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2. お命頂戴いたします

 昼下がり。

 聖堂裏の薬草畑で、アリシアはいつものように黙々と土を掘り返していた。小さな鍬を土に入れると、時折細い虫が中から這い出してくる。それを慣れた手つきで拾っては、別の土にぽいと戻して額の汗を拭った。

 掘り返した土はふっくらとして柔らかい。以前混ぜた堆肥がだいぶ馴染んでいるのだろう。これなら、夏に向けて薬草もしっかり育つに違いない。アリシアは鍬を置き、ふう、とその場にかがみ込む。

「穢れかあ……」

 足元に盛り上がる土の小山に目を落とし、次いで自分の両手をじっと見つめた。薄汚れ、汗ばんだ手袋を裏返すようにして脱ぐと、アリシアは「んぬっ!!」と勢いをつけて、素手を土の山に突っ込んだ。湿ってひんやりとした感覚が心地よい。

 両手を引き戻すと、指の間から土がこぼれていく。爪が黒く汚れ、手のひらも土まみれだ。

「さすがに違うよね……」

 穢れてみせると宣言したはいいものの、穢れの本質なんてまったく理解していない。もし穢れが己の内側に起因するものだったなら、自分こそが穢れの象徴だろう。この聖堂に数人所属している聖女の先輩たちはみな清らかで、俗っぽさとは無縁の生活をしている。「推しが見たいから聖女やめたいんです!」なんて言ったら卒倒してしまうのでは。

「ほんと、なんで私が聖女なのかな」

 背後で『コケー』と鶏が鳴く。

 アリシアはふたたび、小さく息を吐いた。


「ねーちゃん、なに土遊びしてんだ?」

 頭上からおちょくるような声がした。振り向くと、腕いっぱいの籠に果物を抱えた少年がにやにやと笑っている。

「ダリオ? えっと、これはただの土遊びじゃなくてね。……暗中模索、っていうか」

「むずかしー言葉つかってごまかしてるだろ!!」

「違うってば! いろいろ試してるの!」

 アリシアは気恥ずかしさでまくし立てた。手を念入りに払ってから水桶ですすぐ。

「そうだねーちゃん。これさ、うちの桃柑。今年は出来がいいんだ。でかいし、めちゃくちゃ甘くてさ」

 初夏の日差しに照らされて、ダリオの差し出した果物がきらきらと輝く。大人の手のひらより大きなものが、籠の中にごろごろと入っていて、受け取るとずっしりと重い。

「うわあ、すごい立派な桃柑! これは女神様もお喜びになるね。ダリオ、いつもありがとう」

 空いたほうの手で頭をぽんぽんと撫でると、ダリオは「やめろよー」と笑いながら手を払った。

 アリシアは重い籠を提げて宿舎の裏口に向かう。納戸に桃柑の籠をしまって裏庭に戻ると、ダリオが大きな麻袋と格闘していた。小脇に抱えた麻袋が、もごもごとうごめいている。

「え、何!?」

『コケッ!』

 どうやら中身は鶏らしい。そういえば、卵を産まなくなった鶏を譲るのだと数日前に聞いた気がする。

「この鶏、もらってく約束なんだ」

 麻袋の上からぎゅっと押さえつけると、ダリオは慣れた手つきで袋の口を縛った。

「今日はごちそうだぞー! 母ちゃんの鶏スープ楽しみだなあ」

 アリシアは息を呑んだ。さっきまで、自分の傍らにいた生き物が今夜の食卓に上る。卵を産まない鶏を譲るとはそういうことだ。

 聖女といえど、菜食を貫くわけではない。卵も肉もありがたく食べる。ただ、普段口にする肉はすでに『食べ物の形』をしたものだけだ。その意味を、これまで深く考えたことはなかった。

 卵を産まなくなった鶏をわざわざ譲るのは、女神様の御前を穢さないためなのかもしれない。

 もし、そうなら。

 アリシアは、ぐっと拳を握った。

「あの、さ。鶏を絞める役目、私がしても……いい?」

 唐突な申し出に、え? とダリオがこちらを向く。

「いいけどさ。ねーちゃん、聖女さまだろ? 絞められんの?」

「……わかんない。やったことないもん。でも、やらせてほしいんだ」

「なんで?」

「ちょっとね、聖女を……辞めようかなって。じゃないと、始まらないのよ」

「ふーん。大人って大変だな」

「まあ、ね」

 実際はただ推しの顔が見たいだけなのだけど――アリシアはえらく真面目な顔つきで頷いて見せた。


 ***


 納屋の裏手は、葉陰が日差しを遮って暗い。そこに何人かが集まっていた。ダリオが鶏を持ち帰ると、話を聞いたダリオの母は不思議そうにしながらも丁寧に手順を教えてくれた。

(やるのよ、アリシア)

 小刀を持った右手がぷるぷると震える。アリシアは半ば上に乗るようにして、両膝で鶏を押さえつけていた。

「ほんとにやるのかい?」

 ダリオの母は、まだ小さい末の娘を抱きながら心配そうにアリシアを見つめた。

「はい! 任せてください」

 鶏は意外なほど暴れない。そのせいか、足の間から伝わるぬくもりがまるで直に触れているようだった。

 推しの顔が、見たい。

 そんな自分勝手な欲のために、今から命を奪うのだ。

 自分がやらなくても誰かがやるとか、そんな話ではない。

 あの顔面を拝むために、その手を汚す覚悟があるか――それが今、問われている。

 大人しかった鶏が、くるりと首を伸ばした。羽毛はふわりと広がり、アリシアの左手をすり抜けた顔がこちらを向く。抵抗する素振りのない静かな瞳。これから起こることを悟った上で、その運命に逆らわない、そんな瞳だ。

(この鶏はたぶんわかってる。命がもうすぐ終わり、他の生き物の糧になるってことを。私は……自分が死ぬ時に、こんなに静かでいられるんだろうか……?)

「おかあちゃんー、おなかへった」

「もうちょっと待ってなさいね」

 ダリオの母の腕の中で、末の妹がぐずっている。今夜の食卓に出すのなら、のんびりしている暇はない。

 アリシアは、小刀を握る手に力を込めた。指先が冷えているのがわかる。

(どうかせめて、苦しまないように)

 祈りながら、もう一度鶏の顔に左手を被せた。


 その瞬間。


「えっ……?」


 アリシアの体から、あたたかな光が広がった。光はあたりを照らし、ゆるやかに強くなる。初めは目を細めていたアリシアも、もう眩しさに目を開けていられない。

「何? これ……」

 鶏の顔を押さえていた手を放し、思わず立ち上がる。

「コケー!!」

 鶏が一鳴きした。足元に卵が落ちている。そのまま鶏はなんでもないような顔で地面をついばみ始めた。

「おーい! 今の光はどうした?」

 遠くから、果樹の手入れをしていたダリオの父が、汗を拭き拭きやってくる。近くで立ち止まり、怪訝そうに首を傾げた。

「……ん!? 肩が軽い……!?」

 ぶんぶんと腕を振り回すダリオの父の横を、小さな老婦が元気そうに通り過ぎる。それを見たダリオの母が娘を降ろし、慌てた様子で駆け寄った。

「いやだお母さん、大丈夫なんですか!?」

「なんだか歩けそうな気がしてねえ。あら、あらあらあら」

 老婦は嬉しそうな顔をして、はつらつと歩き回っている。

 虫でも見つけたのか、卵を産んだ鶏はしきりに何かをついばんでいる。その横では、降ろされた娘が「おかあちゃーん!」と母を呼び、ダリオの母があたふたと戻ってきていた。

「とりさん元気なったよ! おかあちゃん、とりさんおうちにいていい?」

「ええ!? ……そうねえ、でも、元は女神様のところの鶏だし」

 ダリオの母は、こちらをうかがうように振り向いた。

「あの、もしよければ、こちらでお世話していただいてもいいですか? この子も元気そうですし、また卵も産むと思います」

「やったあ!」

 喜びはしゃぐ娘をダリオの母が軽くたしなめる。騒ぎを聞きつけたのか、ダリオがその脇からひょこっと顔を出した。

「おにいちゃん、とりさんね、今日からいっしょ!」

「なんだよそれ!? 鶏のスープは!?」

「とりさんたまごうんでくれるって!」

 ダリオが呆れた顔で、アリシアを見つめた。

「……ねーちゃん、癒し使ったろ。聖女やめるんじゃなかったの?」

「その、つもりだったんだけど」

「ちぇー、鶏スープはおあずけかー」

 ごめん、と気まずさを感じるアリシアの足元を、鶏がココココとのどかに通り抜けていった。


 元気になった鶏をただではもらえない、体の調子まで治してくれて、と、ダリオの父はもぎたての桃柑を山ほど持たせてくれた。

 桃柑の甘い香りをかぎながら、アリシアはふっと顔をほころばせる。

「なんか、みんな、元気になってよかったな」

 満ち足りた気持ちは、アリシアの足取りを軽くさせた。聖堂に帰る道が行きよりもうんと近い。

 でも。

 脳裏に、まばゆく光るシルヴィオの顔がよぎる。


(やっぱり、やっぱり……推しの顔が見たいよお!!!)


 声無き叫びは淡い夕暮れの空に溶ける。一番星がちかちかと応えるようにきらめいて、アリシアはしょんぼりと肩を落とした。

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