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第1話 誰のために微笑んでいたのか

「あなたの番ですよ、ヘローナ。」

淡い金髪の男が、指先で黒檀のチェスの駒を弄びながら、どこか含み笑いを浮かべて私を見つめていた。その蒼い瞳は、六角の雪片よりも透きとおっていて、目を逸らすことができないほど美しい。

けれど、その瞳に映っているのは、決して“私”ではない――最初から分かっていた。

皇太子妃、あるいは未来の皇后という座に誰が座っていようと、彼は変わらぬ礼節で接するだろう。それは愛情からではなく、ただ彼の教養と習慣のゆえに。

「殿下、わたくしは……チェスがあまり得意ではございませんの。」

「だからこそ、楽しみなんだ。君がどんな手でこの局面を打開するのか、興味がある。」

エドワルド様は優雅にティーカップを手に取り、静かに一口啜った。張り詰めた空気の中に、咲き誇る薔薇の香りがほのかに漂っている。

「花開くか、滅びるか――それは君次第だ。」

もし最初から互いに何の期待も抱かなかったなら、別れもいずれ、初めて出会ったときに揃って口にしたあの「ごきげんよう」と同じように軽いものだったのでしょうね。

けれど、私にはそれができなかった。哀れな政略結婚の駒として利用され、陥れられ、静かに幕を閉じる――そんな生き方を、私は絶対に受け入れたくなかった。

「殿下のお期待を、裏切りませんわ。」

深く息を吸い込み、まっすぐに彼を見据える。この宮廷での試練が始まったとき、私はすでに決めていた。

「たとえ道の果てが滅びであっても……華やかに幕を下ろしてご覧に入れます。」


――私、ヘローナ・ヴァレン。

九歳のときヴァレン公爵の養女となり、義兄ルドヴィクスによって皇室との縁を結ぶための道具として育てられた。

成人を迎えた年、私はエシュガード帝国の皇太子、エドワルド様の妻となったのだ。

私のいるエシュガード帝国――その名の通り、エシュガード家が創建し支配する帝政封建の国であり、そしてヴァレン公爵家が代々護り続けてきた祖国でもある。

帝国の政治制度は、古くからの慣例に従い、封建的な分封制を今も維持している。数百年のあいだ、幾度もの外敵侵入や内乱を経験しながらも、皇権は巡り巡って常にエシュガード家の者たちの手に戻ってきた。

今知られている限り、皇帝ヴィリウス陛下はすでに政務から身を引いており、実質的に帝国を治めているのは唯一の嫡子、皇太子エドワルド・エシュガード殿下である。

――あなたはきっと、不思議に思うでしょう。

身分の低い養女にすぎない私が、どうして帝国で最も権勢を誇る男の婚約者となれたのか、と。

その答えについては、世間でいくつもの憶測が囁かれている。

ある者は、上等なワインのように艶やかな髪色と、ヴァレン家の血を思わせる紫水晶の瞳こそが理由だと言う。

またある者は、養女であろうとヴァレン家の名を冠するだけで、銅の鉱石が金に見える――皇室といえども、金として受け取るしかないのだと皮肉る。

どんな説であれ、避けては通れぬ言葉がひとつある。

それは「ヴァレン家」。


私とヴァレン家の縁を語るなら、義兄ルドヴィクスとの出会いを抜きには語れない。

そのときの情景を、今でもはっきり覚えている。

私の父の家系は、もとは帝国南部でも有数の有力貴族だった。けれど南部の反乱戦に関わったとして罪を着せられ、次第に没落していった。領地の多くは没収され、新興貴族たちに分け与えられ、税の収入も半分以上失われた。

私の家は、かろうじて連座を免れた分家だったため、貴族としての体裁だけは保っていた。だが父は浪費癖の激しい人で、自分の欲望のままに酒やギャンブル、女遊びに溺れた。私が生まれてまもなく、家の財産はすべて消えた。

母はそんな父を見限り、地獄のような家から私を救おうと決意した。そしてある夜、私を連れて彼女の実家――帝国西部で最も力を持つヴァレン公爵家へ向かった。

母も貴族ではあったが、ヴァレン家の分家に生まれた私生児であり、本家ではまったくの無力だった。彼女が生かされていたのも、いずれ政治的な婚姻に利用するため。父との結婚もその一環にすぎなかった。母は父を愛していなかったが、紫の瞳を持つ私を心から愛してくれた。

本当なら、母は私と共に穏やかな一生を送りたかったのだろう。けれど父の堕落が、その願いを無惨に壊した。父の裏切りを知った母は病に倒れ、日に日に衰弱していった。だからこそ、彼女は最後の力を振り絞って私を連れ出したのだ。

あの夜は大雪が降っていた。馬車の中で、母と身を寄せ合って眠った。鞭の音が風の唸りと混じり、遠くへ消えていく。私はどこへ行くのかも知らず、ただ温かい場所で眠りたかった。あるいは、少しでもお茶菓子を食べたかった。

どれほど走ったのか、馬車が止まったとき、母の優しい声に呼ばれて目を開けた。カーテンをそっとめくると、目の前に広がっていたのは、豪奢な屋敷だった。母は慌てて身なりを整え、何かを決意したように私の手を強く握り、屋敷の鉄の門へと歩き出した。

私たちは侍従たちに案内され、執事らしき人物の前に通された。母は意図的に私を少し離れた場所に立たせ、二人だけで話をした。その内容はほとんど覚えていない。ただ、母がひどく低い姿勢で頭を下げていたこと、そして執事が私たちを値踏みするような目で見ていたことだけは覚えている。

その視線が怖くて、私は無意識に粗末なワンピースの裾を握りしめ、なるべく目立たないように隅に立っていた。

大人たちの話が行き詰まったそのとき、廊下の奥から、澄んだ――けれど鋭い声が響いた。

「これは、どういうことだ?」

思わず母の方を見た。母と執事は同時に膝を折り、十四、五歳ほどの少年に深々と頭を下げた。

「少公爵様」――彼らはそう呼んでいたらしい。

彼を見た瞬間、私は息を呑んだ。自分の置かれた状況を忘れ、ただ呆然と見つめてしまった。今思えば、ただ単純に――彼があまりにも美しかったからだ。

漆黒の巻き髪に、紫水晶のような瞳。その容姿だけで、彼が高貴な血を引くことが分かった。黒の外套に散りばめられた翠の宝石と銀の装飾。でも、それらの飾り立てられた美しさなんて、彼が放つ圧の前ではただの添え物にすぎなかった。

彼の美は、これまで見た誰のものとも違う。生まれつきの整った顔ではなく、内からあふれる――すべてを掌握する者の輝きだった。

母と彼は何かを取り決めたようだった。ルドヴィクスはちらりと私を一瞥し、興味なさそうに視線を逸らす。私は慌てて母を真似し、深く礼をした。

母は彼に何を話したのだろう……?

そんなことを考える暇もなく、執事に促されて私は彼の前に連れてこられた。母の姿を探してきょろきょろしても、どこにも見当たらない。

「下がっていい。」

美しい少年は、執事にそう命じた。

扉が音を立てて閉じられる。ひとり残された私は、不安と恐怖と羞恥で胸がいっぱいになった。知らない人と二人きりで、どうすればいいか分からない。震える手でスカートの裾を握りしめ、息を殺す。

「顔を上げなさい、哀れな遠縁のいとこよ。」

言われるままに顔を上げると、そこにはまるで闇の森に棲む妖精のような少年がいた。彼は高い椅子に優雅に腰掛け、白い指で頬を支えて私を見下ろしている。

「そんなに怯えなくていい。呼んだのは、少しばかり話しておきたいことがあったからだ。今の君は――せいぜい壊れた置物程度にしか見えないが。」

白い指が頬を支え、唇に少年らしい皮肉な笑みが浮かぶ。

「ねえ、君はヴァレン家の人間になりたいのか?君の母親の出自だけでも十分卑しいというのに、今さら私にそれ以上の“汚れ”を受け入れろと言うのか……。だが、家の序列からすれば彼女は一応私の年長だ。貴族としての義務上、頼みを無視するのも不義理というものだろうね。」

幼いながらも、母のあの様子を見て私は察していた。彼女は助けを乞うていたのだと。

「私たちを……引き取ってくださるのですか?」

私はおそるおそる、しかし真っすぐに問いかけた。

「君にふさわしい身分をどう与えるか、考えあぐねていたところだ。」

彼は立ち上がり、私の前に歩み寄る。小さな顎を指先で持ち上げ、まじまじと私の顔を見た。その視線がくすぐったくて、恥ずかしくなる。

しばらく私の顔を観察したのち、彼は少しだけ興味を持ったように微笑んだ。

「出自は残念だが、飾りとしてはまあまあ合格だ。粗野な下僕どもよりは少しマシだろう。よし、名義上だけでもヴァレン家の人間にしてやる。ただし――ヴァレン家になる以上、過去のすべては忘れろ。それができるか?」

幼い私はしばらく黙りこんだ。だが、父の冷たい目と、母が涙をこらえていた顔を思い出し、もう迷いはなかった。

「ヴァレン家の人になれば……もういじめられませんか?」

「もちろん。それは保証しよう。」

「兄さまのように……強くなれますか?」

「ふむ……意外なことを言うね。強くなれるかどうかは君次第だが、真面目に学ぶなら、私もできるかぎりの手は貸そう。」

「……なりたいです。」

母に教わった礼の仕方を思い出しながら、スカートの裾をつまんで深く一礼する。

「これから、わたくしのすべてをヴァレン家に、そしてあなたに――親愛なる兄上様に捧げます。」


ルドヴィクスに引き取られたあと、私は母と再び会うことを禁じられた。

おそらく、過去を完全に断ち切らせるため――あるいは、私の将来が母によって左右されないようにするためだろう。

それでも節目の時期には、彼の許しを得て手紙だけはやり取りできた。母は無事で、郊外の屋敷に住まいを与えられ、生活にも困っていないと書かれていた。

最初のころは、母を思い出して眠れない夜になると、執事や侍女に泣きついた。

彼らはどう扱えばいいのか分からず、結局ルドヴィクスに相談したらしい。

ある晩、彼は納税書類を手に持ったまま私の寝室にやって来た。

その双眸には疲れと諦めが混じっていた。

「まったく、情けない。」

そう言って白いハンカチを差し出し、涙を拭けと促した。

「何度言えば分かる。ヴァレン家の人間たる者、常に優雅であれ。今の君の顔は、落ちぶれた子犬のようだ。貴族らしさの欠片もない。」

「でも……お母様に会いたいのです……うっ……」

私は涙を乱暴に拭いながら、小さな声で抗議した。

夜更けだったせいか、彼の声は低く、柔らかかった。

「私が君の年の頃には、もう一人で眠れた。私の手で育てる者なら、それくらいは当然できるようになれ。」

「兄上様は、夜の闇が怖くないのですか? おばけとか……」

「昼間にもっと本を読め。くだらぬ妄想をする暇もなくなる。たとえこの世に化け物がいたとしても、この屋敷には現れない。」

慰めの言葉も、優しい口づけもなかった。

ただ、部屋を出る前に彼の指が私の頬をなぞった。

その感触は、猫の尻尾の先に触れたように柔らかく、微かに温かかった。

結局その夜、私はなかなか眠れず、翌日の礼法の授業で危うく失態を犯すところだった。


そういえば、ルドヴィクスの両親に会う機会はほとんどなかった。

身の回りの世話をしてくれる使用人たちによれば、公爵と彼の仲は決して良好ではないらしい。

もともとヴァレン公爵には二人の息子がいた。長男は病弱で幼くして亡くなり、その死によって次男のルドヴィクスが家督を継ぐことになった。

長男の死から間もなく、二人の母である公爵夫人も病に倒れ、世を去ったという。

そのときルドヴィクスはまだ十歳ほどだった。

次々と家族を失った公爵は深く打ちのめされ、ある占い師の言葉を信じるようになった。

曰く――次男ルドヴィクスの存在こそが、周囲の者を死へ導く呪いだ、と。

この噂を聞いた少年は、自ら計略を巡らせ、その占い師を密かに殺した。

それをきっかけに父子の関係は完全に崩壊し、互いに憎しみ合うようになった。

最終的に皇帝陛下が仲裁に入り、ヴァレン公爵は皇都で閑職に就き、領地の統治は少公爵ルドヴィクスに一任された。

だが、私は知っていた。

彼は西部の統治だけで満足するような男ではないことを。

その雄心を口にすることはなかったが、領地の交易を整え、昼夜を問わず奔走する姿を見ていれば分かる。

彼は父や先代の公爵たちを超えるつもりなのだ。

弁舌に長け、誰にでも愛想よく振る舞う――それが彼に対する人々の印象だった。

本心を決して見せない彼は、駆け引きの場で常に優位に立ち続けた。

そして二十歳のとき、ついに彼は皇室への“扉”を見つけた。

皇帝の寵愛を受ける情婦、ジャンヌとの婚約。

もちろん彼は彼女を愛してはいなかった。

むしろ、心の底では軽蔑していたに違いない。

だがその婚約によって、彼は皇帝の悩みを見事に解決したのだ。それ以来、貧民出身のジャンヌはヴァレン公爵夫人となり、皇都の宮廷を自由に出入りするようになった。

こうした例は過去にもあったが、極めて珍しいことだった。普通の貴族なら、到底受け入れられぬ取り引きだったに違いない。

だが、ルドヴィクスは凡庸な人間ではなかった。自らの目的のためなら、他人の感情どころか、自分の感情さえも切り捨てる。世間がどれほど彼らの婚姻を醜悪だと罵ろうとも、彼は笑って受け流した。

ジャンヌもまた、名ばかりの夫を快くは思っていなかった。彼女はヴァレン公爵夫人という肩書のためだけに結婚したのだ。式が終わるや否や、彼女は皇宮へ戻っていった。彼女にとって本当に大切なのは、金と権力を握る皇帝陛下――その人ただ一人。皇帝から与えられる恩寵は、ヴァレン家の財など比べものにならない。


政略結婚の道具となること――それこそが貴族の務めであり、そしてそれはルドヴィクスがずっと以前から私に定めていた運命でもあった。

もしヴァレン家に、皇室との婚姻にふさわしい他の女性の後継者がいたならば、その機会はきっと私のもとには巡ってこなかっただろう。

そのことについて、心が波立つことはもうなかった。

おそらく長年の教育が骨の髄まで染みついていたせいで、そうするのが当然だと思っていた。

期待もせず、逃げもしない――おそらく、それがいちばん近い感覚だったのだろう。

なぜだか分からないが、たとえ政略のために好きでもない相手と結婚することになっても、自分の努力しだいで相手に愛され、共に一生を歩むことができるのではないかと、そう信じていた。

それを本当に成し遂げられる自信はなかったけれど……それでも、努力したいと思った。


皇太子との婚約が決まった日、ルドヴィクスは私の意志など一言も尋ねなかった。

彼はいつも通り書斎に座り、まるで日常の報告でもするかのように淡々と告げた。

「ヘローナ、我が愛しい義妹よ。喜ぶといい。近いうちに、君は我らが帝国の皇太子妃となる。――ほら、これが君の婚約者の肖像画だ。」

侍女から聞いた話では、最近ルドヴィクスは皇室と頻繁に文を交わしているらしい。だからこそ私は驚かなかった。

ただ心の中で、あまりにも急な話だとため息をつきつつ、未来の夫がどんな人なのか、ほんの少し興味を抱いた。

私は黙って、彼の差し出した小さな肖像画を受け取った。

絵の中の青年は華やかな衣をまとい、穏やかな笑みを浮かべている。

手には一輪の青い薔薇――彼の瞳と同じ、透きとおるような色。

それにしても、彼には帝国皇室に脈々と受け継がれてきた淡い金髪があり、その繊細な髪は夕暮れの光を受けて雪のように輝いていた。白い肌は透けるほどに柔らかく、体つきは細くしなやか。

まるで夢の中の王子のように完璧だった。

「決して彼に恋などしてはいけないよ。」

ルドヴィクスは鼻で笑いながら言った。

「温厚そうな顔をしているが、あれは油断ならぬ男だ。」

「もう、兄上様ったら。自分の未来の義弟をそんなふうに言う方なんて、他にいませんわ。」

私は小さく笑って返した。

「ところで、わたしの肖像画もお送りしたのですか?」

「送っておいた。だが皇太子殿下は、以前ヴァレン領で催された宴で君を見かけたことがあると言っていた。君はまだ幼くて覚えていないだろうね。」

そう言ってから、彼はどうやって皇太子と縁を結んだかを話してくれた。

もともとヴァレン家の初代当主は、建国皇帝に仕える“西の番犬”として公爵位を授けられた人物だ。

当時の西方にはまだいくつもの諸侯が割拠しており、ヴァレン家は代々、西の国境を守る役目を負っていた。

建国初期には皇室とヴァレン家の絆も深かったが、長い年月とともに血縁が薄れ、次第に交流も途絶えていった。

近年、帝国は東方のキャストレイ王国への侵攻を企てていた。その戦費の膨張により、皇室の財政は危機に陥っていた。

ルドヴィクスはその隙を見逃さなかった。彼は自ら筆をとり、皇太子殿下に手紙を送った。

「ヴァレン家の全財をもって、帝国の戦を支えたい」と。

もちろん、そんな申し出に裏があることくらい、皇太子殿下は承知していた。互いの利益が一致したのだ。二人は密かに書簡を交わし、取引を成立させた。

そして――その“協力”の証として、私の婚姻が決められたのである。

のちに思うに、ルドヴィクスはすでに私の両親の家系を詳しく調べ上げていたに違いない。

母が私を連れてヴァレン家に来た時点で、父方の家はすでに没落していたが、それでも南部ではかつて名門と呼ばれた家柄だった。父の祖母――つまり私の曾祖母は、東隣のキャストレイ王国の王族の血を引いていたという。

つまり私は、ヴァレン家とキャストレイの血をともに継ぐ娘。

政治的な婚姻にとって、これほど都合の良い存在はなかったのだ。

結婚の準備はすべてルドヴィクスの手で進められた。彼は本邸の財を売り払い、金銀に換えて馬車に積み込み、すでに皇都への引っ越しを想定していた。古い屋敷は、信頼できる親戚に任せるという。

馬車はゆらゆらと揺れながら、皇都へと向かって進んでいた。

車内に座る私は、皇都に着けばそのまま皇宮に移り、大婚の準備が整うのを静かに待ちながら、ついでに婚約者とも少しずつ親しくなれるだろう――そんなことを考えていた。

ルドヴィクスは馬にまたがり、隊列の先頭を進んでいる。皇室から派遣された護衛の兵たちは、左右にずらりと並び、整然と行列をなしていた。

この厳重な護衛を見るかぎり、盗賊に襲われる心配はほとんどないはずだが、それでも私は、どうか無事に旅が終わるよう祈らずにはいられなかった。出発前にも、兄上様に、その不安を打ち明けたのだけれど……

「安全性のいちばん高い道を通るに決まっている。そんなことを気にするより、道中で少しでも眠ることを考えたまえ。」

どうやら、皇都に移り住めることが、心底から嬉しいようだった。


実のところ、結婚式の前にエドワルド様とお会いしたのは一度きりだった。

むしろ兄上のルドヴィクスの方が、殿下と頻繁に会ってはチェスを指したり、狩りに出たりしていた。

そのときの殿下は、まるで儀礼の一環のように微笑みながら、私に手を差し伸べた。

だがその瞳の奥は冷ややかで、私には分かってしまった。

――彼はただ、目の前の“生きた装飾品”の出来を確かめているだけなのだと。

「我が未来の妻にして、帝国が誇る高貴なる皇太子妃、ヘローナ・ヴァレン公爵令嬢――ようこそ。」

「……ごきげんよう、皇太子殿下。」

私は丁寧に礼を取り、彼の視線を真正面から受け止めた。

そうでもしなければ、値踏みされるような居心地の悪さに耐えられそうになかった。

「皇宮に飾られているどんな名画も、あなたの美しさには及びません。どうかこの宮で、心安らかにお過ごしください、高貴なるご令嬢。」

「恐れ多いお言葉でございます。殿下のご配慮に、心より感謝申し上げますわ。」

形式的な挨拶を済ませると、エドワルド様は政務の都合を口実に、その場を後にされた。

去り際、彼の背を何気なく目で追ったとき、私は思った。

彼は確かに、肖像画の中の人物と同じくらい整っている。

けれども、その眼差しだけは違うものでした。

絵の中の彼は優しげに微笑んでいたのに、現実の彼の瞳はどこまでも冷たく、

どこか、遠い場所を見つめているように感じられた。

――本当に、この人とうまくやっていけるのだろうか……?

すべてが計画どおりに進んでいるはずなのに、敏感な心の奥では、なぜか不安が消えなかった。

「エドワルド様は、わたくしのことをお好きではないのでは……。」

結婚式の数日前の夜、私は落ち着かず、寝る前に侍女のファロールに思わずこぼした。

「ほんの挨拶をされただけで、すぐに行ってしまわれました……。殿下は普段から、あのように他の方々にもなさるのですか?」

「うーん……」

若い侍女は困ったように眉を寄せた。

「きっと政務でお忙しいだけですわ。殿下はいつも穏やかで、私たちのような下働きにも優しく接してくださいますし……。公爵令嬢さまもどうかご安心を。」

「そう……ですのね。」

いずれにしても、そこまで悪い方ではない……はず。


大婚の日。

壮麗な皇宮の正門前、荘厳な広場には数千もの貴族、さらには平民までもが集まり、この神聖な儀式を見届けようとしていた。

出発前に鏡を見たとき、私自身も今日の自分がとても美しく装われていると思った。皇宮の侍女たちはヴァレン家の面子を損なうまいと、力を合わせて豪華絢爛な姿に仕上げてくれた。

深い青のビロードのドレスには、無数の真珠が人魚の涙のように縫い込まれ、幾重にも重なるレースとリボンが星の軌跡のような金糸で皇室の紋章である薔薇を描き出していた。

金とサファイアの髪飾り、イヤリング、ネックレス、ブレスレット――そのすべてが光を受けて眩しく輝き、わずかに身じろぎするたびに眩暈がするほどだった。

……だが、その美しさの代償はあまりに大きかった。

まるで石鎧のように重い衣装と装飾品のせいで、息をするのも苦しいほどだ。

兄上ルドヴィクス――今やヴァレン公爵にして新任の財務卿――は腕を組み、その様子を見ておかしそうに笑っていた。おそらく、これほど費用をかけた礼装が鎧よりも重いことを、心の中で面白がっていたのだろう。

エドワルド様は初対面のときよりもずっと気遣いを見せ、式の間中、私の手をしっかりと握り、歩調を合わせてゆっくりと進んでくれた。

長い長い時間をかけて、私たち新しい夫婦はようやく皇帝陛下と教皇の前へと進み出た。

私は用意されたクッションの上に跪き、エドワルド様は父皇の手から小さな王冠を受け取り、それを私の頭にそっと載せた。

顔を上げたその瞬間、ふと彼の探るような視線とぶつかる。

私は負けじと、そのまま彼を見返した。

――もしかすると、この瞬間が、私たちが“初めて”互いを見た瞬間だったのかもしれない。

そよ風が吹き、彼の睫毛が柔らかく揺れた。

そして、その唇にわずかな笑みが浮かんだ。

意味深な微笑。

教皇が誓いの言葉を読み上げる。

「本日、我らはこの神聖なる結びつきを見届け、二つの純なる魂の交わりを証する。

神々のまなざしと日月星辰の光のもとで、二人は忠誠と愛の誓いを立てる。」

「エドワルド・エシュガード、汝はヘローナ・ヴァレンを生涯の伴侶とし、順境にも逆境にも、富にも貧にも、健康にも病にも、喜びにも悲しみにも、彼女を愛し、尊び、護り、誠実であることを誓うか。」

この誓いの言葉を聞いたとき、私はふとルドヴィクスとジャンヌの結婚式を思い出した。

あのとき、互いに嫌悪し合っていながら、二人は虚ろな笑みを浮かべて同じ誓いを口にしたのだ。

私とエドワルドも、あの二人のようになるのだろうか。

さっき見たあの笑みは幻だったのか。青い瞳は、再び何の感情も映さぬ水面のように静まり返っていた。

「誓います。」

「ヘローナ・ヴァレン、汝はエドワルド・エシュガードを生涯の伴侶とし、順境にも逆境にも、富にも貧にも、健康にも病にも、喜びにも悲しみにも、彼を愛し、尊び、支え、誠実であることを誓うか。」

「……誓います。」

「汝らが神と人々の前で立てたこの誓いは、聖にして永遠なり。神の加護がその結びつきにあらんことを。この時をもって、汝ら二人を正式に夫婦と認める。」

指先に落とされたキスの音とともに、広場に歓声が湧き上がった。

こうして、神聖なる婚礼は終わった。

正直に言えば、私はまだ皇太子妃としての覚悟がまったくできていなかった。

これから何が起こるのか、まるで分からなかった。

エドワルド様は、私のことをどう思っておられるのだろう……?


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