの貴族夫婦の痴話げんかでは?
耳を澄ますと、たしかに女性の声が激しく上がっている。
男の声は低くて聞き取りにくい。
私は息を潜めて、音のする方へそっと近づいた。
「触らないで!」
女の声が、悲鳴のように鋭く響いた。
「勘違いすんな。お前が困ってるように見えたから、助けてやろうと思っただけだ。」
「たとえ困ってたって、あんたみたいな人に助けてもらう必要なんてないわ!」
「そんな冷たいこと言うなよ、皇女。俺様たちはもう婚約した仲じゃねぇか。」
――この声……!まさか、あの二人!?
私は胸の鼓動が早くなるのを感じながら、身を潜めて耳を澄ませた。
「……あんたを夫に選んだのは、この手で殺すためよ。いつか必ず、苦しみながら私の手で死ぬ日が来るわ。」
女の声は震えていたが、その言葉の刃は冷たく鋭く、微塵も揺らがなかった。
「ふん、そういうことか。つまり、あの皇太子はその理由でお前にこの話を飲ませたってわけだ。」
「な、何を――!」
次の瞬間、女の声が途切れた。
布ずれと押し殺した息の音だけが響く。
だがやがて、激しい咳き込みの後に再び声が戻る。
「……あんたという人は、なんて野蛮なの!そんなことを――!」
「俺様だって、女に手荒な真似はしたくねぇ。だが、相手が俺様に殺意を向けてくるなら話は別だ。」
「……」
「正直言やぁ、俺様はお前みたいなガキに興味はねぇ。だがな――ひとつだけ気になることがある。そんな愚かで弱いお前が、どうやって俺様を殺すつもりなんだ?」
「なあ、皇女ちゃん。――ギャンブルをしようじゃねぇか。」
「……ギャンブル?」
「婚約から結婚までの間に、お前が誰にも気づかれずに逃げ出すか、あるいは俺様を殺すことができたら、お前の勝ちだ。逆に、どっちもできなかったら――」
「その時は、お前のこれからの人生、まるごと俺様に捧げてもらう。」
短い沈黙ののち、女の声が、決意を秘めた低さで応えた。
「いいよ。」
その声は、水底に沈む石のように静かで重かった。
「傲慢で自惚れた護国卿閣下――覚えておきなさい、あんたなんかに絶対負けない。」
セモニエは鋭い言葉を投げつけ、足音高くその場を去った。
静寂が戻ったのを確かめて、私はようやく息を吐いた。
なんてものを聞いてしまったのだろう……
今の話の内容からすれば、皇女セモニエこそ、キャストレイ王家の血を引く者に違いない。エドワルドが言っていた「民間で育てた皇帝の娘」という話は、彼女の正体を隠すための作り話だったのだ。
だが、彼が嘘をついた理由も分からなくはない。この事実が公になれば、皇女の身はたちまち危険に晒される。キャストレイの残党が彼女の存在を利用して蜂起すれば、帝国は再び戦乱に巻き込まれるだろう。
それでも皇室が彼女を庇護しているのは――彼女が“血縁”だからに違いない。
祝宴が終わったのはそれからしばらく後のことだった。
つい数時間前まで人で溢れていた広間には、いまや数人の召使いが、残された食器や料理を片づけているだけだった。
部屋に戻ると、エドワルドはすでに眠っていた。さっき耳にした話は、いずれ彼に尋ねよう――そう思いながらも、今夜だけは黙っておくことにした。今日一日で、もう十分すぎるほどの出来事を見たのだから。
あんな水と油のような二人が婚約するなんて……?
もしそれが皇女に護国卿を殺す機会を与えるための策なら、殿下はまるで――
「獲物を使い捨てる狩人」そのものではないか。
……たとえそうでも、私はもう驚かない。
正直に言えば、私の見立てでは、皇女が逃げ延びることも、護国卿を殺すことも――そのどちらも成功する確率は限りなく低い。
殿下と護国卿は、おそらくその二つが決して起こりはしないと確信しているのだろう。
だからこそ、それを口実にして皇女を挑発し、この婚約を承諾させたのだ。
彼らにとって、皇女など所詮、籠の中で自由を求めて鳴く金糸雀にすぎない。
主人の庇護を離れた瞬間、その小鳥は餌を探す術も知らずに飢え死にするか、
あるいは外の獣に喰われてしまう――
その程度の存在としてしか見ていない。




