第6話 過去はまだ沈んでいる
パタ。
拾ったあの箱が床に落ち、自ずと開いた。
私は突然の音に驚き、慌てて身をかがめ、何か壊れていないか確かめた。
奇妙なことに、その箱の中には、数通の黄ばんだ手紙のほかには何も入っていなかった。
落ちた手紙を一通ずつ拾い上げるうちに、その手紙が帝国の公用語で書かれていないことに気づいた。
帝国の住民でないなら、いったい誰があんな御花園のような場所に、これらの手紙を落としたのだろう?
胸の奥に、言いようのない不安が浮かび上がってくる。
――この件、殿下にすぐ報告するわけにはいかない。
拾ったのは私なのだから、当然、責任を持って中身を調べるべきではないかしら……?
……すべては帝国の安全のために。
そう思いながら、その中の一通を開き、いくつかの文を抜き書きして、王立図書館で照合してみようと考えた。
最後の一文を書き写しているとき、ふと、手紙の末尾にある印章が目に留まった。
それは特別なものだった。帝国貴族が常に用いる印章は円形だが、この手紙の印章は菱形だったのだ。
……菱形?
記憶の中に見覚えのある模様が、まるで電流のように私を撃った。
思い出した。
――それは、亡き女公爵の寝室にあふれていた形。
当時は何も感じなかったが、よく考えると、あの宮殿の寝室も、カーテンの布地も、装飾品までも、すべて菱形の意匠で統一されていた。
しかもこの鉄の箱に嵌め込まれている紅玉は、北方公国の産物だ。
帝国とは異なり、あの土地の土壌は特殊で、産出される鉱石の多くが赤や橙など、明るい色調を帯びていることを、私は知っていた。
部屋の外で物音がして、私はすぐに警戒し、広げていた手紙を箱にしまった。
侍女に声をかけると、夕食の用意ができたとの報告だった。
私は軽くうなずき、「今は少し具合が悪いので、あとでいただくわ」とだけ答え、扉を閉めた。
――この箱……しばらくは手元に置いておこう。
エドワルドは、いつものように私と共に夕食を取った。
私は心の動揺を隠そうと、十二分に気を張りながら、どうか彼が何も異変に気づきませんようにと祈っていた。
なにしろ、最初から彼は私に警告していたのだ。――女公爵に関わることは禁忌だと。
私はセモニエ皇女と御花園を散歩した話をして、安心させようとした。
だが彼のほうもまた何か思い詰めているようで、上の空で相づちを打つばかり、ほとんど言葉を交わそうとしなかった。
そのあと、客人の応接があると言い残し、今夜は遅く宮に戻ると告げて部屋を出て行った。
去っていく彼の背中を見送りながら、私は心の底で自分の幸運をかみしめていた。
もしも彼が詳しく尋ねてきたら、私はきっと尻尾を出してしまっただろう。
私は侍女たちに食器の片づけを命じ、「新しい宝飾品を買いたい」と口実を作って金を渡し、彼女たちを宮の外へ買い出しに出した。
おそらく彼女たちは心の中で笑っていたに違いない。
小遣いを手にして、一晩自由を得られるのだから。
もちろん、衛兵の類はそう簡単に追い払えない。
同じ手を使えば、かえって殿下の疑いを招く。
そこで私は別の策を考えた。単刀直入に寝殿の外で門を守る衛兵に、「書庫で本を読みたいの、一緒に来てくださらない?」と頼むことにした。
書庫は宮殿とつながる小さな建物で、およそ二階建ての高さがある。もとは皇族専用の小礼拝堂で、古代の神学書や歴史文献が数多く残されていた。帝都大聖堂が建てられて以降は宗教儀式の場としては使われなくなり、純粋に蔵書を保管する場所となった。普段は無用の者が立ち入ることは許されていない。
私に従う二人の従者も、どうやら初めて訪れるらしく、並び立つ書架の壮観さや、山のように積まれた本の量に、口々に感嘆の声を上げていた。
入口にいる書籍管理官に身分と用件を伝えると、彼は親切に言語学関連の書棚の所在を教えてくれた。私は軽く会釈して礼を述べ、ドレスの裾をつまんで早足でそちらへ向かった。
背後から、管理官が従者たちを制止する声がかすかに聞こえ、私は心の中で「助かった」と呟いた。
おそらく、従者たちの剣や甲冑が本を傷つけるのを恐れたのだろう。身分の低さもあり、彼らは書庫の内部に入ることを許されなかった。
私は言語学の書棚を探し当て、帝国語の背表紙を指でなぞりながら素早く目を走らせた。
そして、《北方諸国語》という本を抜き出す。
北方語を狙っていると悟られぬよう、念のため《南部沿岸地域の民族言語》や《西部地方方言の特徴》など、他の地域の言語書も数冊取り出した。
それから、あの厄介な鉄の箱を近くの書籍の裏にそっと押し込んだ。
――大丈夫。誰かがわざわざ点検しないかぎり、見つかることはないはず。
私はそれらの本を借り出し、さらに管理官にこう頼んだ。「しばらくの間、言語学の書棚は整理しないでおいてほしいのです。」
「なぜですか?」と彼が尋ねるので、私はとっさに嘘をついた。
「この本を読み終えたら、同じ棚から他の本も借りたいのです。もし順番が変わってしまうと、元の位置がわからなくなってしまいますから。」
「これらの書物は年に一度しか整理されません。頻繁に動かすとかえって傷みますので、短期間で順序が変わることはありません」と、管理官は説明してくれた。
ずっと張り詰めていた心が、ようやく少しだけ落ち着いた。
私はそれらの本を抱えて寝殿へ戻ると、すぐに《北方諸国語》を開いて夢中で読みふけった。
エドワルドが私の名を呼んだとき、ようやく現実に引き戻された。
「まさか、お前が言語学に興味を持つとはな。」
彼はからかうように言い、私の傍に寄って、数冊の表紙をめくってみた。
「北方諸国?あの公国は数年前にすでに帝国の一部になった。さらにその北は、文明の及ばぬ蛮族の地だぞ。そんなものを読む意味があるのか?」
「もちろんですわ。わたくしが一番知らない領域だからこそ、興味があるのです。」
私はそっと本を閉じ、落ち着いた顔で答えた。
「ご存じのとおり、西部や南部のことは、わたくしの出身とも関わりがあります。ですから、まだ知らない文化を学び、いざという時の備えにしたいのです。もし数年後、蛮族との外交が必要になったらどうなさいます?」
「なるほどな。どうせ他にすることもないのだ。学ぶのは良いことだ。」
思いがけず柔らかな口づけが眉間に落ち、私は一瞬、心がふわりと遠のいた。
――彼をだますつもりはない。
けれども……私は自分のために、この真実を追わずにはいられない。
「そろそろ休もうか。」
「はい……おやすみなさいませ、殿下。」
書庫と皇宮を往復する日々は、あっという間に過ぎていった。
ある日、兄上のルドヴィクスが突然、私の寝室へ押しかけてきた。
前の晩、殿下の不在をいいことに、私はまた夜更かしして、あの暗号めいた手紙の解読を続けていたところだった。
だから、彼が来たとき、私は深い眠りの中にいた。
「元ヴァレン公――あの老いぼれが……とにかく準備しろ。私と一緒に行くぞ。」
夢うつつの間に、侍女たちはすでに彼の命令どおり、やや仰々しい正装のドレスに着替えさせていた。
何年も前から元ヴァレン公と交わりを絶っていた彼が、なぜそんなに慌てて会いに行こうとするのか、私には理解できなかった。
私がヴァレン家に養われて以来、ずっとルドヴィクスと共に暮らしてきたが、元ヴァレン公とは血のつながりもなく、ほとんど面識もない。
彼に取り入ろうとしたこともない。――それなのに、なぜ私まで同行しなければならないの?
だが法的には、私はすでにヴァレン家の娘であり、兄と共に名目上の父を見舞うのは理にかなっている。
あるいは、今の私が皇太子妃という立場にあるからかもしれない。
国民に「孝順で礼儀正しい」姿を見せるため、というやつだろうか……
宮殿の門を出るとすぐに、ルドヴィクス専用の馬車が待っていた。
彼は中からカーテンを少し開け、早く乗れと目で合図を送ってきた。
まるで長いあいだ待たされたとでも言いたげな表情だ。
急な呼び出しで着替えに時間がかかったのは仕方ないのに、どうしてそんな不機嫌な顔をするのかしら。
「いったい何が起きたの?」
彼が何か憂えている気がして、私はおそるおそる尋ねた。
ルドヴィクスはいつもの派手で軽薄な態度をかなぐり捨て、
眉間に深いしわを寄せたままだった。
「正直、どうすればいいのかわからない。……はは、こんな感覚は何年ぶりだろうな。妙な気分だ。なあ、知っているか?元ヴァレン公は、もうすぐ死ぬ。」
「えっ?重い病気なのですか?」
思わず口を手で押さえた。
私がヴァレン家に来てからもう十年近く。ルドヴィクスは私より五、六歳年上で次男。
元ヴァレン公の年齢を考えれば……たしかに病を患ってもおかしくない年頃だ。
「酒の飲みすぎが原因らしい。……以前は何ともなかったのに、ここ数日で急に悪化して、
もうまともに言葉を発することも難しいらしい。」
私は自分の父を思い出した。
大半の記憶はもう霞んでいるが、ただひとつ――母が私を連れて家を出たとき、
壊れかけた門の向こうで、茫然と立ち尽くしていた父の表情だけは、今もはっきり覚えている。
それが、彼との最後の別れだった。
「兄上……お父上はきっと大丈夫です。」
「いつ私が“無事を願ってる”なんて言った?」
ルドヴィクスはぼそりと吐き捨てた。
「むしろ、さっさと死んでくれたほうがいい。ヴァレン家の名誉を汚さずに済むしな。
それに、これまで一度だって、あの男は私のために何かしてくれたことなどない。」
ルドヴィクスはそっぽを向き、それ以上語ろうとしなかった。
元ヴァレン公の邸は、皇都の中心に近い、にぎやかな地区にあった。前に殿下と出かけた市場にも似た場所だが、こちらには酒場が多い。
馬車から降りると、あちこちから驚きとひそひそ声が上がった。どうやら貴族の中でも、わざわざ彼を訪ねる者は珍しいらしい。
ルドヴィクスは舌打ちし、周囲の野次馬を睨みつけて、何事もなかったかのように大股で屋敷の門へと歩み出した。私はスカートをつまんで小走りに追いかけ、耳に入るざわめきを聞こえないふりをした。
応対に出た老僕はルドヴィクスを知っているらしく、何も言わずに私たちを部屋の前まで案内した。扉越しに、かすかな呻き声が聞こえてくる。
「……ああ、神よ……お赦しを……」
「公爵様、若君がお見えになりました。」
年老いた使用人が扉を開けると、黙って下がった。たちまち、酒と食べ物、病の臭いが入り混じった悪臭が鼻を刺した。思わず口と鼻を押さえ、二歩ほど後ずさる。
ルドヴィクスも顔をしかめ、私にここで待てと手で合図をして、一人で奥の寝台へと歩いていった。
「……父上。」
広い絹の掛け布の下には、油の尽きたようにやせ細った体が横たわっていた。ルドヴィクスの声に反応して、焦点の合わない瞳がかすかに動く。
「イライザ……アレクス……誰かが、私を呼んでいる気がする……」
ルドヴィクスはため息をつき、寝台のそばまで歩み寄り、父の顔を見せようとした。
「父上。私です、ルドヴィクスです。」
「ルド……ルドヴィクス……」
老人はその名を繰り返し呟き、しばらく躊躇したのち、息子を見つめ、輪郭を確かめるようにまばたきをした。
「違う、お前はあの子じゃない。」
元ヴァレン公は首をめぐらせ、窓の外を見やりながら、遠い記憶をたどるように言った。
「あの子はここにはいない……あの子は西部領の古い屋敷にいる。緑に覆われた谷間の……」
「私はもう皇都に来て久しいんですよ、父上。」
ルドヴィクスの声には、押し殺した感情がにじんでいた。
かすれ、震えている。
「皇太子の婚礼でお目にかかった時、あなたは私を見るなり背を向けた。――覚えていませんか?」
「そうだ、もしルドヴィクスを産まなければ……イライザは私を離れなかったのに……」
老人は支離滅裂に呟き続け、その言葉がルドヴィクスの瞳にさらに深い影を落とした。
「アレクスも、あんなに幼くして……」
「二人とももう、ずっと前に亡くなりましたよ。」
彼は低く呟いた。それが父に向けてか、自分に向けてかはわからなかった。
「きっと近いうちに、あなたもあの人たちのもとへ行くでしょう。」
「最期くらいは、あなたに紹介したい人がいます。」
ルドヴィクスは独り言のように言い、まるで父に何かを証明しようと決意したかのように、私に手招きした。
私は息を殺して、一歩ずつ前へ進む。
「おそらくご存じないでしょうが、彼女はあなたの近しい血縁です。名はヘローナ。今の皇太子妃です。」
「はじめまして、お父様……?」
くすんだ瞳に、一瞬だけ光が戻った。
元ヴァレン公は、まるで生気を取り戻したかのように上体を起こした。
「イライザ……!イライザ!」
彼は激情に駆られ、亡き妻の名を叫びながら、火に飛び込む蛾のように私を見つめた。
「おお……また会えると、あなたは言っていた……本当だったのか……!」
父が錯乱して私に危害を加えるのを恐れてか、ルドヴィクスは反射的に私を背後へかばい、耳元で「もう行こう」と囁いた。
私は振り返って元ヴァレン公を見た。彼は再び生気を失い、虚ろな目で、さっきまで私が立っていた方角に手を伸ばし、口の中であの名を繰り返していた。
「父上、彼女は母上ではありません。」
ルドヴィクスは冷ややかに立ち上がり、もう父の記憶を呼び戻すのは不可能だと悟ったようだった。
「母の髪は橙色でしたよ。それすら覚えていないとは。」
「……最後にひとつだけ伺います。何か言い残すことは?」
元ヴァレン公は黙り込み、ただ窓の外を見つめたまま、やがて何の音も立てなくなった。
ルドヴィクスは父が再び虚ろになったのを見て、もう床辺に留まることをやめた。彼は理想を掲げる聡明な男であり、欲する答えを、呆けた老人の口に求めようとはしなかった。
屋敷を出る前、ルドヴィクスは「先に馬車で待っていろ」と私に言った。
彼は執事らしき男に、元ヴァレン公の死後に関する段取りを話しているようだった。おそらくこの屋敷も、使用人たちも、いずれルドヴィクスの財産となるのだろう。
帰り道、彼の表情は晴れなかった。
私が何か言いたげに彼の方を見ていると、彼は眉をひそめて不満げに言った。
「そんなにおどおど私を見るな。言いたいことがあるなら言え。」
「……よろしいのですか?次にお会いしたときにでも――」
「何を言いたいのか、わかっているさ。滑稽だろう?実の父とこんな関係になって、最後の会話がこれだなんて。」
彼は私の懸念を無視して、自嘲気味に笑った。
「時々思うんだ。妙な噂を真に受けて、唯一の血のつながりを遠ざけたあの頑固者が、本当に私の父親と呼べるのか、って。」
「ヴァレン家が再び皇室の信任を得たのは、私一人の力だ。領地にいた頃、どんな難しい商談もまとめてきた。あの男の価値は、高貴な血を与えただけ――それだけだ。」
「……それでも、やっぱり納得できない。」
肩をかすめていくような吐息が、微かな風のように耳を撫でた。
これまで、重圧に耐えながら一人でのし上がってきた彼は、心のどこかで、父に認められたいと願っていたのだろう。
だが、それが全てではない。
彼は常に自分中心の男だ。
結局すべては――自らの才覚を世に示すため。
「でも、元ヴァレン公がまだ家族の名前を覚えていたのなら、少しは望みがあるのでは?」
「暴れなかっただけで感謝すべきだな。」
ルドヴィクスは目を細め、腕を組み、眠りに落ちるような顔をした。
「官僚仲間からも聞いたことがある。――年を取るってのは、本当に惨めなもんだ。」
「せめて、病人の苦痛が少しでも和らげばいいのに。」
「もういい、後のことは後で考えよう。今は少し休む。静かにしてくれ。」
書庫で本を借りるとき、私はときおりフォスタスと顔を合わせることがあった。
毎週日曜の午後一時、教会の鐘楼から安心を誘う鐘の音が響くと、「ああ、神の子と呼ばれる若き司教がやって来る時間だ」とすぐにわかった。
診察のときに世話になった縁もあり、私は彼に声をかける理由を持っていた。寡黙な人だと思っていたが、意外にも私と話すのを嫌がらないようだった。何度か言葉を交わすうちに、私たちは自然と友人のような間柄になっていた。
たいていの場合、彼は皇都大聖堂の尖塔で古文書を研究したり、礼拝堂で祈祷を司ったりしている。ただ、日曜の午後だけは束の間の休息を与えられる。その貴重な休みさえも、彼はこの書庫で古書を調べることに費やしていた。
「えっ?では、休む時間まで学び続けておられるのですね……さすが博識の主教様ですわ、本当に尊敬いたします。」
「まあ、私にとって読書は休息の一つでもあります。それに、皇太子妃様はご存じないかもしれませんが、私が借りておりますのは、実は分かりやすい民俗学の読み物ばかりでして……」
フォスタスは少し気恥ずかしそうに手にしていた本を差し出した。
その表紙には、堂々と《帝国秘史――覇道皇帝と亡国の妖妃》と書かれていた。
……
「こ、これは……小説ではありませんの?」
「私、小説というものを読んだことはございませんが、きっと違いますよ。ご覧ください、この本の巻末には参考文献の一覧が付いております。」
よく見ると、確かにこの書物は、いくつもの文献を引用してまとめられたものであった。
私は中をぱらぱらとめくり、内容が題名ほど誇張されていないことを確認して、ようやく胸をなで下ろした。
「ほっ……驚きましたわ。中身がまともで本当に良かったです。」
「“まともでない内容”とは、どんなものなのでしょう?」
「うまく説明できませんけれど……とにかく、フォスタス卿のような心の清い方が読むものではございませんわ。」
「はは……」
フォスタスは私の言葉に思わず笑みをこぼした。
普段はまるで石膏像のように無表情なその顔に、こんなに生き生きとした色が宿るとは思わなかった。
「実は、私にも皇太子妃様がおっしゃる“まともでない内容”の意味はわかります。私、一応は医師でもありますから。そうした知識がなければ、患者を助けることもできません。」
「そ、そうですわね……」
私は少し気まずくなり、髪を耳にかけた。
「こうした民俗文学に関心を持っておりますのにも、理由がございます。」
彼の煉瓦色の瞳に、かすかな哀しみの影が揺れた。
「皇太子妃様もご存じでしょう、私の身の上を。私は孤児でございました。現教皇様に拾われ、育てていただいた身です。ですが……私はどうしても、自分がどこから来たのかを知りたいんです。たとえ断片的な手がかりであっても、見逃したくはありません。」
「フォスタス卿……」
私は口を開いたものの、どう慰めてよいか分からなかった。しばらく考えてから、そっと彼の肩に手を置いた。
「私は孤児ではございませんけれど、幼いころに両親と離れ離れになりました。
だから、あなたの執念は少し分かる気がします。でも……本当に覚悟はおありですか?ご両親を見つけたとして、もしも理想とかけ離れた方々だったら、どうなさるおつもりですか?」
「私、後悔はいたしません。」
「では……一日も早く見つけられますように。」
「ありがとうございます、皇太子妃様。ところで――皇太子妃様も最近、民俗学に関する本をお読みとか。北方諸国の文化を熱心に研究されていると伺いましたが、何かきっかけでも?」
――きっかけ……?
まさか、あの出所不明の手紙のためとは言えない。
「いいえ、ただ、帝国の各地の風習にまだ不案内でしたので。エドワルド殿下にふさわしい者になるには、そうした知識も必要だと思ったのです。ですから、まずは最も知らない北方の言語から始めて、習熟したらほかの地域の文化にも目を通そうかと。」
「そのようなお心がけなら、エドもきっと喜ばれるでしょう。ただ、もし北方語の習得でお困りになっても、今では助言できる者がいないのが難点ですな。」
「どういうことでしょう?」
「ご承知のとおり、エドの前妻――亡きシャリン女公爵は北方の出身です。彼女の死以降、北方に縁のあった貴族たちは次々と失脚し、領地へ戻ってしまいました。さらに……これは噂でしかありませんが、北方の反帝勢力はいまだ完全には鎮まっておらぬとか。」
私はうなずいた。
政治というものはなんと複雑なのだろう。
そんな渦中にいるエドワルドが、どうしてあれほど平然としていられるのか。
きっと数多の苦難を経て、今の余裕を得たのだろう。
「私は兄の庇護のもとで生きてきましたから、帝国の他の地域がそんなに危ういとは知りませんでしたわ。」
「西部領は特に安定しておりますからね。皇太子妃様が政務をお執りにならない以上、ご存じなくても当然です。」
しばらく雑談をしたあと、フォスタスは必要な本をすべて揃えたと告げた。
別れの挨拶を交わし、私はすぐに駆け足で、あの紅玉の鉄箱を隠した書棚の前へ向かった。
――よかった、まだある。
私はほっと息をつき、近くの言語学関連の本を数冊手に取り、
これからの勉強用として持ち帰った。
「――それで、フォスタス卿。教えてくれ、私の愛しい妻は、最近あの書庫で何をしているのかな?」
エドワルドはいつものように目を細めて笑っていた。
だがフォスタスは知っている。
彼がこの笑みを浮かべるときは、たいてい苛立ちを押し殺している時だということを。
「はあ……何度申し上げればよろしいのでしょう。皇太子妃様はただ、各地の文化研究に熱中しておられるだけでして、他に不審な点はございません。」
「ふむ……」
「むしろ殿下のほうこそ、お気を静めくださいませ。私がこうして申し上げるのは友としての言葉です。――ご自身の奥方を疑うのは、おやめになるべきです。皇太子妃様は誠実で正直、時に少し天真爛漫なお方。殿下を裏切るような真似をなさるはずがありません。過去の出来事に囚われておられるのかもしれませんが、彼女をお信じになる時です。」
「……そこまで彼女を擁護するとは。」
エドワルドは微かにため息をついた。
「たしかに、私が少し神経質すぎたのかもしれないな。ではこうしよう、フォスタス卿。あなたも一緒に、あの書棚を確認してくれ。何の異常もなければ、もうこの件は追及しないと約束しよう。」
しかし、数冊の本を引き抜いた途端、紅玉の鉄の箱が二人の視界にあらわになった。
「こ、これは……アスカーナ人の持ち物では……?」
「言っただろう、フォスタス卿。どんな小さな異変でも、その背後には爆弾が潜んでいるものだと。」
エドワルドは箱を取り上げ、中の数通の手紙を取り出した。
二人で簡単に目を通すと、再び元の場所に戻した。
「……しかし、どこにも皇太子妃様の持ち物だという証拠はありません。ただ長年この書架の裏に忘れられていた可能性もあります。」
「そうだな。だからこそ、今もっとも厄介なのは――皇太子妃がこの存在を知り、調べているかどうかを証明することだ。」
「もしある日、皇太子妃様がその手紙の内容について殿下に尋ねてきたら……エド、あなたはどうなさいます?」
「さあ、どうだろうな。」
エドワルドは伏し目がちに微笑み、その瞳の奥にかすかな迷いと影を浮かべた。
「なぜだか分からないが――私は、彼女を許す気がする。……けれど、彼女が私の過去を受け入れるかどうか、それはわからない。」
「……願わくば、神の加護が常にあなたの傍らにありますように。――我が友よ。」




