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1-0 プロローグ

強い日差しの中、青年は歩き続けていた。


どこまで歩けばこの、変わらぬ景色が終わるのだろうか。体力はとっくに限界を迎え、足取りは重く、額の汗が止まらない。

目の前に広がるのは、一面の草原。風に揺れる緑の波の中に、人の気配は一切ない。


どうして、こんなことになったのか。


相田皐月は、自分がここにいる理由を理解しようと、繰り返し記憶を辿っていた。



あの日の午後は、ごく普通の大学の実験実習だった。

言ってしまえば粉末と液体を混ぜて温め、機械に入れて測定するだけの簡単な作業。4人ひと組のグループで、皐月はいつも通り作業の大半を任されていた。


「ツッキー、いつもありがとー。真面目だね、ほんと」


「成海、もっと真面目にやりなさい。有紀、あんたもよ」


「俺もちゃんとやってるけどな〜?」


班のメンバーは男女2人ずつ。要領のいいタイプと、やる気のあるタイプでいい感じのバランスが取れていた。

騒がしくも、どこか楽しい時間。それが、いつも通りの日常のはずだった。


「皐月、私はこっちの試薬準備するから、ガスバーナーに火をつけて――ひっ!」


班のメンバー、美雨が指示を飛ばした次の瞬間、ふいに固まる。


「わー。ネズミじゃん。隣の教室、今日たしか動物実験だったよねえ?」


成海が美雨の視線の先を見て、気楽そうにそう言った。


だが美雨の表情は、見る見るうちに青ざめていく。


「む、無理……無理無理無理! 私、動物ほんっとダメなの! ……いやあああ、こっち来るぅ!」


小さな白い影が、美雨に向かって一直線に駆けてきた。


咄嗟に逃げようと身をひねった美雨の肘が、机の端に置いてあった瓶を弾き飛ばす。


「危なっ……!」


美雨が瓶を倒した音とともに、パリンとガラスの割れる音が教室に響く。瓶の中身――透明な液体が床に広がり、ツンと鼻を刺す揮発臭が立ち上った。


「やば、これはっ……!」


無色透明で揮発性の高い有機溶媒。しかもこの暑さと、締め切った実験室。空気の流れがほとんど無い。


「あ、待っ――!」


皐月は、すばやくその小さな影を片手で捕まえた。必死にもがくそれを、優しく、それでいて逃さぬようにしっかりと握る。


だが――


「……目、変じゃないか……?」


じっとこちらを見返す黒い瞳。その奥に、不気味な光が一瞬だけきらめいた気がした。


皐月が一瞬気を取られたその隙に、腕の中から逃れようと暴れた小さな体がするりと手からこぼれそうになる。


「皐月、ありがと……って、ちょっと! 片手にマッチ火ついたままじゃない!」


「あ、ほんとだ。美雨、これ消せる……? いってっ!」


逃げ出したネズミが皐月の親指の付け根にガブリと噛みついた。その瞬間、もう片手に握っていたマッチがするりと滑り落ちる。


赤い火先を静かに灯したまま、重力に引かれて――床へ。


ぱしん――

落下音とほぼ同時に、炎が液面に一気に走った。


「危ない、離れて!」


皐月の叫びと同時に、炎が波紋のように広がっていく。教室中の生徒たちが顔を強張らせて後ずさる。


「水はダメ!誰か消火器持ってきて!近づいちゃダメよ!」


監督教員の声が響くが、皐月の視線はその炎の中、何か小さな影が突っ込んでいくのを見逃さなかった。


「ダメだ!」


「皐月! 危ない、放っとけ!」


皐月の腕を咄嗟に有紀が引っ張る。女子ふたりは恐怖に目を覆った。


マウスは迷いもせず、火の中をまっすぐに進んでいく。そしてその小さな身体が炎に包まれた次の瞬間――


火が膨れ上がった。


一匹の小動物が焼けるはずの炎は、膨張し、変質し、紫がかった異様な輝きを放ち始める。


空気が軋むような音。床が微かに震える。燃え上がる炎の中に、目を光らせる獣のような影が浮かび上がる。


「……なん、だ……?」


皐月が言葉を失った瞬間、炎は咆哮のように燃え広がり、実験室を包み込む。


眩い光とともに、意識が遠のいていく中で、彼の脳裏に焼き付いたのはただ一つ。


あのマウスの目と同じ、妖しく輝く紫の炎――。



「……まぶしい……」


意識が戻る。けれど、目を開けるのがつらいほどの光が降り注いでいた。

やがて、ゆっくりと目が慣れ、それが太陽の光だと気づく。


「……太陽?俺……室内にいたはずだよな……」


辺りを見回すと、そこにはただ風に揺れる草原だけが広がっていた。建物も、実験室も、仲間の姿もどこにもない。


これは夢か、あるいは死後の世界か。

まさかとは思うが、頭に浮かぶ一つの可能性があった。


「あの爆発で……異世界に?」


我ながらバカな妄想だと、皐月は苦笑した。だが、あのマウスの目、あの炎の姿――何もかも現実離れしていたのは確かだった。


「……笑うしかないよな」


仲間たちは無事だろうか。自分のせいで、誰かが傷ついてはいないか――

罪悪感が胸にのしかかるが、今は何も確かめようがない。


「こんなとこで座ってても、何もわからないよな」


草を払い、立ち上がる。少し大げさに背伸びをすると、彼は深呼吸をひとつした。


「……とりあえず、あっち行ってみるか」


そう呟いて、白衣姿の青年・相田皐月は、何もない草原の中を歩き出した。

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