3. あなたの顔が見えない
扉を叩こうとする手が動かない。
アリシアは息を軽く吸って目を閉じた。一拍おいて、こんこんと軽く扉を叩く。中からは、静かで、けれどよく通る声が返ってきた。
「お入りなさい」
聞こえないよう細く溜息を吐いて、アリシアは取っ手をつかんだ。ゆっくりと扉を押し開けると、心なしか冷えた空気が全身を包む。
部屋に足を踏み入れると、執務机の向こうで座って書簡を読んでいた院長が、ちらりとこちらを向いた。眼鏡の奥の目が、アリシアを鋭く射抜く。
「ロッシ家に譲り渡した鶏を癒したそうですね」
心の準備がないままにそう言われ、アリシアはただ黙って頷いた。
「あれほどの癒しを軽々しく使うなんて……あなたという子は……」
院長は書簡を置き、額に手を当てた。
「それに、鶏を絞める? 穢れに触れる? まったく、前代未聞ですよ」
アリシアは肩を丸めるようにしてうつむいた。
「……すみません……」
絞り出すように謝罪する。身の置き所がない、とはこういうことなのだろう。
あの時もし、ほんとうに鶏を絞めていたら、叱責どころではなかったはずだ。ダリオたちにもひどく迷惑をかけたに違いない。
「それも、聖女の任を辞したいという話と関係があるのですね?」
「えっ。どうしてそれを」
はあ、と院長が大きく溜息をついた。
「ここまでの大騒ぎになって、隠し通せるとでも思いましたか」
「それは、えっと」
アリシアはばつが悪そうに、体の前で組んだ両の指を擦り合わせた。
その様子を見て、院長は唇の端をわずかに上げる。
「私は耳にしましたよ。あなたの『推し』とかいう存在についても」
「!」
アリシアの心臓が跳ねる。
驚きか羞恥か、頬はもちろん耳の先までが熱い。
「シルヴィオ・ファルネーゼ卿ですね」
下がった眼鏡を戻しながら、涼しい顔で院長は先ほどとは別の書簡を手に取った。
「聖女と聖騎士――いずれも公の務めにある者同士」
目を向けないまま、静かに院長が告げる。
「一方の私情が、もう一方の立場を脅かす事態を、神殿は決して容認しません」
院長は「ただし」と区切るように言ってから、アリシアを見上げた。
「今回に限り、神殿への報告は私のところで止めておきました。二度目はありませんよ」
「先生……」
アリシアは目を伏せた。喉の奥がきゅうとつまる。
「いいですか、アリシア。あなたの軽はずみな言動が周囲にとってどれだけの影響を及ぼすのか……あなたなら、みなまで言わなくてもわかるでしょう」
「……はい」
「想いのために女神の加護を捨てようとすることの意味を、その胸に問い直しなさい。そして、自らの行いをよく省みるのです」
***
その日、施療院はいつもよりざわめいていた。
聖女たちはそれぞれの祈り場につき、患者たちに癒しを施す。癒しの光が院内を穏やかに照らす中、アリシアは仕切り布越しにその光景をぼんやりと眺めていた。
「次の方、どうぞー!」
傍らのミレーヌが張りのある声で患者に呼びかけた。幼子が、小さな手で仕切り布をさっと開いて飛び込んでくる。その後ろからは父親らしき男性が、青い顔をしながら、右腕をかばってゆっくりと目の前の椅子に座った。
「患部はそちらの腕でしょうか」
アリシアは視線を落としたまま聞いた。
「ねえねえおとうさん、聖女さまって、お顔こわいね」
「こ、こら!! なんて失礼なことを」
父親が慌てて謝る。
「あ……いえ」
気にしないでいい、と伝えたかったが、言葉が出てこない。その気配を察したのか、ミレーヌがひときわ明るい声で笑った。
「そうなの。この聖女のお姉ちゃん、今日ちょっとお顔怖いのよ。でも大丈夫、お父さんのことはちゃんと治せるから安心してね。そうでしょ? アリシア」
「うん、お父さんのことは任せて。女神様がすぐ元気にしてくれるよ」
「よかったあ」
幼子は父親の膝にすがりつくようにじゃれて、無邪気に喜んだ。
肘でつつかれたアリシアが見上げると、ミレーヌが意味ありげな顔でこちらを見つめている。ごめん、と目線で謝ってから、アリシアは父親に向き直った。
「患部はそちらの腕でしょうか」
父親は恐縮しながら右腕を差し出し、服をめくった。応急処置の白い布は血に染まり、見るからに痛々しい。慎重に聖水をかけ、固まった血をほぐしながらアリシアは巻かれた布をほどいた。
「これは……」
ミレーヌが息を呑んだ。裂かれたような傷が緑に腫れあがっている。普通に暮らしていてできるような傷ではない。
「どうなさったんですか」
記録帳に書き込みながら、ミレーヌが傷を観察する。
「森の奥で、大きな何かに襲われて……見たこともないような獣で。なんとか逃げられたのでよかったんですけど」
父親は力なく笑った。
「いま、治しますね」
アリシアは裂傷に手をかざして、目を閉じた。
「慈愛の女神よ、その御名によりてこの者の苦しみを癒し、清め給え……」
祈りとともに、淡い光がアリシアの手のひらから広がった。
癒しとは信仰により女神の御力を借りている行為であり、聖女という依り代を通して女神の奇跡が届いているだけ――神殿にはそう教えられてきた。
だとしたら。
ダリオの家で起きたことはなんだったのだろう。今の光とは比べものにならないほどの癒しが、体の中から溢れ出た。
癒しの力を個の思いによって行使してはならない、とアリシアは聖女教育で何度も叩き込まれた。あの時だって、癒そうとして癒したわけでは決してない。なのに。
腕の傷は、光に照らされてじわりじわりと閉じてゆく。緑に腫れ盛り上がった皮膚は落ち着き、裂けて赤く見える肉は穏やかにふくらんでいった。だんだんと皮膚が繋がり、やがて、わずかな引きつれだけを残して傷が消える。
「すごーい!」
幼子が目を輝かせてはしゃいだ。
「ああ……聖女様、ありがとうございます!」
「ありがと、こわいお顔の聖女さま!」
親子が礼をして祈り場を後にする。ミレーヌは親子とともに出ていって、あたりを軽く見回したあと、呆れ顔で戻ってきて言った。
「あんたねえ、患者さんの前でぼやっとしてんじゃないよ?」
その通りだ。返す言葉もない。
「とりあえず、今はさっきの患者さんで終わりみたい。一息入れて、その情けない顔なんとかしてきな」
そうだね、とアリシアは小さな鞄を手に持ち、足早に祈り場から去った。
外に出るとまだ日は高く、照らされた石畳は白々としていた。風が吹き通り、気だるげな暑さを和らげていく。
施療院の脇にある小道は勢いよく繁る枝葉に遮られ、午後の喧騒にあってもひっそりとした空気が満ちていた。大木の根本に置かれた腰掛に座ると、アリシアは膝の上に鞄を乗せた。
「想いのために加護を捨てる意味、か……」
朝、院長に言われた言葉を思い出す。
アリシアはひそやかに息を吐いて、鞄から革張りの手帳を取り出した。丁寧に紙面を開いてゆくと、色褪せた押し花があらわれ、そろりと揺れた。
あの言いぶりからして、加護を捨てることはできるのかもしれない。そうしたら、シルヴィオ様のご尊顔をまた見ることができるかも……でも。
指先で、花びらを優しく撫でる。
加護を捨てるということは、癒しも手放すということだ。聖女たちの癒しがないと苦しむ人は少なくない。今日のように、ひどい怪我や病でつらい思いを抱えている人をひとりでも癒やすのが聖女の役目だ。それを放棄して、周りの人たちや、大事な人にまで迷惑をかける……そんな身勝手な行為が、許されるはずもない。
――諦めよう。諦めなきゃ。
数日前までのんきに、推しを愛でさせてくれ、穢れてみせる、と叫んでいた。深く考えず、ただ推しの顔が見たいと鶏まで絞めようとした。
あの時の癒しの光は、女神様が止めてくれたのかもしれない。
「女神様……私……忘れられるでしょうか」
押し花の下には、シルヴィオを見かけた日、交わした言葉などが細やかに綴られている。つらいことがあった時、この推し手帳にどれほど勇気づけられたかしれない。けれど今、それを読むことがこんなにも痛い。
アリシアは顔を上げた。風が吹き抜け、木漏れ日が揺れる。
繊細な手つきで押し花を挟み直すと、アリシアはゆっくり手帳を閉じ、そうして、封じるように鞄の奥に押し込めた。
***
施療院に戻ると、アリシアは足早に自分の担当する祈り場へ戻った。
「ミレーヌ、お待たせ! ごめんね、抜けちゃって」
聖水が満たされた壺で手を清め、きれいに拭いてから、布や薬が足りているかを確かめる。
「いいけど……なんだか急に元気ね?」
「吹っ切ったの。先生にも言われたし」
ミレーヌが小さく驚きの声をあげた。
「あんたが? 嘘でしょ?」
「失礼な。もう平気だよ! お顔見えなくたって、死ぬわけじゃないし。むしろ見えたら死んじゃうし」
「そりゃそうかもだけど……」
「さ、お務め再開しよう」
納得がいかない様子のミレーヌに返事をせず、アリシアは祈り場の外の患者に呼びかけた。
それから、絶え間なくやってくる患者をアリシアはひたすら癒し続けた。ミレーヌと言葉をかわす時間すらないほど、目まぐるしく時が過ぎていった。
「気をつけてお帰りくださいね」
アリシアは、杖をついた老婆を優しく支えながら仕切り布を開ける。祈り場のいくつかはもう閉じられていて、待合の場にも癒しを待つ患者の姿はない。
老婆の歩みに合わせて歩きながら、口角をきゅっと上げる。
大丈夫。ちゃんとやれた。
内心でそう確かめて、安堵する。
迎えに来た家族と落ち合った老婆に手を振り、ふと辺りを見ると、出入口の脇に知った顔の少年がこちらを見つめて佇んでいた。アリシアは迷いのない足取りでダリオの元へ向かう。
「ダリオ。どうしたの? 施療院にいるなんて珍しいね」
配達だよ、とダリオは短く答えた。
「……なんか、前よりちゃんと『聖女様』してんのな。やめるって言ってたくせに」
どことなくふてくされたように言われ、アリシアは曖昧に笑う。
「あのさ。この前、鶏のことで……本当にごめんね。ご家族にもご迷惑かけたりしなかった?」
「は? なんで謝るんだよ? なんにも悪いことしてねーだろ。とーちゃんもばーちゃんも喜んでた。鶏だって元気になった。それでいいじゃん」
ダリオは早口でまくしたてた。
「うん」
そうだね、と同意もできなくて、アリシアはまた曖昧な笑みを返した。
「なんだよそれ」
怒っているのかと思うほど真剣な眼差しが、アリシアを貫く。
「俺、前のねーちゃんのほうが好きだった」
ダリオは言葉を投げつけて、振り向きもせずに去っていった。まっすぐに出入口に向かう少年の影が、夕日に照らされて院内に長く伸びる。
アリシアはただ黙って、それを見ていた。
***
帰り道を、赤みを帯びた光が照らしていた。沈みかけた日はアリシアの背中をあたたかく押して、じんわりと熱をこもらせていく。
アリシアは唇の両端に指をあて、力を入れて上に引き上げた。
(大丈夫)
笑っていれば楽しくなるって、ぺパおばあちゃんも言ってた。
それに、今までだってがんばれてた。これからだってできる。
聖女のお勤めだってちゃんとできた。きちんと聖女らしく振舞えた。
たとえもう、シルヴィオさまのお顔が見えなくても――
気が付けば、アリシアは聖堂にほど近い段畠を登り切り、その一番上に立っていた。足下に淡い色の花がひしめくようにして咲いている。柔らかく風が吹くたびに、花々がこぼれそうに揺れた。花びらの、青とも薄紅ともつかない色。昼と夜が入れかわる時にだけ訪れる、ささやくような空の色。
――来るつもり、なかったのに。
アリシアは自嘲の笑みを浮かべた。この花に励まされた日々が、霧の向こうのように遠い。
小さな鞄を胸にきつく抱きかかえ、唇をかみしめる。
ここから去ろうと思うのに、足が動かない。
「聖女様?」
頭で理解するより早く、振り向いた。
花々を掠めるようにして、シルヴィオが立っている。日はすでに沈んでいるのに、眩しくてその顔は見えない。彼の背後の空だけが、ぼんやりと淡く美しい。
「奇遇ですね」
穏やかな声がアリシアを震わせる。どうしよう。何か言わなくちゃ。
何も言うことができないまま、眩い光が強くなる。
「聖女様は本日もお勤めでいらしたとか。さぞお疲れになったことでしょう」
光が強まったのはシルヴィオがこちらに歩んできたからなのだと、アリシアはようやくわかった。
間近に、身じろぎすればたやすく手が触れる距離に、シルヴィオがいる。
見上げればその光の向こうに、微笑む彼が見える気までした。
「あの、その」
しどろもどろの返事を返すアリシアの耳に、ふふっと軽い笑い声が届いた。
「お声をかけてしまい、驚かせましたか」
その声音があまりに優しげだったので、アリシアの胸は殴られたように跳ねた。
(やばい、やばいやばいやばい、落ち着け私の心臓!! これじゃ声まで聞こえなくなっちゃう!!)
鞄を折りたたむように抱きしめて、ぶんぶんと首を振る。大丈夫です、という一言が、どうしても口から出ない。
「……おそらく、ご記憶にはないと思いますが」
シルヴィオは少し離れて、花の前にゆっくりとかがんだ。少しうつむいて両手を胸の前で組み、目を伏せて、静かにささやいている。
声が聞こえなくても、アリシアにはそれがなんなのかわかった。彼は花に祈りを捧げている。そうして、彼の長くしなやかな指が花の群れに沈み、一輪の花を選び出して連れてゆく。
「以前この花を、あなたに手渡したことがありました」
立ち上がり、シルヴィオがアリシアに向かって手を伸ばした。鞄をきつく抱いていたアリシアの手をそっとつかむと、その手のひらを優しく上に向かせて、今手折ったばかりの花をふわりと乗せる。
「あなたのお疲れが、どうか癒されますように」
シルヴィオは胸に右手を当てて、深く頭を下げた。
騎士が神に捧げる祈りを、彼は今、アリシアに捧げている。
渡された花をつかんだまま、アリシアはうなずいた。そうすることしかできなかった。
眩い光に包まれて、彼の表情は見えない。涼やかなまなざしも、品のよい唇も、この瞬間、どんな色なのかすら。
「それでは、また」
踵を返してシルヴィオが去ってゆく。遠ざかる背中はぼんやりと滲み、段畠の下に沈むように消えた。
どれだけの間、立ち尽くしていたのか。
あたりは薄暗く、眼下に広がる街並みの明かりが、ぽつりぽつりとつき始めていた。その明かりが、揺らぐ。
またたくと明かりはなお揺らいで、そのうち、世界のすべてがゆらゆらと混ぜられていく。止めようのない熱い涙が、アリシアの頬をすべるように流れていった。
『あなたのお疲れが、どうか癒されますように』
優しい声が耳の奥で響いている。
「っ、……う……」
言葉にならない思いが、喉に詰まって苦しい。
どうして、こんなに。
嬉しいのに、胸が痛い。
声なき言葉は嗚咽になり、アリシアは崩れるようにその場にしゃがみこんだ。
「……っぱり……あきらめ……られないよ…………」
アリシアの独白は、薄墨のような宵空に吸い込まれて、溶けるように広がっていった。