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1. 聖女様は退職したい

 はじまりは二年前、アリシアが聖女になる前の年。まだ神の加護もなく、朝夕の祈りも義務でしかなかった頃のこと。

 新しく赴任してきた聖騎士が挨拶に来るとの連絡があり、聖堂の空気は朝から重く張り詰めていた。

 未明より降り続く雨が中庭の木々を鈍く打ち、枝葉の先からは連なるような雫が外廻廊の石床へと垂れている。

 掃除当番のアリシアは意味がないと思いながらも、少しでも歩きやすいよう、濡れた床を重い箒で掃いていた。


 気づけば石床の上に一輪の花が落ちている。どこからか飛ばされてきたのだろう、茎が途中から折れ、雨でしとどに濡れていた。夜明けの空を思わせる青とも薄紅ともつかない花弁は瑞々しくほころび、そのまま捨て置くには忍びない。


「あ……」


 アリシアが拾おうと手を伸ばすよりも早く、誰かの手がその花を救い出した。


 雨に濡れた長めの黒髪。騎士を示す紺の外套が水を吸って暗く、肩の留め具は雨空の下にあってなお慎ましく光る。


「どうぞ」


 低く、穏やかな声は柔らかい。

 差し出されるままに花を受け取ろうとしたとき、その騎士が不意にこちらを向いた。


 水滴が肌を伝い、涼やかなまなざしを通り過ぎて落ちる。その滴が落ちる音だけが世界中でただひとつ明るい。


 神はいた。


 そう思った。


 以来アリシアは、かの聖騎士を見かけるたびに慈愛の女神に感謝を奉じ、その顔面の尊さをミレーヌに呆れられるほど語り倒した。

 聖騎士は時折、巡回の傍ら聖堂に立ち寄っては敬虔な祈りを捧げて去ってゆく。たいていは遠くからその背を見つめるだけ、もし横顔を垣間見られれば夢の中まで上の空だった。

 そんなささやかな幸せで満足していたある日、アリシアは彼と間近で遭遇した。何を会話したのか覚えていない。たわいのない言葉を交わし、微笑まれ、爆発するような感情とともにアリシアは倒れた。


***


「本当に、あんたのシルヴィオ様推しは命がけだったよね」

 朝の祈祷が済んだ聖堂で、信徒席を拭き上げながらミレーヌが笑った。

「よかったじゃない、女神様のご加護で守ってもらえて」

 一年前に倒れたあの日、目覚めたら聖女の力が備わっていた。神の加護が身に宿り、厄災がアリシアを襲うことはなくなった。奇跡だ、喜ばしいことだ、と皆が口々に祝福した。


「聖女辞めたい」

「はぁ!?」


 細い眉を吊り上げて、ミレーヌは大口を開けたまま微動だにしない。

 アリシアは磨かれた信徒席にわっと顔を伏せた。


「だって! もう限界なの!! シルヴィオ様のご尊顔をこの先二度と拝めないなんて……そりゃね、輝くお姿も素敵だよ? 素敵だけど、でも、やっぱり、お顔が見たいのよ……」

「シルヴィオ様見ても平常心でいたらいいのよ」

「そんなの、天地がひっくり返っても無理だもの!!」


 あんたねえ、とミレーヌの呆れ声が上から降ってくる。信徒席から追い立てられたアリシアは、涙の落ちた座面が拭われていくのをやりきれない思いで眺めていた。

「どうしたら聖女じゃなくなるんだろう」

「知らないわよ。まったく、なんでこんな煩悩娘が聖女なんだか」

「私も知りたい」

 アリシアは女神像を振り仰ぐ。

 女神様。なぜ、こんな私があなたの御使いに選ばれたのでしょうか。自らの欲望のため、使命を投げ出したいと願う汚れた人間なのに。

 女神は黙して語らない。ただ慈しむような微笑みを唇の端にたたえ、ゆったりと広がる両手はアリシアの悩みすら包み込んでくれるかのように差し伸べられている。


 …………

 …………


 肩を軽く叩かれて、アリシアは我に返った。

 知らず、女神像の前にひざまずいて頭を垂れている。

「お祈りの邪魔して悪いけど、掃除終わったからもう行くわ」

 掃除用の水桶と雑巾を手早くまとめ、ミレーヌは奉仕着の裾をはたいた。

「うわ、ごめんね。お掃除手伝うって言ったのに」

 見回せば、掃除どころか花の生け替えまで終わっている。この広い聖堂をひとりで清めるとなるとかなりの時間がかかっただろう。アリシアはせめて片付けでもと思い、水桶に手を伸ばした。それを引ったくるようにして、ミレーヌが笑う。

「何言ってんの、あんたの仕事は祈ることでしょ! いっぱい祈って私の分まで徳積んでよね?」

 アリシアは眉をひそめ、思い切り神妙な顔つきをした。

「『徳とは他人に積ませるものではありません。自らの信仰により日々少しずつ積み上げるものなのです』」

「やば! 似てる!!」

 こらえきれずにミレーヌがふき出した。

「とても煩悩聖女が言ってるとは思えないわ」

「ちょっと! 煩悩はともかく、心は十分清らかですけど!?」

「推しの顔を見たくて聖女辞めたいくらいなのに?」

「うっ……それはですね……」

 ミレーヌが、笑い涙を拭いながら言った。

「まあ、あんたの推しは強烈だもんね。聖女辞めてまで見たくなる気持ちもわからんでもないけどさ。……っと、無駄口叩いてたら本当に院長に怒られちゃうわ。じゃあ、あんたも聖女様のお仕事励んでね」

 側廊へと続く扉を押し開けて、ミレーヌはアリシアを振り返った。

「……あー……」

 視線を横に流し、次の言葉を迷っている。言い淀む姿は彼女にしては珍しい。

「なに? どうかした?」

 アリシアの問いかけに、ミレーヌは何かを諦めたように息を吐いた。

「いや、昔話でね、聖女の力を失った人がいるって聞いたのを思い出したの」

「えっ!? どうして……」

「詳しくは知らないんだけど、穢れがどう、とか」

 穢れ、とアリシアは口の中で繰り返す。

 聖女が呟くには穏当でない響きの言葉を何度も反芻して、アリシアは「よし」と頷いた。

「ミレーヌ。私決めた」

 顔を上げたアリシアを目にして、ミレーヌは不気味そうに一歩後ずさる。


「私、思いっきり穢れてみせるよ!!!」

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