表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

6. 金糸、きらめく

 布袋の口をきゅっと結んで、次の袋を開ける。

 こぼさないようにと確かめながら、アリシアは空の布袋へ乾燥茶葉をそっと移した。そこに、昨日摘んだばかりの干した薬草をつまみ入れる。

 ふわり、と爽やかな香りが広がった。青臭さとは違う、清涼な香り。それを胸いっぱいに吸い込めば、まだ額の奥に潜んでいる眠気も飛ぶような気がした。

 アリシアはふと天を仰いで目を細める。葉陰に囲まれ、ぽっかりと開いたような空が白く眩しい。

 清々しい朝の気配の中、冒険者たちは疲れた様子も見せずきびきびと準備していた。消した焚火に土をかぶせ後始末をする者、木々に張った天幕を手早く下ろしている者。神官二人は地図らしきものを広げて、なにやら相談している。

 予定通りにいけば、今日は枝垂れの窪地を通り、湧き棚と呼ばれる泉の付近で野営するはずだ。そこでなら、新鮮な水もたっぷり汲めるだろう。薬茶を皆に配るにはちょうどいい。

 薬草を詰め終わった袋の口を閉じ、また新しく袋を開けて、茶葉の缶に匙を挿す。手に伝わる、さくっとした感触が心地よい。

 アリシアは知らず、ふふっと笑った。

 昨日のあの出来事が、まだ、目の前で起きてるかのようで。

 昨晩はその光景が頭から離れず、何度も寝返りを打っては、一人静かに反芻していた。

 シルヴィオの赤い耳、動揺した声音。大きな体を小さく丸めて、いたたまれないといった仕草。

 そのどれもが、普段の彼からは想像ができないほど可愛くて。

「……ほんと、可愛かったなあ」

 茶葉をすくった匙を手にしたまま、顔がにやけるのを抑えられない。


「あ、聖女様も見ました?」

「えっ!?」


 アリシアは右手に持った匙を取り落とした。茶葉が膝の上に散る。わ、わ、と匙を缶に戻し、膝の上の茶葉を手で集めた。

 ――聞かれた? むしろ、見られた? 見てた?

 激しく鳴る胸を鎮めるように、アリシアは深く息を吐く。

「昨日のアレ、可愛かったですよね……って、大丈夫ですか?」

 集めた茶葉を捨てて顔を上げると、魔法師の少女がきょとんとした面持ちでこちらを見下ろしていた。

「あっ、ヴェリナさん。ごめんなさい、ちょっと考えごとしてて。あの、昨日のアレ、って?」

「名前わかんないんですけど、あのふわふわしたちっちゃい生き物ですよー! 目がくりくりしてて、もう連れ帰っちゃいたいくらいでした。聖女様も見たのかなって」

「ああ! アレね、うん、アレ。可愛かったよね! 黒くて真ん丸の目がこっち見てて。私の足元をすり抜けていって。すごい動きが素早くて。ふわふわしてるのにあんな速く動けるんだーって感心しちゃいました。うん」

「聖女様、めっちゃ語るじゃないですか?」

 ヴェリナはおかしそうに笑った。ふたつの三つ編みがゆらゆらと揺れる。

「そういえば、聖女様は準備終わりました? シルヴィオ様はもう出発準備終わったみたいですよ。早朝から見回り行ってたのに誰より早く終わってるとか流石ですよねー! 完璧人間かって」

 組んだ両手を頬にあてて、ヴェリナはうっとりと遠い目をした。

「ほら私冒険者でしょ? 周りにいる男はみんな武骨な人ばっかで。あんな人見たの初めてなんですよね。優美で、紳士で、なのに騎士として申し分なくて……ホントこの討伐参加して正解でしたよ! 聖女様にも感謝です。聖女様が参加してくれなかったらシルヴィオ様も来てませんし!!」

 手をしっかり掴まれぶんぶん振られたアリシアは、同意、同意と思いつつも、気圧されて頷くことしかできない。

 ヴェリナ、と別の冒険者が彼女を呼ぶ声がした。ヴェリナはアリシアの手をぱっと放し、振り向いて返事する。

「じゃあ、もうちょっとで出発なんで。それまでに準備終えといてください!」

 用事はそれだったのか、と納得し、ありがとうと声をかけると、ヴェリナは小走りで自分を呼んだ冒険者のほうへ駆け寄った。

「ヴェリナ、ちょっとこれ乾かせる? このままじゃしまえなくって」

「任せて!」

 別の冒険者が広げた濡れた敷布の前でヴェリナは手を広げた。風が敷布を大きくはためかせる。

「ありがとう、助かったわ。魔法って便利ね」

「そうでしょ? 魔法のことならヴェリナ様にお任せあれよ」

 アリシアはその様子を見ながら、おお、と内心声を上げた。

(ヴェリナさんはたしか、私と同い年だったよね)

 今回の討伐隊に参加している女性はアリシアを含め五名だが、十八歳のアリシアとヴェリナが一番年下で、あとは弓兵と軽戦士の一人が二十歳くらい、姉御肌の軽戦士は年を知らないが、おそらく最も年長だと思われた。

 冒険者だからだろうか。ヴェリナは旅慣れている様子で、他の冒険者たちからも頼りにされているようだった。唯一の魔法職ということもあって、戦闘面以外にも様々なところで役立っている。

 すごいな、とアリシアは感嘆した。

(私も何か、できることを見つけなきゃ)

 茶葉の缶と薬茶の袋を手早くまとめて背嚢にしまい、旅鞄を斜めにかける。護符代わりの杖を持ってゆっくり立ち上がると、少し離れたところから、シルヴィオがこちらを眺めているのに気が付いた。どんな面持ちでいるのかはわからないが、自分を待っていたのかもしれない。

 アリシアはそっと、彼だけにわかるように微笑みながら、会釈する。すぐにシルヴィオの頭が軽く下がって、挨拶を返されたのだな、とわかる。

(それにしても)

 完璧人間かあ、とアリシアは先ほどのヴェリナの言葉を思い出した。

 出発前のざわついた空気にあってなお彼は、一人しんとした静謐さを湛えている。力みなく垂らした片手、もう片方は剣の柄に添えられていて、柔らかい雰囲気の中にも騎士としての真摯さが見えた。

 こうして見ていれば、完璧以外の何物でもない。

 でも。

 アリシアは彼から見られないよう、うつむいた。あの取り乱した姿が二人だけの秘密だと思うと、こみ上げてくる嬉しさを隠すことができなかった。


 ***


 止まれ、という鋭い声が列を切り裂いた。

 冒険者たちがすぐさま荷を置き、武器を構えた。隊列がわずかに広がる。次の瞬間、短い叫び声と重く鈍い衝撃音が走って、アリシアは息を呑んだ。魔物だ。

 アリシアの背後にいた弓兵が隊列を離れ、左右に展開する。同時に軽戦士の一人が前方へ向かう。木立と低木に阻まれ、ここからは何が起きているのかうかがい知ることができない。葉が激しく擦れ、枝が折れる音、聞いたことのない低い唸り声、仲間たちの緊迫感だけが、魔物の存在をアリシアに伝えていた。

 戦えない。

 動けない。

 浅い呼吸を繰り返しながら、アリシアはその場から一歩も動くことができない。

 周りの仲間たちは魔物の襲撃に対しすぐさま反応しているのに、自分は戦うどころか、どこにいればよいかすら把握できていない。

 こめかみを汗が伝う感触がした。

 戦えないことは初めからわかっていたはずだ。自分のできることをするために来た。けれど今、戦闘の只中にいて、足手まといになっていないと言い切れない。


 杖をぎゅっと握りしめるアリシアの横を紺の外套が掠めた。シルヴィオが振り返る。


 それを見た瞬間、アリシアは全身からふっと力抜けた気がした。表情は見えないのに、彼が今そこにいてこちらを向いていることに、なぜだかひどく安堵した。

(シルヴィオ様、ありがとう)

 アリシアは深く息を吸い、吐き出した。そうして仲間の背の向こう、木立の奥を見据える。隙間から、戦士が盾を構えているのがちらりと見えた。その姿が倒れ込むように消え、悲鳴が上がる。

「前がやられた!」

 声が届くと同時に、アリシアの後ろにいたマルコ助神官が進み出た。いつの間にか散開していたヴェリナから風が巻き起こり、頭上の木々を外側に薙ぎ払っていく。その開けた空間を狙うように、マルコ助神官が光を走らせた。聖閃――退魔の聖句。

 光が地に落ち、魔物のものらしき絶叫が届く。

「まだいる! 群れだ!」

 その声に、シルヴィオが一歩前に出て、しかしそれ以上進まず、止まった。

 アリシアは手を伸ばし、外套を引こうとして――留まる。

「あのっ」

 なんと言っていいのかわからない。ただ、彼が為そうとしていることを妨げたくなかった。聖女の護衛だからと常にそばにいたりしなくても、大丈夫なのだと。

 短い呼びかけにシルヴィオが身じろぎ、刹那、光の向こうの横顔が見える。

 視線だけがこちらを向き、瞼がかすかに伏せられた。うん、と応えが返ってきた。そんな気がした。

 シルヴィオが迷いなく前に進み出る。

 その姿にほっとして、アリシアは一歩下がった。紺の外套が翻り、裏地の金糸がちらりとのぞく。

 それが仲間の向こうに消え、ほどなくして、魔物の呻き声と斬撃の濁った音が届いた。激しくぶつかる音に思わず、肩が跳ねる。

 森の木々に紛れるようにして、仲間たちが戦っていた。マルコ助神官とヴェリナは隙を窺っているのか、前方を見据えて立ち構えている。周りにいる誰もが落ち着いているが、先ほど聞こえた声からすれば負傷者が出ているかもしれない。

 自分も前に出て癒すべきか、ここに留まって戦闘が落ち着くのを待つか。判断ができないままじりじりと大木の幹に寄り、前の様子を垣間見ようとアリシアは首を巡らせた。

 黒い魔物が二匹、間合いをはかるようにゆっくりと迫っている。日の光がその体躯をぎらりと照らした。鱗のような、金属のようなもので覆われた体は、四つ足なのに人の腰ほどの高さまであって、立ち上がれば背丈を優に超えるだろうと思うほどの大きさだった。

 戦士の一人は盾を構える。それに向かって一匹の魔物が突進した。がつん、とぶつかる音。脇から刀身が閃いて、魔物を目掛けて思い切り振り下ろされた。白の騎士服に黒い液体が飛び、その跡が蒸発するように消える。

 怪我人はまだ見えない。低木で遮られた足元に横たわっているのだろうか。もっと近づかないと、負傷の程度すらつかめない。

 その時。

 動きを止めていたもう一匹の魔物が、猛烈な勢いでこちらに突進してきた。盾の戦士と軽戦士の脇をすり抜け、黒い塊が迫る。シルヴィオが、仲間が振り返り、アリシアは目を見開いた。

 前に出すぎた? 今から避ける? もう間に合わない。身を守るには? 屈めばいい? だめだ。体が動かない。

 息を吸う短い間にさまざまな考えが浮かんでは消え、アリシアはただ、やってくる衝撃に備えてぎゅうっと身を固くした。

 けれど、衝撃はこない。代わりに聞こえたのは、何かが割れるような高い音。握りしめた杖についていた宝珠が、粉々に砕け散って消えていた。

「聖女様!!」

 シルヴィオの切迫した叫びとともに、彼がこちらに飛んでくる。魔物はなぜかアリシアの足元に横たわり、駆け付けたシルヴィオが淀みなくその体に思い切り止めを刺した。

「お怪我は」

 シルヴィオの声は硬い。

 アリシアは首を振った。大丈夫です、とはっきり告げたつもりが、囁くように掠れている。

 ややあって、長い溜息が頭上から降ってきた。それはどこか怒気をはらんでいて、アリシアははっと顔を上げる。

 額に手を当て、シルヴィオは横を向いていた。垂れた前髪を荒々しく掻き上げ、二度目の溜息をつく。剣の柄を掴む右手は革手袋の上からでもわかるほどきつく握りしめられていて、指の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。

「失礼」

 アリシアの視線に気づいたのか、シルヴィオは軽くうなずいた。

「ご無事で何よりです」

 硬かった声は半ば柔らかさを取り戻し、この状況にあって、彼は精一杯アリシアを気遣っているようにも思えた。

「はい、ありがとうございました」

 頭を下げたアリシアに、シルヴィオは何も言わず踵を返す。

 入れ替わるようにして、展開していた冒険者がこちらに戻ってくる。アリシアに突進した魔物が最後の一匹だったのか、周囲の緊迫感も幾分薄らいでいた。


(シルヴィオ様、怒ってた。でも、あれは多分……)


 アリシアは思考をやめ、シルヴィオを追うように前へ出た。怪我人がいるのなら、やるべきことをするために。


 ***


 茂みをかき分けたアリシアが目にしたのは、地面に横たわり、苦しげに脇腹を押さえる戦士の姿だった。息は荒く、顔色も悪い。出血は見えないが、骨か内臓が痛んでいるのかもしれなかった。

「……ああ、聖女様……」

 戦士は呻きながら起き上がろうとする。

「起きないで、そのままで。大丈夫ですから。すぐに癒します」

「悪いな……」

 アリシアは戦士の傍らに座り込んだ。エンツォ主神官とマルコ助神官は軽傷者の手当てをしている。この戦士はアリシアが一人で癒やさなければならない。

 戦士は顔を歪め、呻きながら耐えていた。額には汗が浮いている。かなり痛むようだ。

 ――絶対に、絶対に癒したい。

 そんな強い感情が湧き上がると同時に、

 ――癒したいと思うことは、個の思いによる行使にはならないよね……?

 自分を律せねば、という思いも湧いてきて、アリシアは静かに息を吸った。

 ――落ち着いて。

「慈愛の女神よ……」

 苦しむ戦士の脇腹に手をかざして、目を閉じる。

「唯なる輝きの神、エリュステーラよ……」

 呼びかけとともに、身の内にふわりと温かいものが生まれる。これが女神と繋がっている証なのだろう。

「この者の苦しみを癒し、清め給え」

 語りかけると、身の内の温かいものが大きく膨らみ、手のひらを通じて外に溢れ出た。ゆっくりと目を開けたアリシアは、己から流れる光が戦士だけではなく、あたりまでもを照らしていることに気付く。濃く、深い森の影が、清浄な光に包まれて白々と消える。

 ――これ、あの時と同じ。

 戦士のつらそうな顔が和らぐと同時に、アリシアから広がる光も穏やかに静まっていった。森が暗さを取り戻すと、残るのはしんとした静寂だけ。

 アリシアは、ふう、と息を吐く。

「……痛くねえ……」

 戦士は起き上がり、脇腹を覗くようにしながらぺたぺたと手で確かめた。

「ちょっと聖女様! あんたやるじゃん!!」

「わっ」

 近くにいた姉御肌の軽戦士が、アリシアの首を抱くようにして称賛した。

「なんだかあたしらまで元気が出た気がするよ。これなら、この先も安心して戦えるね」

「ああ、無茶のしがいもあるってもんだ。命が増えたようななもんだろ?」

 元気になった戦士が、恐ろしい冗談を口にする。

 アリシアは慌てて手を振った。

「いえ、あの、癒しは万能じゃなくてですね!? 体を治す力は無から出てくるわけじゃなくて、その人の本来持ってる力を引き出して治りを早めてるだけなので、できるだけ怪我をしないでもらったほうが」

 戦士は目を見張ったあと、豪快に笑った。

「わかった、わかった。無茶はしねえよ。ありがとうな、聖女様」

「こんなこといって、またすぐ無茶するに決まってるよ。こいつの無茶は今に始まったことじゃないし」

「うるせえな」

 軽口を交わす戦士たちを見て、アリシアはほっと顔をほころばせた。

 よかった。

 自分の癒しで、仲間の痛みを取り除けたこと。自分がいることで、仲間が安心できること。

 ただの足手まといじゃない、ここにいる意味がちゃんとある。自分も仲間の一員だと、そう認めてもらえた気がして、アリシアはほんの少し、背筋が伸びる思いがした。


 ***


 さらさらと水の流れる音が心地よい。

 薄闇の中、岩肌から湧き出る水がわずかな明かりを反射してきらめいていた。アリシアは湧き水を慎重に鍋で受け、焚火の元へと戻る。仲間たちは食事後のささやかな休息をとりながら、武具の手入れをしたり、語らいあったりと、思い思いに過ごしているようだった。

 焚火にすでにかけてあった鍋と水を汲んだ鍋を入れ替え、アリシアは沸いた鍋を持って休んでいる仲間たちを回った。薬茶を注ぎ入れるたび、鍋から、爽やかな香りが湯気とともに立ち上る。

 見回りに出ているシルヴィオを除いて、あと配り終えていないのはヴェリナだけだった。

 普段女子三人でにぎやかに過ごしているヴェリナは、今日はすでに寝る準備を済ませているのか、隅の敷布の上で何かを一心に書き込んでいた。携帯用の灯り箱が、下を向くヴェリナの頬をほの明るく照らしている。

 アリシアは何の気なしにヴェリナに近づき、薬茶どうですか、と声をかけようとした。その目の端に、彼女の描いていたものが映る。

「え……!?」

 そこにあったのは、どんなに祈っても見ることが叶わない、推しの顔。

 精細な筆致で描かれた細部。控えめに伏せられた涼やかな目を縁取る長い睫毛。額から頬にかけて、品よく垂れている前髪。今にも喋り出しそうな、薄めの唇。

「シルヴィオ様だ……」

 絵の中の彼はここじゃないどこかを見ていて、その表情は、凛として静かだった。まるで風のない日の湖面のよう。

 あんなに見たいと願ってやまなかったシルヴィオの顔は、なのになぜか遠くて、アリシアは内心首をかしげる。

「我慢できなくて、描いちゃいました」

 ヴェリナは鉛筆を滑らせながら、顔を上げずに答えた。

「すっごい、お上手ですね!」

 絵には加護の光がかからないんだなと思いながら、アリシアはヴェリナに薬茶を注いだ。

「でしょう? 町にいるときは肖像画で稼いだりもしてたんですよ。さっきジュディッタにも頼まれて」

「これだけそっくりなら、ほしくなりますよね」

 まあね、と言いながらヴェリナはようやく鉛筆を置き、受け取った薬茶を一口飲んだ。

「私の絵っていうより、やっぱシルヴィオ様ですよねえ。でもホントは笑ったとこが描きたいんですよ。あの顔が笑ったら絶対破壊力やばいでしょ? けど、笑うどころかいつも無表情だから」

 ヴェリナがシルヴィオを無表情と評するのは、アリシアにも理解できた。まだ光に覆われていなかったころ、アリシアも似た思いで彼を見つめていた。あの端正な顔に微笑みかけられたらどんなに幸せだろうと妄想したりもした。

 けれど今は、無表情だと言われるたびに、それが小さな違和感となって胸に積もる。

 見えていないのに、見えないからこそ、仕草に、声音に、彼の感情が漏れ出ているのがわかって、嬉しくて切ない。

 あの時、あの瞬間に、どんな顔をしているのか、私にも見えたらよかったのに。

 アリシアは空の鍋を置き、ヴェリナの隣にしゃがみこんだ。そうして、口元を覆うようにして、こっそりと頼む。

「ヴェリナさん。もしよければ、私にも……一枚、描いてくれませんか?」

「は!? 聖女様もほしいんですか?」

「声、声大きい!」

「いやだって、聖女様は要らないでしょ? いつでもシルヴィオ様見放題じゃないですか?」

「そういうわけでもないというか……」

 推しが素晴らしすぎて、見ると毎回尊死しそうになるんです。だから女神様の加護がシルヴィオ様を隠しちゃって。お顔がいつでも輝いてて。もちろんそんなシルヴィオ様も素敵なんですけど。

 ……なんて、言えるわけがない。

 アリシアは口の中で、言葉にならない思いをもごもごと転がした。

「ま、いいですよ? 代わりというわけじゃないけど、お願い聞いてくれたら」

「お願い?」

「もう少し私たちに優しくしてって、シルヴィオ様に頼んでくれませんか? 話しかけに行っても、いつも冷たくあしらわれちゃって。ちょーっと笑ったとこ見たいだけなんだけどな。でも、シルヴィオ様って聖女様にも冷たいし、無理かなあ」

 アリシアはその言葉に瞬きを繰り返す。

「冷たい? シルヴィオ様が?」

「今日だって、聖女様が話しかけても無視してたし。まあわかりますよ? 戦闘中だから余計なことはできないってのも。けど聖女様が攻撃されそうになった時とかも、機嫌が悪かったし。怖いっていうか、冷たいっていうか。ま、それはそれで美味しいですけどね! いろいろ捗るわ……」

 あごに手を当てながら、ヴェリナは遠いところを見つめた。

 なんだか、とてつもない誤解をされている気がする。シルヴィオ様。

「えっとじゃあ、私からも伝えてみますね」

 期待に応えられるかわからないけど、と言い添えて、アリシアはヴェリナにうなずいた。

「ホントですか? やった」

 シルヴィオ様が好かれるのは、嬉しい。誤解されたままより、きっとずっといい。なにより、あんなに優しくて可愛らしい人が、冷たいと思われてるのは、悲しい。

(推しの幸せは自分の幸せ、って言うし)

 アリシアは心の中で呟いた。さっき味見した薬茶の渋みが、まだ口の中に残っている気がした。

 

 ***


 シルヴィオから預かった器に、薬茶を静かに注ぐ。先ほどとは別の、甘く余韻のある香り。アリシアは器を手に、見回りから帰ってきたシルヴィオへ目を向けた。

 木々の枝の間に張った天幕の下、一人離れるようにして、剣の具合を確かめている。布を手に何度か剣を拭い、表と裏を交互に眺めながら、彼は丹念に手入れをしていた。

「あの、シルヴィオ様」

 その呼びかけに、シルヴィオはふわりと顔を上げる。

「薬茶入りましたので、どうぞ」

「頂きます。温かいですね」

 薬茶を受け取って、シルヴィオは会釈した。

 確かに、彼の口数は多くない。けれど、その短い言葉の端々に、他者への気遣いが滲んでいる。

 アリシアはすとん、と彼の隣に腰を下ろした。

 傍らに置かれた灯り箱のほのかな明かりが、シルヴィオの外套の裏地をかすかに照らしている。聖騎士を示す紺の外套の裏、普段は見えない箇所に施された、慎ましく上品な金の刺繍。

 きれいだな、とアリシアは思った。

「この薬茶は、昨日摘んでいらしたものですか」

 呟きの後に、こくりと薬茶を飲み込む音がする。

 美味しくないと思われたらどうしようかと、アリシアはシルヴィオの横顔をそっと伺った。ぼんやりと光る横顔は細部が隠されていて、味の感想までは伝わってこない。

「はい。シルヴィオ様、あまり睡眠がとれてないと思って」

 薬茶を飲むシルヴィオの手が止まった。

「シルヴィオ様、他の人より見回りや見張り番が多いから、気になったんです。エンツォ主神官様たちに渡したのは疲れが取れやすくなる薬茶なんですけど、これは短い時間でも深く眠れて、目覚めがよくなるような薬茶で」

「……そうでしたか」

「これを飲んで少しでも楽になってくれたら、嬉しいで、す……?」

 シルヴィオは身じろぎもしない。

「もしかして、お口に合いませんでしたか? 甘すぎました?」

「いえ。その」

 拳の甲で口元を押さえるようにして、シルヴィオが口ごもる。

「まさか、そこまでお気遣いくださったとは思わず」

 淡い灯り箱の光はゆらゆらと揺れて、シルヴィオの横顔をひそやかに照らした。

 霧の中ほどはっきりとではないけれど、ごくわずか、頬がほんのり染まっている。

 アリシアの中に、じわり、と温かいものが落ちた。

 ゆっくりと、シルヴィオがこちらを向く。そうして彼は、しっとりと柔らかな声音で囁いた。


「……ありがとうございます、アリシア様」

 

 どれだけの時間、呼吸が止まっていただろう。

 アリシアは詰まったものを出すように、どんどんと胸を叩いた。

「わわた私のほうこそ、いつも、ありがとうございます。昨日も、昼間も、助けてもらってばかりで」

 熱い。顔が熱い。

 きっと今、ものすごく顔が赤くなってる。

 アリシアは両手を頬にあて、深呼吸を繰り返した。その様子を見て、シルヴィオがひそやかに笑う。

「ひとつ、よろしいでしょうか」

 その声はなめらかで甘く、深い。

「アリシア様は、ご自身が思う以上に隊の皆を支えておられます」

 え、とアリシアは顔を上げる。

「戦いに加われないことを、どうかお気に病まれませんよう。ご安心ください。次からは必ず、お守りいたします」

 真摯な言葉が、アリシアを包むように沁み込んだ。

 気付いてくれてた。何も言ってないのに。

 体の奥が、震える。嬉しくて、目の奥がつんとする。

「やっぱりシルヴィオ様、優しいです。すっごく」

 アリシアは笑いながら目元を拭った。

「そのようなことは……」

 唐突に言われ、シルヴィオは虚を突かれたように言葉を切った。

「皆にも、もう少しこの優しさが伝わればいいのになって。シルヴィオ様と仲良くしたい人、たくさんいると思うんです。さっき、薬茶のお礼を言ってくれたときみたいに、にこやかにしてみるのはどうでしょう?」

 ふい、とシルヴィオが顔を逸らす。

「……自分では、そのような顔をした覚えはありませんが」

「でも私、知ってます。今、シルヴィオ様が照れてらっしゃるのも」

 シルヴィオは黙ってアリシアと反対のほうを向き、薬茶を一気に飲み干した。そして長い長い溜息をつく。

「アリシア様がそう、仰るなら。善処いたします」

「はい。ぜひ」

 不器用な優しさに、アリシアは笑いが止まらない。あまり笑うと今度は拗ねてしまうかも、でもそんなシルヴィオ様も見たいな、と思うアリシアの脳裏に、ふと昼間の彼の姿が浮かんだ。

 ヴェリナも言っていた。機嫌が悪かった、と。

 今なら、聞いてもいいかもしれない。

「昼間のことなんですけど」

 声を落として、静かに聞く。

「魔物が突進してきて、杖の宝珠が守ってくれて、シルヴィオ様が止めを刺して。あの時何を思ってたか、よかったら、聞かせてもらえませんか」

 シルヴィオは、ああ、と短く応えた。

「言いたくないことなら、大丈夫です」

 言葉が続かないのを見て、アリシアは首を振る。

「いえ、そうではなく。己の未熟さを晒すようで、なんと申し上げたらよいか」

 薬茶の器を両手で持ちながら、シルヴィオは訥々と話し出した。

「私はあの時、自分に憤っていたのです」

 静かで、淡々とした声。

「アリシア様のお考えは、伝わっておりました。それを受けて私も前に出た。何かあっても自分なら間に合う。そう、驕っていた。しかし実際は……」

 シルヴィオの、器を持つ手に力がこもる。

「不甲斐ないことです。あなたの護衛騎士として、私がいかに未熟か思い知らされました。平静を保てず、申し訳ありません」

 誠実な言葉が落ちて、アリシアの胸がきゅうっと締め付けられた。

 優しくて、不器用で、誠実で、誇り高くて。

 手のひらの中でひっそりと光る原石のような彼の気持ちが、自分の中で息づいている。

 もっと。

 もっと、見たい。

 アリシアは、うつむくシルヴィオの横顔を見た。


 シルヴィオ様。

 今、どんな顔をしてるの?


 光に淡く霞む彼の表情を見つめる。胸の内側にあるのは、甘く苦い痛み。

 シルヴィオはアリシアの視線に気づき、こちらを向く。

 その息遣いに、体が溶けてしまいそうだ、とアリシアは思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ